10 交流
ウォーレスの領主が奥方様を迎えたことは、特に触れて回ってはいないが口止めをしたわけでもないので、新しい噂話の一つとして領内に知れ渡っていた。
そして、雪舞草を見に行った日から、使用人達の勧めもあってステラは時々外出するようになった。
見たことのない若い貴族女性が屋敷の使用人を伴って現れれば、いやでもステラが奥方様なのだと推測は立つ。
しかもステラの色の薄い容姿はここウォーレスでも珍しかったので『時々お見かけする奥方様』は本人の知らぬ間に一気に有名人になってしまっていた。
しかし、ここにきて領民たちにも疑問が出てくる。
『黒伯爵』に嫁いだにしては、ステラは元気で健康そうで、街に降りてきてはいつもにこにこと笑っている。必ず一緒にいる黒髪の侍女も、特に不自由さや恐怖を感じているようすはない。
――奥方様は脅して攫われてきたのではなかったか。伯爵は、役に立つ使用人は見逃すが、少しでも気に食わないと容赦しないのではなかったか。
そんな、よく考えたらとんでもない疑いを直球でぶつけたのは、パン屋の前で出会った子どもだった。
パンの入った袋を片手に店から飛び出してきた男の子は、その勢いのままちょうど先を歩いていたステラにぶつかり、見事に転んだ。
買ったばかりのパンを死守することに必死で誰にぶつかったのか気づいていない男の子にかわって、相手が『黒伯爵』の奥方様だったことに青くなったのは、後から出てきた母親と周囲の大人たちだ。
大慌てで駆け寄る母親に驚き、周りを見回せば自分の周りはぽっかりと空間が空いて少し離れて不安顔で見守る人々。
目の前には、今ついたばかりの泥汚れをしっかりと主張する、色は地味だが間違いなく高級そうなドレス。
恐る恐る見上げれば、驚いた表情で自分を見つめる色の白いお人形みたいな貴族の女の人……そこでようやく相手が奥方様だと理解した。
「っ、わっ、ご、ごめんなさいっ!」
慌ててパンを母親に押し付け、ドレスの汚れを払おうと両手でスカートの裾を叩くが、手には転んだ時の土が付いていてますます汚れてしまった。
まだ赤子の妹をぎゅっと抱きしめる母親はその恰幅の良い体で今にも倒れそうにしているし、少年は泣きそうになる。
どうしよう、大変なことになってしまった。せっかく買ったパンだけど、これを渡したら許してもらえる? ああでも『黒伯爵』はこんな街のパンなんて食べないかもしれない。鞭で打たれちゃうのかな、それともお返しに家の鶏を攫われたらどうしよう――普段は賑やかなのにしんと静まり返った周囲の異様な雰囲気に、喉の奥が詰まり、男の子の心臓は壊れそうなほど鳴っていた。
我慢できずにぼろりとこぼれた涙を拭ってくれたのは、なぜか目の前の『黒伯爵』の奥方様だった。
「危ないから飛び出してはダメよ。怪我はない?」
――天使だ。
柔らかいハンカチをそっと頬に当ててくれて、溢れる涙を拭ってくれる。
安堵のあまり呆気にとられている子どもの後ろで、母親とお付きの侍女がいつの間にか話し始めていた。
「ステラ様。彼女の自宅が近いそうですので、そこでお召し物の汚れを」
「は、はいっ、狭いところですが、ぜひ! あの、あの、私、針子をしてまして、布の扱いには慣れておりますので、はいっ」
「あら。じゃあ、頼みましょうか……坊や。ぶつかった罰に道案内をなさいな。決して寄り道をしたり迷ったりしてはいけませんよ。それが立派にできたら許してあげましょう?」
「は、はいっ!」
わざと仰々しく宣言する『奥方様』に周囲の雰囲気も明るくなる。そうしてやたらと張り切る少年に先導され、野次馬を引き連れて家に着き、ドレスの汚れは母親の手によってほとんど分からないくらいに綺麗になった。
興味深そうに狭い家の中を眺めている奥方様は、目が合えばこちらを安心させるように微笑んでくれる。よかった、怒っていないようだ。
ようやく安心した子どもは気が緩んだのか、かねてからの疑問がつい口をついて出てしまった。
「奥方様は『黒伯爵』に、いじめられているんじゃないの?」
母親は今度こそ卒倒しそうになり、開け放した扉の向こうの野次馬は息を呑む。
妙な緊張感が張り詰める中、いじめられているはずの奥方様は、心から不思議そうにしている子どもの目を真っ直ぐに見つめ、同じくらい不思議そうな顔をした。
