14 変化の兆し
その夜以来、急に全てが変わるわけでもないが、確実に何かは変わった。
例えばひとつには、夕食の時間の晩餐室にはステラとネイサンの二人の姿が揃って見られるようになったこと。昼夜逆転の生活は相変わらずで、生活時間の合わない二人の妥協点がここだったらしい。
「……私も夜に起きていようかしら」
「無理だろう」
「無理ですね」
「旦那様。もう、ケリーまで」
給仕の侍女にも否定されてぷんと膨れるステラだが、反論はできない。何と言っても先日のあの晩、ネイサンを説き伏せたことに安堵したのか、そのまま寝入ってしまったのだ。
アランとケリーがキッチンに戻った時、目に入った光景はとても忘れられない。
すっかり眠ってしまったステラと、彼女を非常に不自然な体勢で支えたまま動けずにいるネイサン。長い付き合いのアランが、あんなに困惑した表情を隠しもしないネイサンは初めて見たと言うほどだった。
結局、握りしめたままのネイサンの手をステラが離さなかったので、ネイサンが抱え上げるようにしてそのまま寝室へと運んだ。
寝台に下ろしてもしばらくは手を離さなかったステラを、ケリーは複雑な顔をしながらこまごまと世話をしたのだった。
そんな実績がある為、大人しく夜はまたステラ一人の毎日。時間はともかく、せめて寝台で眠っては、と勧めてもなかなか頷いてくれない。
仕事に対して責任感以上の打ち込みを見せるネイサンは、やはり『仕事馬鹿』とケリーに称される。ステラも否定できないところが何とも言えなかった。
顔を合わせるようになっても毎日の手紙はまだ続いている。変わったのは、アランが返事を持って来るようになったこと。
とはいえ、戻って来るのはほんの一言二言。封筒にすら入っていない走り書きの紙を、ステラはいつも大事そうに受け取る。
ネイサンが忙しくしている仕事については明確な回答がない。答えられないこと、それこそがネイサンが隠す『事情』なのだろうとステラは思う。
ステラがウォーレス伯爵家にいることをネイサンは許したが、全てを話す気はなく、少しでも危険と思うことから遠ざけておきたいとの考えが透けていた。
それまで通り領地の勉強をして、時々街に降りる。ネイサンが言うような身の危険も特に感じることもなく、そんな風に過ごしていたある日の午後。ちょうど一区切りついたステラは気分転換に庭へ出ていた。
普段はどこへでも従うケリーだが、最近は家政婦のミセス・マイヤーに呼ばれることも多い。今日も一人きりだったが、邸内の警備は厳重な上に庭師も外で作業をしていたので不安はなかった。
あいにくの曇り空だが、すっかり春めいた風に気分も弾む。
青々と伸びる木々の新芽を眺めながら、ケリーに持たされた日傘を時折くるくる回して歩いていた。
こんな風にしていると、何か危険があるとはとても思えない。
亡くなった婚約者という人がその為に命を落とした、と言ったネイサンを信じていない訳ではないが、ごく普通の生活を送る毎日ではそういった実感に疎くなるのも仕方がない。
そんなことをぼんやり考えながら歩いていたが、やはり頭に浮かぶのはネイサンのこと。昨夜は特に疲れた様子だった。平気そうな顔をしていたけれど顔色も良くなかったし、目が痛むのか、時折眇めたり指で押さえたりしていた。
寝室に戻るのが無理なら、せめて作業する部屋それぞれに寝台を置いたらどうかと言ってみたのだが、あまりいい返事はなかった。
今のままの生活では遠からず体を壊してしまうだろう、でも聞いてくれない人にはどうしたらいいのだろうか……ため息をついてふと気が付くと、すっかり庭から離れ林の塔の側まで来てしまっていた。
「いけない、戻らなきゃ」
庭師の目の届くところにいるように言われ、頷いたのに。
踵を返し一歩踏み出そうとしたところ――カシャン、と何かが割れるような音がステラの背後から聞こえた。
立ち止まって耳をすますが、あたりは静けさが戻って何の音もしない。しかし、間違いなくステラの耳に届いたその音は、後ろの石造りの塔からとしか考えられなかった。
誰も入れないはずの塔から音がする……塔は、使ってはいないと聞いたが、中が空だとは誰も言わなかった。
置いてあったものが、入り込んだネズミに倒されたのかもしれない。
古くなった木の棚が痛んで崩れたのかもしれない。
――でも、もし、誰かが中にいたなら?
