2 嫁入り道中
伯爵家からの迎えが来たのは次の週だった。かかる時間と距離を考えれば、クレイトン卿が亡くなったと聞いてすぐに向こうを発ったものと思われる。
数日ゆっくりしてはとの申し出はにこやかに却下され、翌日にはウォーレス領に向かう馬車の中にいたのだった。
華美ではない贅が尽くされた広い馬車内はとても居心地が良く、長距離の移動用のためか座り心地も快適。馴染みのない豪華さに最初はケリーと二人でそわそわ落ち着かなかったが、十日近くも乗り続ければすっかり慣れてくつろげるようになっていた。
執務室で告げられたあの日から出立までの一週間は、あっという間だった。
身一つでいいと伝えられたものの、使い慣れた身の回りの物や思い出の品くらいは持っていきたい。そう思って荷造りを始めたが、生まれてからずっと暮らしていた屋敷の中はブラシ一つにだって思い出が詰まっている。
祖父との別れに参列してくれた方々への御礼状をしたためながらの荷造りは、何度も手が止まった。
合間に、ステラがいなくなることを知って屋敷を訪れた領民たちとも別れの挨拶を交わす。急な代替わりに不安がっている彼らを宥めているうちに、自分の方の気持ちも落ち着いて来た。
それに、叔父の領民たちへの態度は多少強引ながらも誠実さがうかがえた。変化は免れないが、そう悪いことにもならないようだと、やや安心した彼らの気がかりはそのまま方向を変えてステラに向くことになる。
頼もしくも穏やかだった前領主は、領民から信頼を寄せられていた。その孫娘が嫁ぐとなれば、我が事のように気になるのが人の性。
親戚が新聞記者をしている者、王都の貴族邸に子どもが勤めている者、商いのついでにわざわざ噂話を集めて来た者……どこにそんな情報網があったものか、これは驚くところか嗜めるところかとステラが迷っているうちに、まだ見ぬ旦那様『ウォーレス伯爵』の人物像はあれよあれよという間に形作られていく。
そうして、あまりありがたくない情報がステラの元に集まった。
曰く――。
王都では『影伯爵』とも呼ばれているが、領地近辺では『黒伯爵』の通り名で恐れられている。
黒いローブや帽子を常に深く被っており、直接顔を見たものはいない。
目が合うと生気を吸い取られる。
昼間に姿を見かけると、晴れていても嵐になる。
月のない晩は伯爵が夜中に来て鶏の卵を取っていく。
「……ちょっと待って。それは、いくら何でも」
「全くです。卵はないでしょうよ」
卵以外も大概だと思うが。顔を見たものはいないと言いながら、どうやって目を合わせられるのか。まるで童話の悪役ではないかと、思わず額に手を当ててしまう。
眉を寄せるステラとケリーに、仕入れから戻った小間物屋の夫婦はそうは言っても、と言葉を重ねる。
「でもですね、お嬢様。ウォーレス伯爵様について聞けば、よく知らないって人の方が多かったですが、知ってるって人達は大体がこんなところでして」
「そりゃあ、噂話だってのは分かってますよ。でも、火のないところに煙は立たないっていうでしょう。そんな人のところに、わ、私らのお嬢様が嫁ぎなさるなんて……っ」
おいおいと泣かれてしまい逆にこちらが慰める始末。こんな情報ばかりを落とされて泣きたいのはこちらのほうだが、純粋に好意からの行動を頭ごなしに咎める気にもなれない。
噂には、実は本人に姿を似せた悪魔が成り代わっているのだ、という三文小説のようなものまであった。一事が万事この調子で、信用できそうな情報はつまるところ『伯爵が黒い服を好み、滅多に人前に姿を現さない』ことくらいだった。
旅中の宿で寝支度をしながら飲み込んだため息は、侍女に伝わってしまった。鏡越しに目が合って、慌てて何でもないと笑ってみせるが遅かったようだ。
表情も感情も、取り繕う必要のない生活を送ってきたステラは仮面をかぶることが不得手だ。こんなに貴族らしくなくて、果たして格上の伯爵家の女主人が務まるのかと我ながら不安に思う。
「まったく、もう少しまともな噂はなかったのでしょうかね。まあ一応、覚悟だけはして参りましょう」
