21 お帰りなさい、を言う場所
ウォーレス伯爵領の外れの古ぼけた小屋で、密かな捕物があった翌日。閉じられたカーテンの向こうでは陽も高く、雲ひとつない青空が広がっていた。
伯爵邸のいつもの寝室で、いつものように肌触りの良い寝具にくるまってステラはパチリと目を覚ました。
ただ違ったのは、寝台の傍にネイサンがいたことだ。
背もたれのある椅子を寝台に引き寄せて、腕と足を組み軽く目を閉じて俯いている。
「……だんなさま?」
小さくて、かすれた声だったがネイサンの耳にはしっかりと届いた。
椅子を蹴倒す勢いで立ち上がると、寝台に乗り上がるようにして、横になったままのステラの顔を覗き込んだ。
「お、はようございます……? あの、今は」
「昼を少し過ぎたところだ。気分は悪くないか」
あれだけ酷かった頭痛も、具合の悪さも嘘のように感じない。ぴたぴたと自分の額や頬を触っても熱もない。大丈夫だと答えたのにネイサンの眉間に寄ったシワはますます深くなっていた。毛布から出して、今は喉に当てていたステラの手をそっと取る。
薄く柔らかな夜着の袖口からのぞく白い手首、そこにくっきりと残る血のように赤い縄の跡。痛みを自分に移すようにゆっくりとなぞる指先が、少しくすぐったくて温かい。
「この肌色ですから、目立ちやすいだけです」
「いや……もう一度手当てさせよう」
ステラが止める間も無くネイサンは大股で寝室を出て行き、すぐにケリーとミセス・マイヤーを連れて戻ってきた。その頃には寝台の上で半身を起こしていたのだが、飛び込むように部屋に来た二人はネイサンも少し休めと追い出してしまった。
ずっと一晩中ついていてくれたと聞いて申し訳なく思う半面、満たされてしまう。
「私がお側につきますから、と言っても聞かなくて。交代も駄目とか仰って」
「坊っちゃまはお小さい頃から案外と頑固でしたので」
ミセス・マイヤーは笑顔で懐かしそうにする。先の領主夫妻の事故や、例の元婚約者のことがあって以来、もともとあった頑ななところがより一層磨きがかかってしまって、と珍しく昔語りをしてくれた。
周りとの関係も断ち、全てにおいて仕事を優先するようになった。自分の興味や望みを一切放棄したかのような姿が哀しかった、とも。
「せめて私たちの前では、もっと人間らしく感情を出して我儘を言って欲しかったのです。ですから奥方様が来てくださいまして、本当に喜んでおります」
「ミセス・マイヤー」
「確かに最初は大奥様のご指示でした。けれどそんなこと、すぐに頭から消えておりました」
しっかりと両手を握って真正面から告げられて面映いが、胸には温かいものが満ちる。
ここに帰って来られてよかった、とステラは素直に思った。
「さて、奥方様。湯あみの支度ができておりますから、こちらに。歩けますか?」
「昨夜はとにかくお休みが第一と医師にも言われ、最低限のお世話しか出来ませんでしたので……」
寝ている間に診察まで受けていたらしい。領地には医師は多くない。誰に診てもらったのかと聞けば、ケリーが面白くなさそうに『赤毛の男』の関係者だと答えた。
ステラ達を囮にするのは、彼の発案だったらしい。
「ランダル侯爵家での不審死が続いて、前から探っていたのですって。そこにちょうどよく今回の動きがあって、まとめて一気にカタをつけたかったとか何とか言ってましたけど。全く、迷惑きわまりない話です」
「そうだったの……そういえばあの方、脚の怪我は?」
「平気ですよ。血の割には傷は浅かったですし、毒も塗られていませんでした。手当てが済んだらすっかり普通にしてて。まあ、従者の子の手前、強がったのかもしれませんけどね」
それこそ医師も付いているから大丈夫だ、と言われてほっとした。
もともと、不穏な動きを察知して警戒していたネイサンとアランからの指示をケリーは受けていた。当初の予定では王宮に許可を貰い、隣領の辺境伯軍と手を組んで敵方を誘い出して捕まえるはずだったという。
ところが、王都でランダル侯爵家を調べていた赤毛の男が一枚噛むと急に入り込んで来て、しかも、ステラを使うと言いだした。
「アラン達は反対したのですって。でも、油断させて尻尾を掴むにはこれが一番だとか押し切られたそうで」
それは、彼がウォーレス伯爵と辺境伯の反対を押し切れる立場にあるということ。
粗野に見せかけていてもなんとなく感じた品から言っても、それなりの身分なのだろう……聞かなかったことにしようとステラは曖昧に微笑んだ。
荒事になるかもしれない、と言われたが、内通者がいるから危険な目には合わせないようにするとも聞いた。敵を欺くためにも内通者の容姿などは明かせないが、注意はしても心配する必要はない、と。
箱を開けてみれば、トマスの連れていた配下は二名ともこちら側だったわけだ。さらに、彼がステラに向けていた銃は偽物とすり替えられていたという。
