11 遭遇
かたり、という小さな音に気がついたのは真夜中だった。
広い寝台を独り占めするのにもすっかり慣れてしまい、途中で目が醒めることもなくなっていたある夜のことだった。
半分寝ぼけながらそっと起き上がり、音のした方――『旦那様』の部屋へと続く扉を薄暗がりの中じっと見る。
かすかに聞こえ続けた音は、やがて静かに扉が閉まる、かちゃりという音を最後に何も聞こえなくなった。
しばらくは動けずにいたステラだが、二度瞬きをすると慌てて自分の私室に戻り、そこから廊下を覗くが既に人の気配は感じられなかった。
今のは、もしかして旦那様だろうか。
何か用があったのだろうが……自分の部屋なのに、こんな夜中に忍ぶように来させているのは『奥方様』の存在のせいなのではないかと思うと、なんとも言えない気持ちになる。
この屋敷に来て既に二ヶ月近く。未だウォーレス伯ネイサン・カーライルとは面会も叶わず、見事なまでに名ばかりの夫婦だった。
すっかり目が覚めてしまったステラは、窓辺に近寄り厚いカーテンをそっとめくる。折しもの満月は雲のない空で明るく輝き、眼下に見える伯爵家の広い庭を静かに照らしていた。
綺麗に整えられた庭は昼間とは違った趣で魅力的だ。もう少し眺めていたいが、さすがに夜中の窓辺は冷える。手近にあった濃い藍色のショールに手を伸ばしたステラの目の端に、何かの影が映った。
植栽の向こう、林へと続く小道を誰かが歩いている。
月明かりに照らされた姿は夜に紛れるような黒ずくめ。迷うことなく林の方へ向かっていて、それはどうやら男性のようだった。
二階から見下ろしているから、背の高さもはっきりしない。月明かりでは髪の色さえ微妙だ。でも――
「……旦那様?」
会ったこともない人。しかも後ろ姿でわかる訳はないのに、そうとしか思えなかった。
そしてそれ以上考える暇もなく、ステラは部屋を飛び出していた。
室内履きを変えることも思いつかなかった。土に汚れた足元にようやく気が付いたのは、邸からずいぶん離れた古い塔の近くまで来てから。
二階から見えたあの『誰か』は、こちらに向かったはずだとステラには根拠のない確信があった。
この石造りの塔は作業棟や他の小屋と同じく、邸内にある建造物の一つだ。二、三階ほどの高さのところに明り取りの窓があるだけで、他に出入り口の扉は見つからない。
どこから入るのか、何の為の塔なのか。ケリーと二人で不思議がったが、執事や家政婦も、庭師も知らないとの返事。
聞けば、使用目的は不明だが初代ウォーレス伯爵の頃に建てた古い塔で、かなり頑丈に作られているため壊すこともならず、以来ただここにあるのだそうだ。最初の頃には開いていたはずの出入り口がいつ無くされたのかも分からないという。
木立の中に佇む、誰も入れない古い塔。
なぜか懐かしいような、不思議な雰囲気がするここを気に入ってステラはよく散歩に来ていた。
月明かりがあると言っても、さすがに樹に遮られて光量は減る。それでも歩くぶんには問題ない。
風も止み、自分以外の生き物は誰も彼も眠っているかのような音のない夜。旦那様の後を追って出たはずだが、この広い庭でそう簡単に見つけられるわけもない。
走って乱れた息を大きく吐いて整えると、ステラはようやく落ち着いた。
我に返ると自分の慌てぶりがおかしくなるとともに、反省もした。
旦那様だと思い込んでしまったが、違う人だったら? 伯爵家の警備は厳重ともいえるほどだが、物盗りや不埒者が絶対に入り来まないとは限らない。
――自分は何をやっているのだろう。
すっぽりかぶったショールからこぼれた一房の髪を見て、弾む息を整える為の深呼吸はやがてため息へと変わる。
旦那様かもしれない人を見かけたからって、こんな夜中にこんな格好で息を切らせて。事情があるとは聞いているが、会うことを望まれているわけでもないのは、ここに来てからの毎日で嫌という程身に染みているのに。
それでも、会いたい、会わなくては、と思う気持ちは抑えられなかった。
春を迎えたとはいえ、まだ冷える。急に吹いた風に体温を奪われ、ふるりと肩が震えた。
ショールの前をぎゅっと引き寄せた時、音もなく後ろから伸ばされた腕にステラは突然捕らえられた。
「ーー!?」
「ここで何をしている」
耳元で殺した誰何する声は、決して大きくはないのに腹の底に響くようだった。
硬く質量のある体が背後から密着して自由を奪われる。片手は容赦のない力でがっしりと腰に巻きつき、反対の手のひらで口を押さえられて、まるで自分が捕獲された『不審者』のような扱いだと、混乱する頭のどこかでステラは思った。
「――? お前は……」
