19 張られた罠(中)
当時、ケリーの身売り差し止めについては当主のジェームズが全て手を回し、まだ子どもだったステラはその全貌を知らされなかった。
ケリー自身もあまり触れたくないようで、事実は事実と受け止めながらもあえてステラに詳しく話したことはない。
しかし、隣のケリーが小さく零した一言で、目の前に現れたこの男が過去に因縁のある相手だということは容易に想像がつく。それが何を示すのかも。
こちらの気持ちを知ってか知らずか、ことさら鷹揚に笑いかけてくるのが非常に心持ちが悪い。
ステラは頭痛の為に揺れる視界に耐えて、出来るだけ平静な声を出した。
「ええ、私がウォーレス伯爵夫人ステラ・カーライルです。閣下には初めて御目文字致します……随分と強引なお招きをなさいましたこと、理由を伺っても?」
「ほう、下級の出のくせに、いっぱしの口をきく。不遜だな」
身じろぎをしたケリーが口を開こうとしたので、ぴったりと体をくっつけて制し先んじて訊ねると、芝居がかった身振りで語り出した。
「理由ね……ご婦人に、私の高尚な思考が理解できるとは思えないがな。まあ、少しは役に立って貰った故、その軽い頭でも分かるように聞かせてやる」
「ご親切に感謝しますわ」
「その通り、下々にも寛容な故の……実に。実に私ほどの素晴らしい人品と資質を兼ね備えた傑物は稀だというのに、馬鹿どもは少しもこの事実を理解しようとしない。あいつが次期当主? 冗談じゃない、愚民どもと我ら貴人の違いも分からぬような奴にランダル侯爵家を継がせて、一体どうするというのか!」
カツカツと踵を鳴らしステッキを片手に打ちつけながら、憤懣やるかたなし、の態度で弁を振るう。勿体ぶった割に、話し始めると自分の世界に没頭していく様は異様さを感じるほどだった。
『ランダル侯爵家』……現王に対抗する一族。
過去には文武に秀でた人物を輩出し、王宮でも重要な地位に就いていた。
年々その影響力は衰え、現在では名前に威光を残すのみとなっている。しかしその名前はあまりに知られている。
「現当主は老いぼれて善悪の判断もつかぬ。本家の奴らは日和見で、女どもは実家の口ばかり挟み込む害虫どもだ。だから見かねた私が立ってやろうと義心から申し出てやったというのに、お前に侯爵家は渡せないなどとぬかしおって……」
「侯爵家の後継とウォーレスは無関係では? なぜ私を?」
「口を挟むな! これだから頭の悪い奴は困る。自分の立場というものをさっぱり理解しないで、勝手なことばかり。底辺は底辺で我等の役に立っておればいいのだ。全く、いつからこんなに腑抜けた国に成り下がったのか……現王の施策もろくでもないものばかり。こんな先が見えてしまっている国には、新しい風が必要だとは思わないかね?」
今年で在位二十年になるこの国の王は、先の戦後処理に目処がついたあたりから、大きな政策をいくつか実行している。いずれもゆっくりと、だが周到に進めた為あまり混乱なく行われたと、ステラは祖父から聞いていた。
そのうちの一つが、領地の税に関することだった。それまで領主に一任されていた税率に、国の基準を適用させたのだ。
もちろん、割合には幅があるので、農作物などのその年の出来高によっては届出をすれば変更することも可能だ。だが、それまでのように領主が好きなように徴収したり、法外に高い税率をかけることは禁止になった。
旧態依然の領主の反発は大きかったと、祖父のジェームズが苦笑いしていたのを覚えている。
「新しい、風」
「そうとも。そのお頭の中に『地図』は入っておるかね。この国の北にある重要な国は知っているか?」
「……ハルシェスカ」
大陸の端に位置するこの国は西側を海、残り三方を隣国と接している。南側とは大河を挟み、東側の国は山脈の向こう。
一番近く密に接している北側がハルシェスカ、ステラの祖母の国だ。先の王妃の母国でもあり、最も古くからの同盟国でもある。
あまり国土は広くない為に農業よりも工業の発達した国で、港を使っての海運に力を入れている。
その、さらに北と東に広がるのがドニディア……ステラが生まれる以前の戦争の相手国だ。近隣の小国を飲み込もうと隙あらば手を伸ばしてくるのを同盟国同士でなんとか退ける関係が長く続いていた。
嫌な予感がする。
「真っ先に出てくるのがハルシェスカ程度か、やはり物を知らんな――ああ、お前のその姿、あの国の血が入っているのか。やはり愚民は愚民といったところだ。だがな、ドニディア国は違う。私とこの国を後押ししてくれると、内々に申し入れて下さったのだ」
「後押し、ですか」
「そうだ。ドニディアも大変ご立派な第二王子がいらっしゃるのに、先に生まれたというだけで愚鈍な第一王子が立太子される見通しが強くてな、多くの者が憂いておる。私のランダル侯爵家と同じ状況ではないか! 孤軍奮闘する私に感銘を受けて下さったのだ。私を次期ランダル侯爵に就かせると約束し、既に邪魔者の幾人かは始末してくれている」
「その見返りが、ウォーレスだと」
ちらりとステラを流し見して、トマスはまた自分の中に戻っていく。御付きと護衛のはずの赤毛の男と少年従者は木戸の近くにいるが、動く様子はない。