伯爵邸に入り込んだ招かれざる客達は、赤毛の男が王都に連行して行ったそうだ。ドニディア側がどこまで知っているのか、思惑を調べるのはこれからだが、ネイサン達の受けた感触では国というより個人が暴走した可能性が高いらしい。
大国の王位継承権持ちを自称する人物が、国交を制限されている元敵国に密入国した上、武器を持って貴族宅に侵入――実りある交渉が出来そうだと、脚の傷も忘れるほどのいい笑顔で意気揚々と帰ったという。
「囮になんて思惑に乗るつもりだってなかったのに……それに私も武器を渡されていたのに、結局ステラ様をあんな目に遭わせてしまって」
せっかく練習もしたのに、と悔やんだ表情のケリーを、ステラはどうにか宥める。休憩時間などに、アランやミセス・マイヤーに教わっていたらしい。伯爵家の執事と家政婦と秘書の使用人頭三人は、そう言った意味でも仲間であった。
ステラについて来たが為に、銃まで手にすることになってしまったケリーに申し訳なく感じていると、護身術と同じだと反論された。
「私、かえって安心なんです。これで、売られても自力で逃げられますでしょう」
「ケリーのことを絶対に売ったりなんかしないわ」
「もちろんステラ様を信じておりますが、気持ちの問題なのです。自分でどうにか出来る、と思えるだけで……それに、ステラ様はそうでも、ご亭主はどうかわかりませんからね」
妻と仲の良い侍女を邪魔に思うやもしれません、と真面目くさって言うがどうやら本気らしい。ミセス・マイヤーも何か思うところがあるのか、隣で小さく頷いている。
旗色が悪そうで、旦那様はそんなことしないと思うけど、とステラは小さく呟くにとどめた。
湯あみを済ませ、長さもバラバラになってしまった髪の毛を整えてもらったら、すっかり気分も良くなった。
一番短いところに合わせたので肩上になってしまったが、これはこれで軽くていい。そう言えば、世話をしてくれた二人に泣きそうな顔をされてしまった。待ちきれなくて顔を出したネイサンにも。
「……そんなに似合ってないでしょうか」
「そういうことではなくて」
小屋に落としてきた髪の毛は、ケリーが持ち帰ってくれていた。伸びるまではそれで付け毛にすればいい。なのにそんなに浮かない顔をされると、自分までしょんぼりしてしまう。
「気になります? じゃあ、普段は素敵な帽子でもかぶっていようかしら。旦那様、選んでくださいますか」
「……参ったな」
少しくらい笑って欲しくてふざけて言ったのに、困ったように小さく呟かれた。大きな手で頭を撫でながら短くなった髪に何度も指を通す、その手の温度が心地よくてつい目を瞑ったら腕の中に閉じ込められる。
ケリーとミセス・マイヤーは食事を持ってくると出て行ったばかりだ。どちらのものか分からないトクトクと鳴る鼓動が近くに聞こえる。
「こんな目に遭っても、まだここに居たいと言えるか」
「大した目には遭っていません。それに、迎えに来て下さいました」
それはやはり痛かったし具合も悪くなったし、何より怖かった。でも残るような怪我はないし、髪だってじきに伸びる。
むしろ、ネイサンの方がひどい怪我を負ったような顔をずっとしている。ぎゅっとされて動けないから見えないけれど、きっと今も。
「嫌いになったから出て行け、と仰るならば考えますけれど。そうならないでほしいなあ、とも思います」
「逆だ。クレイトンの家にも他の男のところにも――ステラが嫌がっても手放せない」
「……うれしい、です」
頭のてっぺんから、額に、こめかみにと落ちて来た唇に顔を上げると、薄青と琥珀の視線が重なる。どちらからともなく微笑んで、つま先立ててステラから頬に口付けた。
少し緩んだ腕の中、両手を伸ばして頭を抱き込み耳元でそっと囁く。ずっとお側に置いてくださいね、と小さく。
呼吸も持っていかれるような口付けのせいか、きつくなった腕の拘束せいか。また少し気が遠くなりかけた時、ノックもそこそこにバン、と扉が開き陽気な声が室内に響いた。
「奥方様、起きたって? 具合良くなったって聞いたよー! いやあ、よかった!」
「……アラン」
「っと、あ、あれ。お邪魔……だね、ははは」
その後ろからカラカラとカートに乗せて湯気の立つ皿を運ぶケリーが続く。
「私、ノックを強くお勧め致しましたよ」
「あ、いやあ、つい、ね? ごめんごめん」
ケリーと相変わらずの応酬をしてアランは軽く謝る。すっかり馴染んだいつもの光景に、ステラはネイサンと顔を見合わせて小さく吹き出した。
「旦那様?」
「なんだ」
ステラは寄り添って隣に立つネイサンを見上げた。見下ろす目は柔らかい。
「……ただいま戻りました。そして、お帰りなさいませ」
返事の代わりにまた強く抱きしめられた。
 




