12 話し合いはキッチンで
とっぷりと更けた深夜。伯爵家のキッチンには当主ネイサン、従兄弟で片腕を自認するアラン、奥方様のステラの三人がお茶のカップを前に配膳テーブルを囲んで座っていた。侍女のケリーは着座を固辞して、ステラの斜め後ろに立っている。
アランとケリーに求められ、ステラは順を追って外に出た理由を説明する。心持ち椅子を引いたネイサンは、少し影になったところで腕組みをして黙って聞いていた。
「……はあ。それで追いかけて外に出たと――あの、奥方様? ちなみにどちらからお出になりました、正面ですか、居間の大窓ですか?」
「あら、そこの裏口よ。今、入ってきたのと同じところ」
ステラは廊下の方へ軽く首を振って、事もなげに返事をする。このキッチンの前の廊下を走り抜けて、すぐ脇の木戸を開けて出て行ったと。
「……ここにいた俺が気付かなかったなんて」
「失態だな、アラン」
「相変わらず猫みたいですね、ステラ様。いいえ、褒めていませんから」
心配かけたわね、と振り返り軽く謝るステラをケリーは遠い目をしながら嗜める。まるで姉妹のような二人にアランはうなだれたまま毒気を抜かれた。
「え、奥方様ってそういう人?」
「そういう人がどういう人か分かりませんけど。音を立てずに歩いたり、木に登ったりするのは子どもの頃からお得意でいらっしゃいます」
「嫌だわケリー、そんな言うほどじゃないわ」
「ですから、褒めていません」
恥ずかしそうに照れて笑うステラにケリーは軽くため息をつく。普段はいかにも大人しめで聞き分けの良いこの主人がそういった行動をするのは、自分の為ではない時ばかりなのもよく知っていた。
落ちた鳥の雛を巣に戻すときや――木の上に登り、考え事をする自分を追って来てくれるとき。二人で見た方が綺麗ね、と五つも歳下の子どもに枝の上でぴったりとくっつかれて、何度も一緒に夕陽を見たクレイトンでの遠い日々。
ステラのその心が、今はこの向かいに座る無表情な男に向けられていることを、ケリーは敏感に感じ取っていた。
それはまだ、恋や愛と呼べるようなものではないようだけれど。
「本当に、お優しすぎる……」
「え、なあに? 聞こえなかったわ、ケリー」
「いいえ、私は使用人室の方に下がらせていただきます、と申し上げました。まだ仕事が残っていますので」
問いかけたステラではなく、まっすぐアランの方に向いて返事をするケリーに、心得たとばかりにアランも立ち上がる。
「俺も警備に確認してくる。ネイト、勝手に戻るなよ」
「おい、アラン」
「いい機会だ、よく話しなよ。それじゃあ、奥方様。一旦失礼致します」
ケリーは綺麗な礼をして、アランは後ろも見ずに出て行ってしまいキッチンには二人だけが残された。
一度浮かせた腰を椅子にどさりと戻し、ネイサンは今夜もう何度目か分からないため息を吐く。
「……あの」
微妙に気詰まりな沈黙を破ったのは、今度はステラの方だった。目線で促され言葉を続ける。
「今更なのですが。大事なことをお伺いするのを忘れておりました」
「何だ」
「あの、旦那様……ですよね?」
思いつめたような真剣な表情をステラから向けられて、ようやく文句の一つも出るかと身構えたネイサンはやはり呆気に取られる。
よほど意外な顔をしたのか、ネイサンを見て慌ててステラは言い訳を口にする。
「いえ、あの、間違いはないと思ったのですが、ちゃんと確かめてもおりませんでしたし、私そういえばお顔も存じ上げなく、」
「ああ、いい」
頬を染めて両手をはたはたと振るステラに、そういえば、名乗られたが自分は名乗っていなかったと今更ネイサンは気が付いた。お互いに先ほどが初対面であったことも。
――文通とは言えない手紙で、もうずっと前からステラのことを知った気になっていた。
「私がネイサン・カーライルだ。名乗りが遅れたことを詫びる」
「そんな、いいえ……お会いできて、嬉しいです。ステラです」
「さっき聞いた」
「そうでした」
今度はまるで花がほころぶように笑うステラを、ネイサンは目を眇めて少し眩しそうに見た。
「……この、結婚は」
「はい」
「不本意だろうに。どうしてそうやって笑っていられる?」
不満の一つくらいあるだろう、と言われ、ぱちりと瞬きを一つしてステラは首をかしげる。
ネイサンの声音で、本心から疑問に思っているということは伝わってきた。
「そうですわね……そちらへ行っても?」
言いながら席を移ったステラは、これでお顔がよく見えます、とすぐ近くの椅子に並んで腰を下ろした。
