18 張られた罠(前)
少し気になる動きがある、と護身用のナイフをネイサンから渡されたのは先週だった。言われた通り、ステラは家の中でも持ち歩いていたのだが。
「……ケリー、目が覚めた? 怪我はない?」
「っ、すみません、ステラ様。私としたことが油断しました。腹立たしい失態です」
今、ステラとケリーは後ろ手に縛られて納屋のようなところに転がされていた。割れた小さな窓から差し込むのは、間も無く沈もうとしている色合いの夕日。見回せば造り付けの棚は空で、壊れて古ぼけた農作業用の道具が数個、隅の方に投げ出されてある以外何もない。
ところどころ隙間の空いている荒れた床や壁は、今はこの小屋が使われていないことを示している。
随分埃っぽくなった自分達にむせながら、二人はどうにか体を起こした。下になっていた肩や腕が軋むように痛い。ついでに頭も。
「お食事の途中から覚えていないのだけど、ケリーは?」
「同じです。薬を盛られたようですね……ステラ様、後ろ失礼いたします」
不愉快そうに言って、まずはステラの拘束を解こうと身体を捻る。背中を付け合うようにしてようやく縄に指が届いたが、結び目はがっちりと固く、なかなか外れない。
事の起こりは今日の昼まで遡る。
建国祭に出席するため王都に赴く予定のステラは、初対面となるネイサンの祖母レディ・ベアトリクスに手土産を選んでいた。彼女の秘書のミスター・ノックスによると、領地産のワインがお気に入りで、王都でも時折取り寄せているというから、それを持っていこうという話になったのだ。
領主の奥方様であるステラがわざわざ出向かなくとも、呼べばいくらでも商人を屋敷に来させることは出来る。だが、出入りする人間を限定しておきたい事情が伯爵家にはある。
それに普段街に降りられない伯爵に代わって領地を見て回ったり、人々と話をしたりするのは双方にとっても益があったし、何より時折訪れるステラを領民も心待ちにしていた。
いつものように街に降り買い物も済ませ、何度か来たことのある店の一つで少し遅い昼食を、となった。ちょうど混雑していた為、一緒に来ていた馭者とミスター・ノックスは別の席に分かれたのだった。
ステラたちが案内されたのは奥の部屋。中年の夫婦がいるテーブルでしばし談笑しながら相席となったが、食事の途中で彼らは先に食べ終わり、二人だけ残された。そこから記憶がない。
今の状況から攫われたことは間違いない。こういう事態を憂慮してネイサンからは当初、距離をおかれていた。
納得の上だから自分はいい。けれど、ケリーまで巻き込んでしまった。
「ケリー、」
「ステラ様、駄目ですよ。言いっこなしですからね」
「……ええ、分かったわ」
ウォーレスの内情を知ってクレイトンに帰そうとしたが、当のケリーに強硬に反対された。その上ケリーから、実はステラより先に彼らの仕事内容を教えられていたと告白された。
それもあって折れたのはステラだが、いざこうなると強引にでもクレイトン領に戻せばよかったと思ってしまう。
「あの給仕、初めて見る顔でした」
「そういえば、いつもの娘さんじゃなかったわ。そろそろお産が近いから、お店は休んでるのだと思って気にしなかったわね……ケリー、私のサッシュにナイフがあるけど、届く?」
「そうでした。少し手を上げていただけますか」
とうとう日が沈んで部屋の中は一気に暗くなる。腰に巻く細布に細工をして持ち歩いていたナイフに手探りでどうにかケリーの指先が届いた時。外に馬車の音が聞こえ、ほぼ同時に小屋の戸が乱暴に開けられた。
「起きたか。お館様にお知らせしろ」
手持ちの灯を向けられてステラは目を細める。入ってきた男は簡易な仮面をつけていて顔はよくわからない。ただ、さほど明るくない光の中でも目立つ燃えるような赤毛が印象的な、ネイサンと同じくらい背の高い男だった。
後ろにいたもう一人はまだ少年と言っていい年齢の男の子で、指示されて踵を返す。どうやら馬車の中にいるのが黒幕らしいとステラは判断した。
一人になった男は大股で近づくと屈み込み、ステラの細い顎を掴む。
「……さすがに顔色が悪いな」
「ちょっと貴方! ステラ様に触らないで」
「随分と威勢のいい侍女だ。心配しなくとも、騒いだり反抗したりしない限りは身の安全は保証する。傷を付けるなと、きつく言われているんでね」
面白そうに口の端を上げながらそう言われて、ケリーは口をつぐんだ。王都周辺で聞き慣れた喋り方は、仮面の男がこの辺りの人間でないことを示している。
顎から手を離し、背中で縛られた結び目を確認されたが、なんとなく品が感じられる所作だった。
庶民の服を着ているが、違うのだろう。
ステラは頭の中で、嫁いでから覚えた貴族年鑑をすごい勢いで思い返していた。でも、こんな目立つ赤毛はそういない。