「自惚れるな。ウォーレス程度で見返りになどならぬ。本当の返礼は、私が侯爵になってからだ……私のランダル侯爵家を差し置いて、片田舎の一伯爵家が何代も重用されているのはおかしいと思わぬか? まったく不愉快だ。だが、まあ、領地はそこそこ富んでいるし、ウォーレス伯の称号はこの私が持つもう一つとしては悪くない。光栄に思い大人しく譲るがよい、とそう申し入れてやったのに断るなど……あの青二才めが、全く失礼きわまりない」
「……まあ」
「話して分からぬ奴には、力を見せるしかないだろう? この度、彼の国の御方がお忍びで入国されてな、勿体無くも直々に説得して下さると仰せだ。あの若造を連れてくれば話が早いのだが、何せ普段は一歩も外に出ない変人だ。ならば家の者を預かっておけば、来訪者を追い返すことはないだろうとね」
ドニディアは、ネイサンの仕事内容を知ってのことだろうか。
偽造防止の技術は、裏返して使えば、贋札製造も可能だということ。贋札をばらまいて国内外を混乱に落とし入れるもよし、原版を利用して本物を大量に流通させ、この国の紙幣価値を無にして他国の信用を失わせるもよし……他に何がある? とにかく、敵国に渡ったら傾国まっしぐらということは間違いない。
もし、彼が研究している事が知られてしまっているのなら、今回退ける事ができても今後何度でもこういう事態になり得るだろう。
「王家に重用されている家は多数ございます。なぜ、ウォーレスを?」
「別に王党派ならばどこの家でもよかったのだよ。手始めに『黒伯爵』などと呼ばれ偉ぶっている若造に、現実というものを見せてやろうと思ってな。ドニディアと私がこの国をあるべき姿に戻すのに、はっきり言って王党派は無用だ。ウォーレスには最初に潰れる一家になって頂く」
高々と笑う声をステラは遠くに聞いていた。少なくとも、目の前のこの男がネイサンの研究内容を知っているとは考えなくて良さそうだ。
少しだけ安堵もしたが、胸につかえるような息苦しさが薬のせいなのか、目の前の男に当てられたからなのか分からない。
「……たまたま娶っただけの私の為に、伯爵様がお心を変えるようなことはないと思いますが」
そうであってほしいとの思いを込めて、ステラは呟くように言う。自分という人質を取られたが為にネイサンが判断を誤ったなどということは、万が一にでもあってはならない。情を離して考えることが出来る人だと、信じてはいる。
「なんだと?」
「っ、」
杖の先を顎先に押し込まれて、強引に顔を上げさせられる。ぴたりと合わされた目は鈍く光っていた。
「そう言って誤魔化そうとしても無駄だ。あの変わり者が唯一、側に置いている。それが何よりの証拠だろう。もっとも、これのどこがいいのかは理解に苦しむがな。ああ、光栄に思うがよい、かの御方がお前に興味を示されて、向こうの始末がついたらドニディアに連れ帰って下さるそうだ。心してお慈悲にすがることだな、せいぜい着飾れば愛妾程度にはなれるやもしれんぞ」
そう言って乱暴に杖を外すと、ステラには興味を失くしたようにまた小屋の中を歩き始める。自分の中で完成した未来図にすっかり酔っているらしく、恍惚とした表情で非常に愉しげだった。
「……馬鹿なことを」
今まで黙って耐えてくれていたケリーがとうとう口を開いた。よほど腹に据えかねたらしくステラの制止も効かない。
「なんだ、貴様?」
「貴方のような人間が侯爵家当主など、ご冗談でしょう。ただの幼女趣味の変態かと思っておりましたら、とんでもない国賊でしたこと」
みるみるうちに男の顔が憤怒で染まる。それと同時に、背中で戒められていた手首のロープがぱちりと切れたのを感じた。
後ろ手にした手のひらに、細いナイフがそっと握らされる。
具合の悪さと男の話で一杯一杯で、ケリーが背後で何かやっているのは気づいていたが、いつの間に抜き取ったのか気付かなかった。
正面を見据えたまま「任せてください」と唇を動かさずに言うケリーのささやきが、かすかに聞こえた。
「身分をわきまえない生意気なその目付きも、口の利き方も気にくわない……ふん、その黒髪だけは見られるな。あと十年、いや十五年ほども若ければ躾けがいもあったろうに」
「食い詰めた下級貴族から、幼い娘を買って?」
「奴らは感謝するべきだ。窮状を救い、教育を与えてやっているのだからな」
「そう思っているのは自分だけでしょう」
「私の慈悲深く崇高な心根が下賤な女に分かるわけがない! お前……邪魔だな。消えてもらおう」
ギラついた目でケリーを睨め付けながら、手にしていたステッキを持ち替えた。おもむろに上着の胸裏に片手を入れようとした、その時。
ケリーを逃がそうと体を浮かせたステラより速く、黒髪の侍女はばっと立ち上がりスカートの下、ふくらはぎの上で留めていたベルトから小型の拳銃を抜き出し、主人の前で構える。それと同時に高々と音を鳴らして木戸が開き、聞き慣れた声が耳に届いた。
「自らの罪の告白をしてまでの御協力に感謝しますよ、トマス・ランダル閣下……妻を返してもらおう」
「あ、そこの侍女もねぇ」
「アラン、遅いです!」
「旦那様!?」
フードを被り顔は半分隠れているが、戸口に立つのは間違いなくネイサンだ。
「っ、ぐっ、お、お前……!」
男の声に、入ってきたネイサンから目を動かしたステラの視界に入ったものは、先ほどまで自分の手下だったはずの赤毛の男に拘束されたトマスの姿だった。




