3 ウォーレスの執務室
昼間の日差しは春めいてきたものの、根雪は残りまだ薄氷が張る日が続く冬の終わり。
毛布にくるまった子どもたちが雪解けの野原を駆け回る夢を見る横で、農家の夫婦は今年の植え付けは暦通りに行えるだろうと、期待を込めて額を寄せ合う。
ウォーレス伯爵ネイサン・カーライルはひどい顰め面で伯爵家の執務室にいた。非難の矛先はたった今部屋に入って来て真正面に立つ祖母、レディ・ベアトリクス・カーライルに向けられている。
「……いま何と?」
「おお嫌だ、耳まで悪くなったのですか。いいでしょう、もう一度だけ言いますからよくお聞きなさい。『ネイサン、貴方の妻を決めました』と、私はそう言ったのです」
真っ白の髪を複雑に結いあげ、まるで鋼でも入っているかのようにまっすぐに伸びた背筋は杖をついて尚、老いを感じさせない。
レディ・ベアトリクスはまさに『威厳』という二文字がよく似合う女性だった。
「――どういうことでしょうか。説明を」
「耳の次は頭までとは。理解が遅くてはお勤めもままなりませんね、情けないこと。そんな体たらくで伯爵家当主とは全くもって嘆かわしい。意味などそのままです、ネイサン。貴方に婚姻の意思がなさそうなので、私が適当に選んだ妻をあてがいました」
ガタリと音を立てて立ち上がったネイサンに見下ろされる格好になっても、ベアトリクスは少しも揺るがない。かえって片眉を上げて無作法をたしなめられる始末だ。
一触即発の雰囲気に、間をとりなす声が響く。
「まあまあ、二人とも落ち着いて。で、どこのお嬢さんなんですか、この『黒伯爵』に嫁ごうって奇特なご令嬢は」
「アラン、貴方もいつまでもフラフラと……まあ、いいでしょう。クレイトン男爵家の一人娘です。先月王都に行ったついでに貰う話をつけてきました」
「クレイトン……王都の近くでしたね。へえ、あそこに年頃のお嬢さんがいたとは知らなかったな。それにしてもレディ、『ついでに貰う』なんて猫の子じゃあるまいし」
「猫と一緒ですよ。当主が病で伏せっていて、代替わりしたら早々に放逐される身の上です。大した教育も受けておらず社交も期待できない娘ですが、クレイトンは歴史だけは長い家ですからね。捨てられるのを拾ってやるのですから、慈善と変わりません」
ネイサンの眉間のシワは、どんどん深くなっていく。線はやや細いものの上背があり、黒髪に半分隠された険のある目元は少し光量を抑えた明かりと相まって、それこそ悪魔のような空気をまとっていった。
「お祖母様、何を勝手に」
「文句があるのなら、その歳まで妻の一人子の一人もいない自分の不甲斐なさを責めなさい。伯爵家を貴方の代で絶やすつもりですか、この不孝者」
トン、と杖を鳴らして顎を上げたベアトリクスとネイサンは鋭い視線で対峙する。折しもみぞれまじりの雨の夜、さらに冷え込んだ執務室の室温にアランは思わず腕を擦った。
「ま、まあまあ、」
「お前は黙っていろ、アラン。お祖母様、いくら貴女でもそんなことが許されるとお思いですか」
「許されるも何も既に届けは済んでいます。とうに先月から、貴方は妻帯者なのですよ」
パサリ、と置かれた書類をひったくるようにして取ったネイサンは、紙面に目を落とし言葉を失くす。自分の名前が書かれた婚姻証明書の写しが手の中でくしゃりと歪んだ。
「……署名した記憶はありません」
「覚えがあったらそれこそ問題です。私の署名と、貴方が私に預けている伯爵家の印で事足りる、その程度のことに即座に考えが及ばないから、こうやって足元を掬われるのです」
ウォーレス伯当主を継いで以来、王宮関係の執務に忙しく、領地の運営に関してはそのまま祖母に任せ決定権も渡していた。
随分前から跡目についてはうるさく言われていたが、まさかそれを悪用し強引にことを押し進めるとは予想外だった……いや、祖母はもともとこういう人だった。結婚など考えたくなくて見ないふりをしてきたのだ。
父亡き後、ネイサンが成人するまでの数年間。領主代行として立ち、この気概と手腕によって他の貴族たちの横槍をことごとく退けてきた祖母。
この婚姻だって、一ヶ月の異議申立て期間を過ぎたからこそこうして話してきたのだろう事は想像に難くない。これ以後は受理の取り消しは不可能で、破棄しようとすればすなわち離婚となる。
