15 塔(前)
ステラが落ち着いたのを確認するとネイサンは半身を起こした。いまだに固い太腿の上に乗ったままの格好に気付いて、ステラは慌てて退こうとしたが体が動かない。
「腰が抜けたか?」
「重ね重ね、申し訳ありません……」
羞恥に頬を染めるステラに苦笑して、ネイサンは宥めるように背中に手を回す。二人して立ち上がろうとしたところに、階下から扉の音とともに呑気そうなアランの声が聞こえた。
「ネイトー、捨ててきたよ―。やっぱ母屋は遠いわ……あれ、まだ上か? それでこの資料なんだけどさ、ネイトの言った通りだった。あの素材がやっぱりネックで、――って、奥方様!? え、なんで!? っていうか、脚っ」
「えっ?」
カツカツと軽快に階段を上がる靴音に続いて、ひょっこり顔を出したアランの声に驚く。
視線を辿ったステラは、木に登るために靴は脱いで裸足、しかもスカートをたくし上げたままだったことを思い出した。
「アラン、向こうに行っていろ」
「わっ、なんでここに……わ、分かったから、見てないからっ」
ネイト怖ぇ、なんてぼやきが遠ざかるのを聞きながら、慌ててサッシュを解いた。そのまま手を引かれて立ち上がると、ネイサンと視線が合う。
「――ここまで来てしまって、本当に後戻りができなくなった」
「あの、私……守ってくださるのは嬉しいですし、感謝しています。ですが、守られるだけなのは、嫌です」
ステラは引かず、見つめ返す目に力を込める。
「危ないからと目隠しをされていては、何が危ないのかも分かりません。それに私だって、私を守ってくれる方を守りたいと思うんです。旦那様?」
「なんだ」
「隠し事は、嫌です。たとえそれが私を不安にさせないためでも、私にとって辛いことでも。私の為を思ってと仰るなら尚更、分けてくださいませんか……いいことも悪いことも。足手まといにしかならないかもしれないけれど、一緒に持たせてほしいのです」
そう訴えるステラに思案顔でいたネイサンだが、諦めたように長く息を吐いた。
「……その方が、安全か」
「旦那様の居場所がわかれば、安心してお帰りを待てます」
ネイサンはくるりと向きを変え窓をしっかりと閉めた。戻って、少し躊躇ってから出された右手に、ステラは自分の手を重ねる。大きい手だった。
「階段は狭くて急だ。自力で下りてもらうしかないが、裸足で大丈夫か?」
「っ、はい!」
塔の壁の内側にそって、階段が付いていた。幅は狭く手すりなどもなく、勾配も急。ネイサンに慎重に先導されながら、ステラは片手を壁にしっかりとつけて、一段一段下りていく。
たどり着いた一階部分は、雑多なものが適当に積まれている印象だ。ところがそこで終わりではなく、床にある跳ね上げ式の蓋の下に続く階段を、ネイサンはさらに降りて行く。
後を追った地下室で、ステラは予想外の光景に息を呑んだ。
――そこは『研究室』とでも称せばいいような場所だった。
そういった施設を実際には見たことがない。だが、壁一面の本棚、ガラスの器や水場。重さを測る天秤や、顕微鏡。薬品の瓶も鍵付きの棚に並んでいる。
さらに工具のような道具類、書きかけの書類には数字の羅列……何かを調べ、実験しているに違いないという状況が揃っていたのだ。
陽の光は届かないが、読み書きをするのに問題がない程度に明かりが灯されている。
今が昼なのか夜なのか、ここにいたら分からなくなりそうだ。
最後の一段を下りきったステラを、地下階で待ち構えていたアランが訳知り顔でにこやかに迎えてくれる。
「ようこそ、奥方様。ウォーレス伯爵家の『本当の執務室』へ」
アランがその手でパサリ、と振って見せたのは大きな紙に刷られた何か。
よく見ればそれは、この国の紙幣。裁断される前の高額紙幣だった。
「ウォーレス伯爵家はね、代々この国のお金を作っているんですよ」
「え? 作っている、とは?」
「いえもう、そのまんま。コインは他の家がやってますが、紙幣とか王宮の発行する証書とか。その模様を考え描くところから原版を作るところまで。ああ、さすがに印刷は別の場所です」
この国の紙幣やコインには美しく精緻な模様がついている。ステラは外国へ行ったことがないが、旅行好きのミセス・フロストがお土産がわりに他国の通貨を見せてくれることがあった。
初めて手にした時、本当にこれで買い物ができるのかと疑ったことを覚えている。印刷の具合も、紙の質も安っぽくて、自国の紙幣をこれに変えたら何か損した気分になりそうだ、と言ってミセス・フロストによく分かると笑われたのだった。
その美しく、皆が手にするお金を、ウォーレス伯爵家が『作っている』?
