17 萌芽
北の国の遅い春も盛りを過ぎる頃になると、領主夫妻が二人でとる晩餐がすっかり見慣れた光景になった。
さらに最近では、夕食の後に居間でくつろぐことも多い。ネイサンの仕事は時間で区切れるものではない。無理にでも休ませないといつまでも働いてばかりいると分かったステラが、やや強引に誘うようになったせいだ。
ネイサンも『休む』ということに少し慣れてきたようで、ステラの前では警戒を解いた姿でいられるようになった。
時折、日が落ちた後に二人でする散歩がステラは好きだった。夜の闇はネイサンの目に合っているようで、星明かりで十分に見えているという。
音もなく灯りもなく、静かに風が抜ける樹々の中を、手持ち灯の代わりにネイサンの腕を取って歩く。
随分詳しくなったという星々の話を聞きながら空を見上げる。そんな夜の庭が好きだった。
今夜もまた、お茶を前にソファーに掛けている。前日まで王都に行っていたアランも今日は一緒で、向こうのことなど話してくれていた。建国祭を翌月に控えた王都は気忙しくも賑やかだそうだ。
そんな話の中、そういえば、とステラはネイサンに声をかける。
「あの、旦那様。気になっていたことがあるのですが」
王都にいるネイサンの祖母レディ・ベアトリクスのことだ。
この屋敷は警備もしっかりしているし、ステラが外出する時も決して一人ではない。街に行く時は表立って同行してくれるケリーやミスター・ノックスの他に、見えないように護ってくれている誰かの気配を感じる時すらある。
だが、レディ・ベアトリクスのほうはどうなのか。
ステラと行き違うように王都の別邸に行き、向こうの社交に忙しいようで、いまだ領地に戻る気配もない。
しかし身内という点では彼女の方こそ狙われるのではないだろうか。以前に聞いた時は、心配するなと軽く言われてしまった。それ以降ネイサンの口から祖母についての話は出ることはなく、彼の心配と気遣いが、自分一人だけに注がれているように思えたのだ。
「問題ない。あの人からは危険の方が逃げ出す」
苦々しげに返されて、ステラは首をかしげる。徐々にだが、こうやって無意識に感情を表してくれるようになってきたことは素直に嬉しい。だが、その返事はいただけない。
薄々感じていた通り、祖母と孫の仲は良好とは言えないようだが、そういったことを理由に警護の手を引くことはネイサンらしくないように思えた。
疑問が顔に出ていたのだろう、説明を付け加えてくれた。
「今、王都の別邸は祖母の家になっていて、それ相応の腕の立つ使用人が詰めている。顔が広くて、特に公爵夫人とも懇意だから向こうにいる方が何かと安全だ。それに、あの人なら悪党程度、軽く言い負かすはずだ」
「まあ、そんな」
「いやいや、奥方様。レディに睨まれると肝が冷えて大変なんですから。いらっしゃるだけで部屋の温度が五度くらい下がりますよ、いえ本当に。宰相閣下だって、若い時からのお知り合い同士ですけどいまだに頭が上がらないという話ですし」
アランまでネイサンの援護に加わってしまう。
ステラとは『勉強進捗状況報告書』を兼ねた文通でしか今のところ接点のないレディ・ベアトリクス。返信の内容からも確かに厳格な女性であることは疑いないが、二人が言うほどとは思えなかった。
それにやはり女性の身である。年齢を考えても、身体的には強いとは言えないだろう。
そう告げても、直接会っていないからだと返される。
「祖母自身も抜かりのない人だから、心配は不要だ」
亡くなった祖父だって、ミセス・フロストだって、優しいだけではなく厳しい一面も持っている。だからレディ・ベアトリクスだってきっと厳しいだけの人ではない。
そうは思うが、二人があまりに苦々しい顔で重いため息を吐いているので、ケリーと顔を見合わせただけでそれ以上は言わなかった。
その夜、自室へと下がるステラを送ったネイサンは、珍しく部屋の中まで入ると扉をしっかり閉めた。
ケリーはアランに用があると引き止められ居間に残ったため、この部屋には二人きり。夫婦なのだからおかしいことはないはずなのだが、ステラはなんとなくそわそわしてしまう。
そんなステラをソファーに座らせると、隣に腰を下ろしたネイサンは細身の護身用ナイフを取り出して手に持たせた。
「身につけて持っておきなさい。いつでも、どこに行く時も」
「この家の中でも?」
「私がいいと言うまでは」
「……はい。使えるかは、自信ありませんが」
「それでいい」
柄の部分に美しい象嵌が嵌ったナイフは一見するとペーパーナイフのようだが、鞘から抜くと出てくるその刃先はあくまで鋭い。女性持ちとはいえ、ステラの白い手にはあまりに不似合いだった。
戸惑いつつもしっかりとナイフを握るステラを見て、ネイサンは自嘲の滲んだ苦笑いをする。
「こんな物を持たせたくはないのだが、少し気になる動きがある。王宮でも探ってはいるが、念の為だ……情けないことだな」