強引に首を振り向かされて被っていたショールがぱさりと落ち、息苦しさに涙が浮かぶ。月明かりの下で見上げた顔は、ひたすらに驚きを浮かべてステラを見下ろしていた。
身長差からほぼ持ち上げられる格好で、お腹に回った腕が痛い。
その腕を、何とか動かせる手の先でぴたぴた叩いて、ようやく拘束が緩む。それでもまだ大きな腕の中で、足を地面につけたステラはもう一度息を整え、くるりと後ろを向いて真正面で顔を見上げた。
濃い髪色、鋭い目元。驚きを隠せていない瞳、何か言いかけて止まった口。
……ああ、やっぱり。
何故か初めて会う気がしない。自然と笑みがこぼれた。
「初めまして、旦那様。ステラです」
ようやく、会えた。夫婦の対面は木漏れ日のように月の光が降る中だった。
しばらくは二人とも無言でただ見つめ合っていたが、先に動いたのはネイサンだった。
ステラから一歩下がり不自然でない程度に距離を開けると、詰めていた息を吐き、髪をかき上げ額を抑える。
「……ステラ・クレイトンか」
「ステラ・カーライルですわ」
楽しげに訂正されて、ますます眉間にシワが寄る。
「こんな夜中に何をしている」
「眠っていましたら何か音がして目が覚めました。寝付けなくなったので外を眺めたら、どなたかが歩いているのが見えて……」
「それで追って外に出たというのか。馬鹿なことを」
「だって、旦那様だと思ったのですもの」
本気で呆れている声音に、ステラはあっけらかんと返事をする。
ネイサンの厳しい視線は薄い夜着の上にショール、裸足に室内履きの足元という無防備な姿を確認して苦いため息に変わった。
「……寒くないのか」
「さすがに、少し」
慌てていたから、と困ったように肩をすくめるステラにいよいよ大きく息を吐くと、ネイサンは自分の着ていた上着を脱いでステラの肩にかけた。
「ありがとうございます……大きいですねえ」
裾は膝の後ろまでくるほどだ。ステラは楽しげに袖を持ち上げて、すっかり布に隠れた指先を振ってみせる。
「大人の服をいたずらに着た子どもみたいですね」
「黙って部屋を抜け出すなど、子どもと変わらない」
「あら、言われてしまいましたね。ふふ、あったかいです」
「……部屋まで送る」
余った袖を頬に当ててステラは温もりに目を細める。それだけ言うと黙って背を向け屋敷へと向かうネイサンは、ぞんざいな態度を取りながらもステラに歩幅に合わせてくれている。
そんなことに気がついて、まっすぐ伸びた背中を見つめるステラの口元は自然と緩むのだった。
ネイサンは屋敷の裏手、キッチン前の廊下に通じる出入り口へとステラを連れて行った。ステラが後ろにいることを確認すると迷いも見せずに扉を開く。
その先にいたのは本日の不寝番、アランとケリーの二人だった。
「え、ネイト? どうした?」
「ステラ様っ!?」
持っていた湯気の立つカップを慌ててテーブルに戻すと、ケリーは手前に立つネイサンには見向きもせずに扉の前で立ち止まったままのステラへと走り寄る。
「庭にいたから連れてきた」
「奥方様が、ええ? 何でまた」
「そんなこと、こっちが知りたい」
面白くなさそうな当主と混乱しきっているその片腕、その一方では慌てる侍女とおっとり微笑むその主人。
「まあケリー、今夜はアランとペアだったのね。ん、今夜『も』かしら」
「そんなことよりっ、ああ、泥だらけじゃありませんか。お怪我はされていません?」
「それは大丈夫なのだけど……脱いだ方が早いわね」
なかなか入ってこないのは、汚れた履物を気にしていたからのようだ。珍しく取り乱す侍女の前で、泥落としから足を外して土まみれになった室内履きを脱ごうと屈んだステラは、ぐい、と抱きかかえられる。
膝裏に腕が差し込まれ、渋い表情のネイサンの顔がすぐ近くにあった。
「タオルを」
驚きに目を見開いたケリーは一瞬の後に踵を返して動き出す。ぽかんと大口を開けたままのアランの前を過ぎ、ネイサンはまだ火が残って温かいオーブンの近くの椅子にステラをおろした。
少し驚いたステラの瞳がゆっくりと笑みの形に変わる。自然とネイサンの広い肩に回していた両手を解くと、また高いところに戻った顔をしっかり見上げた。
「ありがとうございます。重くありませんでした?」
「……いや」
目を何度も瞬かせながら二人を見つめるアランが気を取り直す前に、数枚のタオルと桶にお湯を用意したケリーが戻ってきた。さっとステラの前に膝をつき、履物を脱がせ始める。
「え、なに。ネイトが奥方様をお姫様抱っこ? 幻覚?」
「うるさい」
なぜか誰もが小声で話す夜中の伯爵邸のキッチンで、表向き静かに夜が更けて行った。