「ケリーにも心配をかけてしまっているわね……でもほら、噂って大げさになるものだわ」
「内容の真偽はともかく、ひとつくらい好意的な噂があってもよろしいでしょうに」
「ええと、確か、お声は素敵だとか」
「滅多にお話しにならないとも聞きましたわね。お声を出された日は夏なのに雪が降るとも。きっと、笑いなさった日には槍が降って地が割れることでしょうよ」
二人だけの時に限るが、ケリーは真っ直ぐに伯爵とその噂について口にする。立場上、言うことができないステラの代わりに、不安と不満を外に出して気を紛らわせてくれているのだ。そこに冗談を混ぜて噂は噂だと強調することも忘れない。
祖父が亡くなってからこの結婚に至るまでのあれこれに今も思うところがあるのに、こうして自ら望んでついてきてくれた侍女。無責任に『大丈夫ですよ』などと言わないケリーを、ステラはやはり姉のように感じていた。
ステラの薄金色の髪を梳きながらケリーにウインクで茶化されて、少し心が軽くなる。
そう、きっと、くだらない噂話なのだ……いつの間にか姿を消したかつての婚約者は、実は別れたのではなく、伯爵邸の地下牢で冷たくなっているのだとか、そういうことも含めて。
「リーヴさんと直接お話しできれば、こんなに悩むこともないはずなんだけど」
「仕方ないですね。旦那様の不在時に奥方様と他の殿方が近しく接するのはよろしくないですし……あの方も煩いくらいに話すくせに、伯爵様のことに関してだけは全くもって口が堅い」
「あら、でもケリーとは随分気が合っていたように思ったけど? 今日もなにか楽しそうに話していたじゃない」
「お嬢様、不本意です」
くすくす笑うステラに、ケリーは眉を顰めてみせる。
迎えに来た男性はアラン・リーヴと名乗った。ウォーレス伯爵の従兄弟で、仕事の補佐もしているという。
ケリーよりも幾分歳上で、明るい栗色の巻き毛を綺麗に短く揃えており、人懐こそうに見える瞳には悪い意味ではない抜け目のなさが感じられた。
予定ではウォーレス伯爵の祖母、レディ・ベアトリクス・カーライルが同行するはずであったが、公爵夫人に急に呼び出されてかなわなくなったと謝罪を受けた。そのためか、侍女を一人帯同したいことをおずおずと願い出れば、逆にほっとした様子で二つ返事で許された。
醜聞を気にしてか接触は最小限で、交わす言葉も挨拶程度。箱型の馬車に乗っているのはステラとケリーだけで、一人馬に跨り並走を続けている。
馬車から降りる際のエスコートを一度ならず引き止めて、少しでも会話をと試みたがスマートに躱されてしまい食事のテーブルさえ別。ケリーを通して聞いてみるものの『着けば分かります』『お話はご本人同士で』とばかり。
遠くからステラを見る瞳に害意は感じられず、視線も柔らかいものだが、僅かばかり哀れみを含んでいるようなのが気にかかった。
「本当かどうか、明日には分かりますよ」
「……そうね」
「噂どおりだったら、そのまま引き返すだけです」
「ケリーってば」
領地から滅多に出たことがなく旅慣れないステラの体調に気をつかって、旅路はゆっくりめ。伯爵家の馬車は揺れも少なく、泊まる宿も吟味されていた。
旅の最後の晩となる今日の宿もこの辺りでは一番らしく、ゆったりとした寝台の個室には風呂まで付いている。格下の男爵家に対して破格とも思える扱いには心遣いが窺え、悪魔だのと恐れられている人とはおよそ結びつかない。
旅路を進むにつれて季節は逆に戻り、所々に残る雪に冷やされた風が冷たい。細く火が入れられた暖炉と厚い毛布が重ねられた布団に、北の地に来たのだと実感する。
テーブルに置かれた蜂蜜酒は、ステラがウォーレス伯爵の元へ嫁ぎにきたと知った宿の女将さんからの差し入れだ。各家庭で味が違い、うちのは花の香りのする蜂蜜を使っていて美味しいのよ、と言いながらステラの手を握りしめ可哀想な子を見る目で涙ぐまれた。
……噂は噂。そう言い聞かせ蜂蜜酒をコクリと飲んで、ふかふかの寝台に入ったのだった。