1 令嬢の困惑
「絶対にこんなこと間違っています!」
ステラの自室に入るなり我慢ならない様子で勢いよく話し出したのは、侍女のケリーだった。悔し涙を目尻にためて、先ほどまでいた執務室の方を睨んでいる。
気心の知れた、姉とも慕う侍女が憤慨してくれていることにステラは心が温かくなった。
「ケリー」
「御当主様は、ステラお嬢様に跡目を継がせるつもりでいらっしゃいました。ええ、確かにお眼鏡に叶う殿方が見つからなくて難航してはいましたが。むしろ持ち込まれる縁談を、難癖をつけては片っ端から断っていらっしゃいましたが! 『うちの可愛い孫娘を他所の男にやるなんて』とか『あと五年くらいは引っ張れるんじゃないか』とか爺馬鹿もいいところでしたけれど!」
薄々そうじゃないかと感じてはいたが、やはりそうだったか。
可愛がってくれた祖父を思い出して少し遠い目をしていると、ケリーに両手をぐっと握り込まれた。
「それでも! それでも御当主様はあんな、二十年近く顔も見せたこともないデニス何某を後継になんてこれっぽっちもお考えでなかったことは、誰が見ても明らかなのに! なんですか、恥知らずにも突然やってきてあの人はっ、それにあの遺言書だって!」
「ケリー、そんなに怒ってくれてありがとう。でも……こうなっては仕方がないわね」
書類は確かに祖父の字で、書き直した形跡もなかった。そして、懇意にしていたのは先代だが、信用の置ける人物が預かっていたものなのだ。
普段は冷静なケリーが、こうして感情をあらわにすることは滅多にない。自分を思ってくれることが嬉しくて胸は一杯になるが、遺言書に疑いを挟む余地はない。
「異議を申し立てたところで時間の無駄だわ。それにね、誰が領主だろうと住んでいる人には関係ないのよ。叔父様さえしっかり皆を守ってくだされば、それで」
「お嬢様……だって、私にすらお言葉がありましたのに」
その血筋の歴史だけは長いが、領地も屋敷も控えめなクレイトン男爵家に使用人は多くない。通いの下働きを含むすべての使用人ひとりひとりに、卿は労いの言葉と幾ばくかの謝礼を遺していた。
そこまでしていて、最愛の孫娘であるステラを全く無視する道理がないと、ケリーは訝るのだ。この遺言は何かがおかしい、と。
ステラにとっても、遺言書に自分のことが全く書かれていなかったことはショックだった。
遺産や跡目のことよりも、祖父にとって、自分は気をかけるに値しない人間だったのだろうか……それとも、当たり前のように近くにいすぎて忘れられてしまったのだろうか、と。
それでも、目を瞑れば自分を呼ぶ優しい声を思い出す。
暖炉の前のソファーで幼いステラを膝に乗せて語ってくれた昔話。もうすっかり年頃の娘なのに、いつまでも子ども扱いして頭を撫でたがった祖父……隣国から嫁いだ祖母に年を追うごとに似てくる孫娘は、二重三重の意味で大事にされていたのは間違いない。
今までの思い出の全てが、確かに愛情に包まれていた日々だったと伝えている。
ならばもうそれで十分なのではないか。そう、思うことにした。
「あの遺言を遺されたお祖父様のお心は分からないわ。でも、クレイトン男爵家はデニス叔父様が継ぐ。これは、もう決まったこと……王宮の承認状もあったのを、ケリーも見たでしょう」
相続に関することは、こと迅速が求められる。跡目争いなどで領主不確定の状態が続けば、問答無用で領地の召し上げや家の取り潰しなどもあり得るのだ。
まるで亡くなるのを待っていたかのような手回しの良さには胸に重いものを感じるが、家と領地の安泰のためと言われれば非難はできないだろう。
祖父の容態が快くなることを信じたくて、相続に関する手続きを後回しにしていたのは他ならぬステラなのだ。悪意のある見方をすれば、そこに付け込まれたわけだが、かねてより心配することはないと言い含められており、また長い付き合いの事務方がいることに安心もしていた。
視線を落とせば、喪服の黒が否が応でも目に入る。愛した祖父を両親が眠る墓地に埋葬してから、まだ丸一日も経っていない。倒れてからは二ヶ月。
全てがあまりにあっという間だった。
「だからって、さっさと出ていけなんて……! お嬢様も少しは怒って下さいよ。年々すっかり聞き分けのいいお嬢様になってしまわれて。領地中の高い木に登りまくっていた“おてんば姫”はどこにいったんですか」
十年以上も前のことを蒸し返されて苦笑いだ。そもそも、木登りはケリーを探すために始めたものだった気がする。