当て嵌まるのはハウエル男爵家だが、あそこの当主は四十代で、子どもはまだ幼かった。どう見ても二十代の目の前の男とは年齢が合わない。庶子か縁戚だろうか、それにしては物腰に堂が入りすぎている。
それに第一、かの家は筋金入りの王党派だ。王宮と懇意と噂のウォーレス伯爵家に擦り寄りはしても、敵対することはあり得ないはず。
現王の治世は安定しているが一枚岩ではない。抵抗勢力で一番大きかった家は、ネイサンに婚約者として間者を送り込んだ例の事件で姿を消している。
その後釜の筆頭はランダル侯爵家だが、当主が高齢なこともあってここ数年目立った動きはない。それよりも嫡男が少々頼りないとかで、水面下での跡目争いが激化してそれどころではないという話だった。
「……こちらがウォーレス伯爵の奥方様と分かってのこと?」
「問題ない。予定通りだ」
「っ、何が予定通りよ、ふざけないで」
怒りを押し殺した声のケリーに男は淡々と返す。会話は拒絶されないのを確認して、ケリーは尚も言葉を重ねた。
「外にいるのが雇い主? どこの誰よ。それに貴方は、」
「それをお前が知る必要はない」
「まあ、偉そうですこと。当事者置いてけぼりの秘密主義もいい加減にして欲しいわね」
「け、ケリー、落ち着いて?」
圧倒的に不利な状況は変わっていない。今は冷静に見えるこの男が、急に気分を害して乱暴をするかもしれないと思えば、ケリーの気丈さは頼もしい反面危うくもある。
宥めるステラに、ケリーは素直に謝罪した。
「武器は持っているか」
ケリーに向けられたその質問にステラの鼓動が跳ねる。隠し持ったナイフはまだ男に見つかっていないが、持っていてもいなくても正直に答えはしないと思う。
「女が街へ買い物に行くのに刃物や銃が必要だと思うの? 狩りに来ているのじゃないのよ、全く」
「それなら良い」
身を確かめられたら、と構えたが、ケリーのその言葉に納得したようで深追いはしてこなかった。
こっそりと安堵の息を漏らすステラの前で、面白くなさそうにケリーは顔をしかめる。
「……こいつなの? なんなの偉そうな……」
「え?」
「いえ、何でも。ステラ様? お顔色が先ほどより……ちょっと貴方、一体何の薬を使ったのよ」
「ごく一般的な眠り薬だが――どうやら少し強かったようだな」
儚げな容姿に似合わず滅多に病気をしないステラは薬に免疫がなかった。目が覚めてから、どんどん酷くなってくる頭痛と重だるい身体に我慢をしてきたが、堪えきれず小さく息を漏らす。
それに気付くと、男はステラを軽々と抱き上げて小屋の奥へ運び、壁へともたれ掛けさせた。次いでケリーの腕を持って立たせると、ステラの元へと向かわせる。
「そこにいろ」
ぼそりと呟く声。僅かだが、その声に気遣いが聞こえた気がした。
寄り添うように隣に座るケリーに言われるまま少し体重を預けると、幾分呼吸が楽になる。
どうやって連れ出されたのかは分からないが、店から姿を消した自分達のことは、きっと同行していたミスター・ノックスたちが探し、今頃は屋敷にも連絡が入っているだろう。
ネイサンが危惧した通り、ステラがまんまと足枷になってしまった。
『――犯罪者と取引は絶対にしない。もし、そういう事態になった時に差し出されるのは救出の手ではなく、口封じです』
アランの言葉通りならば、このまま自分も終わるかもしれない。
自分と関わることで起こり得る事態を重く見ていた彼を、また苦しませてしまうのかと思うと、やり切れなさに胸が締め付けられる。
――せっかく、笑ってくれるようになったのに。
この状況を抜け出すためにもっと何か考えなくてはいけないのに、薬の残る体はそれを許してくれない。力の入らない指をどうにか動かし、サッシュの上からナイフをそっと確認した。
小さいが武器がある。まだ害されていない。
状況を判断し、機会を窺え。今、自分に何が出来る……少しでも動けるように。
深く息を吐き、静かに呼吸を整える。ピクリとケリーの肩が動いて顔を上げると、戸口から誰かが入ってきたのが見えた。
先ほど馬車に伝えに走ったらしい少年が先導してきた男は、帽子を深く被っていて顔が半分隠れていた。着崩して、それでも飾り立てた貴族服。でっぷりと太った身体、髭の下で歪む大きめの口。
「ふん、これがウォーレスの奥方か」
持っていたステッキでこれ見よがしに帽子のつばをクイ、と上げると狡猾そうな目が現れた。隣で息を呑んだケリーの震える唇が、小さく悪態を吐く。
「この男に、また会うなんて……」
「私がトマス・ランダル子爵だ。初めてお目にかかる」
ご丁寧にも自己紹介してくれたのは、跡目争い中と聞くランダル侯爵家の傍流。
かつて少女のケリーを買おうとした男だった。