貴族間の離婚は認められてはいるものの、好意的に受け入れられてるとは言いがたく、また、その事務手続きもかなり複雑になり時間がかかる。スムーズにいって半年、中には二年三年とかかることもザラだ。もともと政略結婚が多い事もあり、わざわざ離婚せず別居などで済ますケースの方が一般的だ。
ふん、と勝ち誇ったように片手を腰に当てて宣言される。
「これは決定事項です。異論は認めません。そもそも、迎えるための部屋の準備だって隠しもせず随分前から行っていたのに、それにも気が付かないなんて。目も耳も一体どこに付いているのやら。自業自得です」
ここしばらくは忙しくて、別棟に泊まり込んでの作業が続いていた。久しぶりに本邸の執務室に戻ってきたところを急襲されたのだ。
ギロリと剣呑な目を向けられて、諸事報告をする役目のアランはさっと横を向く。いや、何かやってるとは思ってたけどまさか、などと口の中でボソボソ呟いて、わざと明るい口調でこの場の主役である女主人に向かって逃げを打った。
「あー、レディ? 一応確認ですけど、クレイトンのご令嬢はもちろんこちらの事情を諸々ご納得の上、輿入れなさるのですよね」
「……格下の娘が簡単に知っていい内容だと?」
アランの質問に、ベアトリクスは優雅な動作で扇を広げると口元を隠し、視線を外した。くだらない質問と呆れたようなその口ぶりに、アランは顔を引きつらせる。
「つまりご令嬢は、伯爵家について何一つご存知ない。これから知らせる必要も――ないと仰せで」
沈黙は肯定。アランは深い溜息を吐いた。ネイサンに至ってはいろんなところに青筋が立っている。相手が男だったら殴りかかっていただろう。そんなことは絶対にしないとアランは知っているが、それくらい物騒な雰囲気だった。
それを知ってか、ベアトリクスはさらにネイサンへ言い募る。
「娘は、今は二か月前に倒れた当主の看病をしていますが、向こうでの用が済めばすぐにこちらに迎えます。ネイサン、貴方も若くないのですから一年……いいえ、半年以内に必ず後継をつくりなさい」
「私はまだ、」
「三十にもなれば十分です。娘はもうじき十九だから問題ないでしょう」
歳の差っ、とポツリもらしたアランは鬼の形相でネイサンに睨まれて、慌ててまた顔を背けたところに、今度は氷のような視線でベアトリクスから凄まれる。
「私が十六歳で伯爵家に嫁いだ時、旦那様は三十五歳。ネイサンの父親が生まれたのは翌年です。何か問題が?」
「イエ、全く何もゴザイマセン……失礼致しました」
深々と礼をしたアランをつまらなそうに一瞥すると、ベアトリクスはネイサンに向かって溜息を吐いた。
「あれから何年ですか。いい加減に、取り潰しになった家の娘のことなど忘れなさい」
「――お祖母様。私は彼女のことは」
「結婚はしたくないと言うその口で、引きずっていないなどとよく言えますね。曇った鏡を磨きもしないで困ったこと。クレイトンの娘が気に入らなかったら、子どもを産ませた後は好きにすればよろしい。娘は王都の屋敷で私の侍女にでもしますから」
聞き分けのない子どもを諭すような口調に、ますます室内の雰囲気は重く気まずくなる。ちょうどその時、執務室の厚い扉にノッカーの音が響いた。
二人の言い争いを空気になってやり過ごしていたアランはほっとして駆け寄り、老執事から手紙を受け取る。それは、急ぎベアトリクスに宛てたものであった。
入室してからずっと立ったまま話を進めていたベアトリクスはようやくソファーに腰をおろし、その場で手紙を開封する。
まるで中身が分かっているようにゆっくりと便箋を開くと、字を追いながら女主人の顔で指示を飛ばした。
「出かけます。アラン、供をなさい」
「えっ俺、いえ、私がですか?」
「セバスはちょうど今朝、腰を痛めたのですよ。全く間の悪い」
「はあ、分かりました。それで、どちらへ」
ベアトリクスはすぐには答えず、ゆっくりと便箋を畳んだ。立ち上がると杖に少しだけ体を預けながら扉の前まで行き、振り返らずに固い声で告げる。
「……クレイトンの当主が亡くなりました。ステラ・クレイトンを迎えに行きます」
出発は明日の朝だとごく当たり前のように告げられて、二人はまた言葉を失くすのだった。