私の旦那様
甘いだけの後日談です。
(前ページの登場人物紹介と合わせて、本日二話同時更新しております)
「あれ、ネイサンどうした?」
届けたばかりの手紙の表書きを見つめたまま黙り込むネイサンに、アランは声をかけた。手元を覗き込んでも、あるのは特に変わった所のない、さっき渡した奥方様からのいつもの手紙。
すっかり夫婦らしくなって二人で過ごす時間が格段に増えてからは、この手紙もだいぶ数を減らした。しかし全く途絶えたわけではなく、こうやってネイサンが執務室に詰めている時などは日に一度届けられている。
「いや……アラン。お前、ステラからどう呼ばれている?」
「え? いっちばん最初は苗字だったけど、こっちにきてからは『アラン』って呼んでもらって……あ、あれだよ、俺から頼んだのだから! 家の中でまで堅苦しいのなんて嫌だろ?」
そこでアランはふと気付いた。奥方様からの手紙にはいつも『旦那様』と書いてあり、名前だったことはない。ステラの声を思い返しても『だんなさま』しか聞き覚えがない。
「ケリーはケリーだしな。使用人頭連中もみんな名前だった」
「あー、ネイトもしかして……奥方様から名前で呼ばれたこと、ない?」
ネイサンは手に青筋を立てて握り込みながらも、持った手紙にはシワひとつ寄らないという器用なことをやってみせた。その代わり眉間には深く深く刻まれたが。
「……ない事は、無い。だが普段は『旦那様』だな」
ステラがネイサンのことを名前で呼ぶのは、ケリーもアランも誰もいない二人っきりの時。つまりは寝室でだけだ。それもネイサンが呼ばせているようなものだが。
「え、そ、そう――な、何か、しきたりとかじゃないの? ほら向こうで受けた淑女教育とか、『代々クレイトン家に伝わる〜』とかさっ……あ、俺、ちょっと用事がっ。ネイトまたね!」
ネイサンの周りの温度が下がって行く気配を感じて、アランは早々に逃げ出した。
「……ってなことがあったんだけど。ケリーは気付いてた?」
相変わらず生真面目で若干無表情な奥方様の専属侍女は、新しく届いたドレスの手入れの真っ最中だった。奥方様が止めるのも聞かず、次々と新しい服や何やを贈る人が伯爵家にはいるのだ。それも二人も。
作業の手は止めず、走り込んできたアランに冷ややかな目線だけをくれる。
「それが何か」
「いやあ、あれはヤキモチだね。嫉妬だよ、嫉妬。あのネイサンがねえ」
うくくっと肩を寄せて笑うアランに、ケリーは小さいため息をこぼす。
「……楽しんでいらっしゃるようですし、では失礼を」
箱や包み紙をまとめて部屋を出ようとするケリーの肘に手を掛け、慌てて引き止める。
「や、ちょっと待って待って。奥方様に理由はあるの? それとも無意識?」
「ステラ様にお聞きすればいいじゃないですか――伯爵様が、ご自分で」
その方がハッキリするし納得されるでしょう、とのケリーの正論にアランは眉を下げる。
「実は名前を呼びたくないの、なんてことをもしも言われたら、あいつ使い物にならなくなっちゃうよ」
「事実は事実と受け止める度量が」
「頼むよ、ケリー」
「どうして私が」
困ったように、でも嬉しそうにしてアランは掴んだ手を、ケリーの肘から手首の方へ移動させる。
「俺が奥方様に話しかけると、静かーに怒ってるんだよ。もう、おかしいったら……本当、嬉しい。何にも興味のない目をして、全部置いて行こうとしていたあいつがあんなに人間らしく戻って。ありがとうね、ケリーも」
そういってごく自然に引き寄せた指先に唇を落とす。ケリーの綺麗に揃えられた爪先がピクリと震えた、その時。中途半端に開いていた扉が動いた。
「……あ、ごめんなさい、お邪魔したわ」
「っ、ステラ様っ!? 違います、誤解ですっ!」
「いいのよ、ケリーとアランはお似合いだって思ってたの。あの、でも、すぐには辞めないでくれると嬉しいのだけど……」
「違いますっ!」
「いやあ、俺は是非そう願いたいねえ」
「アランっ!」
いつまでも手を離さないアランから自分の手を無理矢理奪還すると、少し頬を赤らめてにこにこしている自分の主人の誤解を解くべく、ケリーは最初から説明を始めた。
「……え、名前」
「そうなんですよ、何か理由がおありで?」