「紙幣の模様がたまに変わるのはご存知で?」
「ええ。お祖父様の若い頃は違う柄だったと聞いています」
「新しくなるときはその模様を考えて描いたりもします。あとは、たくさん印刷するとやっぱり原版も傷むから、作り直したりですねえ」
「まあ……そんなお仕事が」
立ち話もなんですし、と言われて移動しようとすると、ネイサンに抱え上げられた。
「え、あ、あの」
「この辺りの床は、金属の破片が落ちている」
裸足のステラは、そのまま奥の方に置いてある長椅子まで運ばれた。しっかりと、丁寧な扱いにまた鼓動が疾くなる。
この前の晩も同じように運ばれたはずだが、今日のほうが恥ずかしく感じるのはどうしてだろう。
「ありがとう、ございます」
「いや」
長椅子の近くにある机に腰を下ろすと、アランに説明を任せたネイサンは何やら書き始めてしまった。やれやれ、という顔をした助手は椅子を引き寄せて自分も腰掛ける。
「もともと芸術家気質っていうのかなあ、絵とか細い手仕事が得意な人が多い家系でしてね。王宮からこの仕事を任されたのはもう何代も前。それ以来ずっと携わってきたんですけれど、ネイサンが当主になってからちょっと仕事の方向が変わりました」
「と、仰いますと」
「今までは模様の考案や作成が主だったんですが。それに加えて、紙そのものの改良や、顔料の開発……これらが何を意味するか分かります、奥方様?」
軽く言うアランに試されている気がした。
自分が受け止められるか。この家に相応しいか。
「……偽造防止」
「ふふ、正解です。みんなが知らない間にちょっとずつ変わってるんですよ、この国のお金は。今じゃ、この辺の国では一番、偽札を作りにくいって裏では評判でして」
満足そうに笑って、でも少し遠くを見る目になった。
「そうは言ってもイタチごっこでしてねえ……まあ、違うって分かっちゃうから、うちの国のにはほとんど手を出されていないんですが。これからもそうとは言えないでしょう? だから日々研究を重ねているってわけです」
「それで、お仕事の内容も秘密に……そうですわね」
「いるんですよ、どこからか入り込んで何か探ろうとしてくる奴が。その度に守りも強化されてきましたから、ここまでたどり着いた奴はいないですが。ああ、でも奥方様どうやってここに?」
その質問には、ネイサンが顔も上げずに答えた。
「誰かが器を割った音を聞きつけて、木を登って上の窓だ。切らないと駄目だな、あれは」
「え、俺のせい? っていうか、登ったの!? ……そうか、小柄な人だといけちゃうんだ、あの枝。しかし驚くなあ」
「あら、そんな」
「うん、褒めてないですよ。うわー、ケリーの言う通りだぁ……」
アランの笑顔が少し引きつっている気もしたが、見なかったことにした。ケリーと何を話しているのか、気になるところではある。
「ま、まあ、そんな訳で今まで話せなかったんです。迂闊に知っていると、攫われたりした時に危険ですからね。人命よりも機密漏えいを防ぐほうに重さがありますから、この仕事。王宮は犯罪者と取引は絶対にしない」
「それは、分かります」
「もし、そういう事態になった時に差し出されるのは救出の手ではなく、口封じです」
死人に口無し。情報を漏らす可能性があるならば、救助よりもそちらが優先される。そういう仕事だと、アランは淡々と言う。
そこまで聞いて、ステラの頭にひとつの噂がよぎった。『伯爵家の地下牢には、婚約者が――』まるでステラの頭の中を見たようにアランがそれを口にする。
「以前ネイトの婚約者だったメイベルはね、間者でした。他国と通じてた」
「……!」
「彼女の家が他国のとある貴族と繋がって、裏稼業にも手を出してて。家格は上だし、上手いことやっていたからすっかり騙されましたよ、ウチも王宮も」
思い出すのか、渋い表情になる。もともと、上位貴族の口利きで押し付けられたような婚約者だったが、それも二重三重に工作がしてあった、と言う。
「ネイトはまだ若くて、結婚なんてどうでもいいってあれでしたけどね。まあ、断れなくて婚約してもう少しで結婚、って時にウォーレスの調査が追いつきました。危なかったですよ」
「まあ……」
「その家は他にも色々と後ろ暗いところが見つかりましてね。がっちり証拠も押さえたからばっさり裁かれました。当然、極秘にですが……彼女の家の者は、誰も残っていません。小さかった子どもも、遠縁の親戚も」
国が国として機能するために、憐憫は無用。特に責任を持つべき立場の者には、それに見合った重い制裁が加えられる。国と国民を守るために、禍根を残さぬように。時にそうした非情とも思える行為が行われる。
「――ここは、そういう家なワケです」
やけに明るい声音は、アランの気遣いだと知っていた。