アランとケリーが持っていってしまったから、キッチンの明かりは大きめのものが一つだけ。暗くはないが、離れて座る相手の表情がよく分かるとは言えなかった。
壁の明かりを灯して回るよりも近寄った方が早いと思ったのだろうが、二人して棚の陰に半分隠れるような格好。
先ほどから予想外のことばかりで、ネイサンは内心で軽く狼狽えるが、ステラは気にしないようで話し出した。
「……見せられた婚姻証明書によりますと、届けの日付はお祖父様が少し回復された頃でした。外出こそ出来ませんでしたが、お客様とお話をしたり手紙を書いたりは、時間はかかりますが問題なくなさっていたのです」
頷くネイサンに、ステラは思い出すようにしながら話し続ける。
「その時期、特別変わったお客様はいらっしゃいませんでした。ですから、お手紙で色々なされたに違いないと思うのです。今となってはそれを確かめる術はありません。でも……お祖父様が決めたことなら、何か理由があると思うのです」
「理由か」
「はい。お祖父様は穏やかな気性でしたけど、筋の通った方でした。私に遺産も何も遺されなかったこと、お手紙でも書きましたわね」
読んでいただけましたかと柔らかく問われ、生い立ちから最近までの色々も含まれていたステラからの手紙を思い出し、ネイサンは頷く。
遺言のくだりを読んだ時、憤りを感じたことは押し隠した。
「まるで、逃げ道を塞ぐようなやり方だとはお思いになりません?」
「……確かに」
「最初は私も混乱していて。しばらくして、落ち着いて考えた時にそう思ったのです。きっと、お祖父様はどうしても私をこちらに嫁がせたかった。でも、何か言えない事情があるのではないかと」
その『事情』に心当たりがありすぎるネイサンは、半ば納得した。騙し討ちのような縁組には物申したいが、確かに軽々しく口にできることでもない。
「なるほど……しかし貴女はそれでいいと? 突然あてがわれた面識もない夫ではなく、結婚したい恋人の一人や二人いなかったのか」
ネイサンとしてはごく当然の考えだった。若く、健康で、容姿も申し分ない男爵家の跡取り娘。婚約者や崇拝者がいて何の疑問もない。
そんなネイサンにステラはきょとりと不思議そうだ。
「おりませんでしたわ」
「では、想う人は?」
さっと変わった表情を隠しきれないステラに、ネイサンは内心苦笑した。この『妻』は全部ぜんぶ、顔に出る。
「別に咎めるつもりはない。そっちはよかったのか」
「あ、あの、あの、本当にそういうのではないのです。ただ、ちょっと、こういう方のお嫁さんになれたらいいだろうなあって、子ども心に、」
「今からでも遅くないだろう。きっとそのほうがいい」
「違うんです、本当に」
「否定しなくて構わない。それで相手は」
有無を言わせないネイサンに問いただされて、ステラは諦めて息を吐いた。
本当に、ただの子どもの頃の話なのに。
「……ミセス・フロストのお孫さんが」
「ああ、クレイトン卿のご友人の。約束はしているのか?」
ここを出てからのステラの行き先の一つとして内密に調べた。名前から、西方のハクルート伯の系かと思ったが、意外にも該当する人物が特定できず調査の手を広げていたところだった。
随分と長く卿と付き合いがあるから悪人ではないのだろうが、出自が不明なのはいただけない。この家に来てからは手紙が届いたことはないが、現時点でネイサンの中でミセス・フロストは正体不明の要注意人物だ。
その身内を持ち出されたことが、なぜか面白くなく感じた。
「っ、とんでもない! だって、あの、本当に。ちょっとだけ、お会いしてみたいなって思っただけで……だって、もうとっくにご結婚されて、今頃はお子様もいらっしゃるでしょうし」
泣きそうに首を振るステラの話はこうだった。
ミセス・フロストが時々話題にする孫の話を聞いているうちに、自分も興味を持った。しかし歳が離れていて友人にもなれないだろうと諦めていた時に、その孫が婚約したとの話を聞き、それ以来、話題に上げることも避けていたのだという。それだって十年近くも前の話だ。
力なく尻つぼみになりながら否定するステラに、今度こそネイサンは苦笑した。それが全てだというなら、クレイトン卿は孫娘を随分と厳重な箱に入れて育てたものだ。
「だから、本当に。そういうのではないのです……」
だとすれば、やはりここにおいては置けない。ネイサンは努めてその声と表情から感情を消した。
「では、他に行き先を探さなくては――まだ、死にたくはないだろう?」