「理由というか……でも、旦那様がそれで嫌な気分になられているのなら。そうね、分かったわ」
指先を顎に軽く当てて思案顔で小首を傾げるステラは、少し残念そうに言った。
「いや、あの、別に無理に変えなくとも。その理由って何です? 差し支えなければ」
しばし躊躇ったのちに、大したことじゃないのだけど、とステラは眉を下げた笑顔で話し出す。長くもないその説明を聞いた二人は顔を見合わせた。
その日の夕方、本邸の自室に戻ったネイサンはまだ先のことを引きずっていた。
そもそも、自分たちはお互いに強引な政略結婚で始まった間柄だ。ステラの性格からして、きっと相手が自分だろうと誰だろうと遺言に従い嫁ぎ、そこでその相手と関係を育んだろうことは想像に難くない。
――自分が選んだわけでもないが、自分こそが選ばれたわけでもないのだ。
なかったかもしれない現在を考えると、無性に心が騒ぐ。
ステラが自分に向ける感情は、確かに愛情と呼べるものだろう。しかし、ちょっとしたことでネイサンの足元はぐらつき、不安になる。随分弱くなったものだと思うが、こんな自分の方がいいと周囲の人間は口を揃える。
夕食の前に作業で汚れたシャツを脱ぎ、こざっぱりとした服に着替えカフスを止めていると、寝室の方の扉が軽くノックされた。
「ステラか。どうした」
そこの扉を使うのは自分たち夫婦のみ。顔も上げずに応えたが、やはり入ってきたのは愛しい妻だった。贈ったばかりの新しいドレスを着て、少し恥ずかしそうに入ってくる。
「ごめんなさい、お支度中でしたね」
「ああ、構わない」
シャツの前ボタンはまだ全部とまっていない。夫の肌など見慣れているだろうに、ステラはこういう時いつも頬を染めて目を泳がす。そんなところがまた可愛いらしく思えてしまい、少し意地悪をしたくなるのが困ったことだ。
「待たせたか?」
「いえ、そうではなく……あの、ネイサン」
プツ、と嵌まるはずだったカフスボタンがずれた。胸の前で指を合わせて、耳の先を赤くしている妻と微妙に視線が合わない。
「アランから聞きました。気にされていたのですって」
「……あいつ」
なんともモヤモヤしたものが湧き上がる。そんなネイサンの内心を知ってか知らずか、おずおずとステラは話し始めた。
「ごめんなさい、気付かなくて」
「いや、責めてるわけじゃない」
「あの、すごく。すごく子どもっぽい理由なんですけど、でも、」
理由があったかと、ネイサンはやや驚く。慣習でも拒絶でもなかったことに俄然興味は湧くが、半分聞くのが怖い気もしてしまう。
「……『ネイサン』って、アランやおばあさまや……他の人も呼びますし、他に同じ名前の人もいるじゃないですか」
「そうだな」
特に変わった名前ではない。それはいるだろう、たくさん。
「でも、私の旦那様は一人だけで、そう言う意味で旦那様って呼べるのも私一人だけだから、その、」
自分の特別な人を、自分だけが呼べる名で呼びたかったのだと目の前の妻は言う――この女性は、まったく。
「でもそれで、ネイサンが気分を悪くされていたなんて、私、」
「ステラ」
呼ばれてこちらを見上げた瞳は、告白の緊張で少し潤んでいる。嵌まり損ねたカフスボタンを放り投げて、ネイサンはステラを横抱きにした。秋色のドレスの柔らかな裳裾がふわりと揺れる。
「……ネイサン?」
「どちらでもいい。旦那様でも、ネイサンでも」
好きな方で呼べばいいと告げれば困った顔で、それでも抱き上げられた時の習いで自然と細腕が首に回される。
「その声で呼ばれるのなら、名前など記号だ。そうだな?――その服、よく似合ってる」
呼び方など瑣末なことだった。
「記号だなんて。あ、ありがとうございます、とても綺麗で、あの、でも、もう新しいドレスは大丈ぶっ――んんっ?」
「もう少し見ていたいが」
「えっ、だ、旦那様っ、お夕食っ、ぅんっ」
「――後でいい」
余計な返事を唇で塞ぎながら、ステラの背後のまだ閉まりきっていない扉へと歩を進める。
「ステラ」
「ぁ……は、い……」
性急な口付けに溶け始めた体を抱く腕に力が入る。
「お前だけだ。呼び名一つでこんな気分にさせられるのは」
――後ろ足で扉を閉める行儀の悪さには、この際、目を瞑って貰おう。