「だって、私の代わりにケリーが怒ってくれているのを見たら、なんだか気が済んじゃって……それより、自分が結婚していたことの方が驚きよ」
貴族の結婚は相続や家督が絡むため、国への届けが必要になる。逆に言えば、届けが受理さえされれば結婚が成り立つのだ。特に婚約期間なども定められていない。そしてそこに必要なのは家長の承諾と決定で、「婚姻者本人の同意」ではない。
ステラは婿をとってクレイトン男爵家を継ぐ心づもりでいたから、祖父が決めた相手との政略結婚に異論はない。しかし、知らない間に既婚者になっていたのはさすがに予想外だ。
書かれていた婚姻の日付は、祖父が倒れた後ではあるが少し持ち直した頃。短時間なら起き上がることも出来て、見舞いに訪れた昔馴染みのミセス・フロストとお喋りもしたのだ。
そのまま快復に向かうと信じていたのだけれど――。
叔父はクレイトン卿が署名したのだと言ったが、写しの婚姻証明書ではそれも確かか分からない。王都に行けば、書類の原本を閲覧することは可能だが、それなりの日数を必要とする煩雑な申請手続きをしている余裕があるとは思えない。
迎えが来次第ここを発てと言われたが、この流れでいけばすぐにでも来るのだろう。ステラが生まれ育ったこのクレイトンの領地を離れることは、既に決定事項なのだった。
ステラ・カーライル。
それが婚姻証明書で判明した、今の自分の名前。
夫の名はウォーレス伯爵ネイサン・カーライル。会ったこともない、顔も年齢も知らない、旦那様。
箱入り娘で交友関係の狭いステラは、他の貴族たちとの面識がほとんどないが、さすがに国内の地理くらいは分かる。嫁ぎ先は国の北側、辺境の少し手前――そこはきっと、春の訪れもまだだろう。
相手は格上の伯爵家。身分でいえば恵まれた結婚だ。領地も広さがあり、詳しくは知らないが、王宮とも懇意だと聞き及んでいる。
その割に王都にも王宮にも滅多に姿を見せないので『影伯爵』とか、いつも黒い服ばかりなので『黒伯爵』と呼ばれているとか。やっかみとも取れる呼び名は、どちらかというと恐れを含んでいるのだと祖父が漏らしたことがある。
王家から重用されている伯爵が中央に頻繁に顔を出すようになれば、その影響力がますます強くなるのは必然。このまま地方でくすぶっていてほしいとの願いを込めて、権勢を誇るお歴々が呼び始めたのが広まったのだと、苦笑していた。
あれはいつだったろうか……手紙の束を前に執務机に座る祖父の元へ、お茶を運んでいってはお喋りをした。変わらず繰り返された毎日の一コマが脳裏に蘇る。
伯爵家の当主が格下の男爵家に婿入りなど無理な話だ。当然最初から、ステラが嫁入りをする話で進んだのであろうことは想像できる。
いつ決めたのだろう。なぜ、自分は聞かされていないのだろう……疑問は尽きず、胸の内はどんよりと重い曇で塞がれるよう。
目の前に暖かな湯気が立つカップを出されて、はっと我に返る。
「ケリー」
「こんな時はまず、甘いものですよ。お嬢様……取り乱して失礼いたしました」
いつの間に用意したのか、すっかりお茶の支度が整っていた。ステラが黙り込んでしまっているうちに、侍女の方はしっかりと気を取り直したらしい。
勧められるままソファーに腰を下ろし、りんごの香りの甘いお茶を一口飲めば自然と息を深く吐く。
「……美味しいわ」
「ようございました。お嬢様、私も参りますからね。お一人でウォーレスになんて行かせませんから」
驚いて見つめると、侍女は当然だと胸を張る。
「そんな。ケリー、あなたまで巻き込んでは」
「どこまでもご一緒ですよ。それとも、もう私は必要ないとお捨てになりますか?」
「違うわ。でも、だって、遠いのよ。旅行じゃないのよ」
「いいえ、こればっかりは聞きません。どうぞお連れくださいませ。私の帰る家は、お嬢様の家です」
曇った胸に光が射すような笑顔で言い切られて、とうとう堪えていた涙が落ちた。
「……ケリー、ありがとう……本当を言うと少し、不安だったの」
頼る人を失った動揺が静まる前に、知らないうちに実は結婚していたと告げられ、家からも出されることになって。先の見えない霧だらけの森の中に置いて行かれた気持ちになってしまっていた。
それでも、前を向いて歩こうと思ってはいたけれど――。
「一人より二人ですよ。それに、あの方が当主になるこの家にいたくありません。私の主人は亡くなられた御当主様とお嬢様です」
「ケリーってば」
わざと憎まれ口をきく侍女は、妹を見守る優しい瞳をしている。ステラは目尻に残った涙を拭いて、口角を上げた。
少しでも笑えたら、きっと大丈夫だと。