ステラは小走りで塔の元へ駆け寄り、石壁に耳をつけるが、当然のように何も聞こえてはこない。
惜しい気持ちで見上げると、一本の枝が明かり取りの窓の高さに届いているのに気が付いた……あそこまで行けば中が見えるかもしれない。最近はしていないが、木登りは得意だ。もっと高いところまで行ったこともある。
ステラの行動は早かった。日傘をたたみ、腰のサッシュを解き、それでスカートをたくし上げてとめる。踵のある靴とストッキングを脱いで裸足になると木の幹に手を掛けて、登り始めた。
久しぶりの行為に内心でびくつきながらも、目的の枝だけを見て上を目指す。
ようやくその高さまでたどり着き、しっかりとした幹の分かれ目に落ち着いて背中を預けた時には、額に汗が滲んでいた。
上まで来てみれば、明り取りの窓は結構な大きさだった。そして、下からは見えなかったが『開いて』いた。
誰もいない塔の窓が開いている――?
引っかかるものを感じながら首を伸ばして覗き込めば、奥は暗くぼんやりとして、何かあるようだがよく見えない。
塔へと伸びる太い枝は、もう少し近づいても大丈夫そうだ。片手を幹につけながら、少しずつまた動き出す……腕をうんと伸ばせば塔に届きそうなくらいまで近づいて、揺れる枝にこれ以上は無理だと止まる。
せっかくここまで来たものの、さっき見えた以上のものは見えなかった。
そうして、少し落ち着いてみると、自分がいかに危うい場所にいるのかを急に実感した。
落ちたらただでは済まない高さで地面までにあるのは空間ばかり。こんなところをケリーに見られたら大変だ。そしてその理由をネイサンが知ったら、無謀な真似をしたと怒って心配するだろう。
降りよう。そう決めてそっと動き出した時、塔の中で何かが動いた。
目の迷いかと思って、二、三度瞬きを繰り返す。
その何かは奥の方からだんだんと窓の方へ近づいて来て――シャツの腕をまくった片手に紙の束、反対の手には封筒。
その手紙の表書きに落としていた目をふと上げた顔は、窓の外のステラに眩しげに目を眇め、驚愕というより呆然とした表情に変わる。
「……だんなさま?」
多分、ステラも同じ顔をしていただろう。
放り投げるように書類や手紙を手放すと、ネイサンは明り取りの窓を乱暴に開け放した。
「ステラ! 何をしている!?」
「わ、私……え、旦那様? 本当に? ――っ!!」
驚いた拍子にバランスを崩したステラの乗った枝が大きく揺れる。
「っ、手を!」
半身を乗り出すように伸ばされたネイサンの手に何とか届いた指先を握り込まれ、強い力で引き寄せられる。腰に腕が回されたと思った時は、二人して塔の中に倒れ込んでいた。
ネイサンを下敷きにする格好で抱き込まれるステラの耳に、密着したシャツ越しに荒れた鼓動と息遣いが響く。自分の心臓もうるさいくらい早鐘を打っていて、比喩でなく息が止まるかと思った。
「……一体、何を!」
頭の上で響く怒声に、安堵がにじむ。今更恐怖に襲われて、ネイサンのシャツを握りしめた。
腕の中で小さく震えるステラに気づき、ネイサンは諦めたように大きくため息を吐いてステラの背に回した手で宥めるようにさすった。
「……こ、こわかった……落ちるかと」
「それはこっちのセリフだ――あんなところで何をしていた?」
厳しく問い質す声に顔を上げて、視線を合わせる。眩しそうに細められるネイサンの薄青の瞳が、いつもより弱々しく光って見えた。
「……歩いていたら、こちらの方まで来てしまいまして……塔の中から何かが壊れたような音がしました。それで、上の窓からなら見えるかなあ、と」
「登ったというのか」
「木登りは、よくしましたから」
「だからと言って、落ちたら死んでもおかしくない高さだぞ。それに、本当に誰か入り込んだ奴らがいたらどうするつもりだった」
怒りを押し殺したネイサンの言葉に、強い力で引かれた腕よりもステラの胸が痛んだ。
「夢中で……上に着いて、ようやくそう思い至って戻ろうとしたら、」
「私に見つかったと」
ネイサンはもう一度長く息を吐くと、指先でステラのほつれた髪を耳にかけた。
「顔に似合わず向こう見ずなことをする」
「申しわけ、ありません」
ネイサンの瞳の中の自分を見ていられなくて、ステラはまた顔を伏せた。
耳に当たる薄い布の向こうでだんだんと落ち着いてくる鼓動と、ふわり漂う紙とインクの匂い。
やけに安心して、どうしてか涙が出そうだ。
「……私が驚かせたのも、悪かった。しかし――頼むから、大人しく守られていてくれ」
ネイサンの腕の中で何度も頷くステラは、冷えた指先にようやく温度が戻るのを感じた。