「そんなこと。こちらに参りましてから、不安など感じたことは一度もありません。それに、旦那様のせいじゃありません」
悪いのは勝手に押し掛けてくる方だ、と自分を擁護するステラの髪を宥めるようにゆっくりと撫でた。
ケリーの手によってステラによく似合うかたちに結われている柔らかな髪は、ネイサンの目のために光量を抑えた明かりの下で穏やかに輝いている。
ステラの手からナイフを取り上げテーブルに置いて、ネイサンは軽く息を吐く。
「怪しいからとこちらから動けば、向こうに口実を与えてしまうし。もどかしいものだ」
ウォーレス伯爵家で出来るのはあくまで自衛で、それ以上は越権行為になるのだという。王宮から賜る命は極秘扱いな為、どうしてもそうなってしまうのだ。
こちらに認められているのは身を守ること、そして有事の際の最低限の反撃に限られる。軍でも警邏でもない一伯爵家としてごく通常の扱いだ。
両親のことがあってから、ウォーレス伯爵家の警護はより強固になった。普段であれば何の心配もないのだが、建国祭を前に国中が浮ついているのが、ここ北の地でも感じられる。
特に今年は王の在位二十年という節目の年のため、人や物の動きも活発で、他国との行き来も多くなっていた。
「王都に行くまでには落ち着くといいのだが」
建国祭には各領地にいる貴族たちも王都に参じる。ネイサンとステラも半月後にはここを発つ予定だった。
厳しい顔をするネイサンに、ステラは明るい声をかける。
「向こうに行きましたら、レディ・ベアトリクスにお会いできますね」
「……そうだな」
「旦那様、すごく嫌そうです」
あまりに素直に動いた表情にステラはくすくす笑いながら、ネイサンの顰められた眉間を指で伸ばした。ナイフの話をしている時よりも、分かりやすい顔だった。
「そんなに苦手ですか?」
「悪いが、ここにいなくてほっとしている」
「私は仲良くなりたいと思っていますのに」
「向こうはどうだかな。中央の司教でさえ、あの祖母には言い負かされるくらいだ」
それはすごい。宰相様に司教様までとは、レディ・ベアトリクスは相当の女傑のようだ。
驚いて止まったステラの手首をネイサンの長い指が捕まえる。髪を撫でていた手が頬におりると、くすぐったさに肩をすくめ自然とその手に擦り寄った。
「必ず何かは言われる。きつい人だしあまり会わせたくはないが、そうもいかないだろう」
「だってお祖母様ですよ」
「だからこそ苦手だ」
「まあ。でも、旦那様。私きっと……今の方が緊張しています」
厳しいと評判の義祖母との対面より、目の前の夫の方がよっぽど心臓に悪い。急にとろりとした雰囲気に、ステラは少し目を泳がせながらそんなことを言う。
僅かに目を細めたネイサンは、染まり始めた耳のすぐそばで素の声を流し込む。
「慣れろ」
戸惑う唇が触れあったのは一瞬で、ちょうど叩かれたノックの音にネイサンはソファーから立ち上がった。そのまま早く休むように告げて、寝支度の手伝いに来たケリーと入れ替わり去って行く。
「あら、ステラ様、お具合が?」
「だ、だいじょうぶ。大丈夫よ、ケリー。ちょっと、慣れないことに慣れなきゃいけないと思っているだけでもなんだか無理そうなんだけど」
「……よく分かりませんが、体調は悪くないのですね」
ソファーに突っ伏して赤い顔をクッションに埋めながらコクコク頷く主人を、侍女は困ったような笑顔で見ていた。
そのまま『執務室』に着いたネイサンは、書類や器具の整理をしていたアランに驚きの顔で迎えられた。
「あれ、戻って来たの? 今夜あたりはこっち来ないかと思ったのに」
「うるさい」
「よく我慢できるねえ、俺だったら絶対無理だな……ってね、悪い悪い。今はそれどころじゃないもんねえ。はいこれ、ちょうど届いたよ」
言いながらアランは数通の手紙を差し出す。いつもの机に座って、即座に中身を確認したネイサンはその口元に薄っすらと笑みを浮かべた。
「……私も甘く見られたものだ」
「うっわ、悪い顔になってるよー、怖っ。その顔、奥方様に見せたらダメなやつだからね」
「余計なお世話だ」
「いや本当に。ん、じゃあ、まあ、お掃除しますか。落ち着かないと、いちゃいちゃもできないもんね」
「……アラン」
「え、やだな違うよ。俺の話ー」
はは、と笑うアランにため息を吐く。
「辺境伯も喜んでたよ、ようやくその気になったかって。で、奥方様には渡したの?」
「ああ。そっちはどうだ」
「問題ない。っていうか、俺、負かされそうだよ」
「頼もしい事だ」
アランの返事に満足そうに頷くと、持っていた手紙を捻り火をつけて、灰皿にぽとりと落とした。手紙が燃え尽きるのを見届けたネイサンは、視線を自分の机の鍵の付いた引き出しに移す。
――その奥には、アランが王宮から持ち帰った許状がしまわれていた。