「まあ、どうして?」
「だって、みんな言ってるよ。伯爵様は悪い人だって。奥方様は攫われて来たんでしょう?」
「違うわ。王都の近くのクレイトンっていう所から、お迎えの馬車に乗ってお嫁に来たのよ」
「そうなの?」
「ええ、そうよ。そうね、あなたから見て私はどう見える いじめられているように見えるかしら?」
そう言われて、子どもは奥方様の頭のてっぺんから爪先までじっくりと眺める。
「どうって、ええと……色が白くて、綺麗な服を着て、お母さんより細くて、でもガリガリでもないし、それに」
「それに?」
「……にこにこしてる、きれいな人」
「あら、きれいだなんて嬉しいわ。ねえ、ケリー聞いた? 私、綺麗ですって」
嬉しそうにはしゃいで侍女を振り向く奥方様に、周囲から安堵の溜息が盛大に沸き起こる。
意地悪をされていたらこんなに楽しそうに出来るわけがない、そう気付いた男の子の興味は視線の先の侍女、ケリーに移った。
「お姉さんも、奥方様と一緒に来たんでしょう、伯爵様は怖くない?」
「まったく怖くありませんね」
だって会ったこともありませんから、との一言をケリーは内心で付け加える。子どもの質問はそれだけではなかった。
「言うことを聞かないと、鞭を打って地下牢に閉じ込めるって本当?」
さすがに慌てた母親に両手で口を塞がれモゴモゴ言いながらも、どうしても確認したいらしい。
ちらりと見回せば、野次馬に混じっている子ども達が真剣な眼差しをして固唾を飲んでケリーの返事を待っている……大方、子どもを叱る時の常套句に使われているのだろう。
ケリーはやれやれと肩をすくめた。大人達には悪いが、脅し文句は別なのに変えてもらおうか。
「少なくとも私はされたこともないし、そんな仕打ちをされたと言う人の話も屋敷で聞いたことがありません。それにお屋敷の中は全部見ましたけれど、地下牢があるなんて知りませんよ」
どっと湧く子ども達はその場で大人に窘められていた。そして、一度ならずの息子の無礼を平謝りする母親を、ステラは拍子抜けするほどあっさりと許す。
「謝罪は受けました。こうして泥も落ちましたし」
「ですが、奥方様」
「それなら一つ知恵を貸してくれないかしら。こちらの旦那様は大工をなさってるって言いましたわよね。やはり毎日疲れて帰ってくるのでしょう?」
急に何を言い出すのかと訝しみながらも、母親は大きく頷く。その後に続けられたのは、そこにいた誰もが予想外の言葉だった。
「伯爵様も、毎日お忙しくてお身体が心配なのだけれど、何か疲れに効くものはないかしら」
「え? あ、あの」
「本当、寝る間も惜しんで働いていらっしゃるから……私にお手伝いできるお仕事でもありませんし。何か、少しでも助けて差し上げたいと思うのだけど」
『黒伯爵』が仕事で忙しい? 遊んで暮らして、戯れに非情なことをすると信じ込んでいた領民達の頭上には一斉に疑問符が浮かぶ。
しかし、目の前の奥方様は本心から心配しているようだ。
「は、伯爵様がお仕事を?」
「ええ、もう毎日朝から晩まで……あら、違うわね、夜中もずっとお仕事ばかり。お食事だって簡単なもので済ませてしまわれて」
コックから聞いた伯爵の食事内容は、あまり褒められたものではなかった。コックやアランが気を配っているので一応は食べているのだが、仕事をしながら片手でつまめるようなものばかり。
当然時間など様々で、とっくに冷めきった頃に思い出しては口に入れるような状況だという。
それで寝室にも戻らず、仕事場の長椅子で仮眠を取って済ませているというのだから、いつ体を壊してもおかしくない。
何がそんなに忙しいのかは相変わらず伏せられているが、せめて食事と言えるものを取って、休むときはゆっくり休んで欲しいとステラは思う。
片手を頬に当て悲しげに眉を寄せるステラの本心からの憂い顔に、子どもの母親のみならず野次馬の面々も一斉に同情した。
それぞれが顔を見合わせる。
「……それでしたら、奥方様。やっぱり食べ物が」
「そうよね。肉かしら、甘いものかしら」
「いや、体の疲れならこう、揉んでほぐして」
「やり方にコツがありますの?」
「山の方にある温泉もいいって聞くな」
「まあ、それは良さそうね!」
そうしてステラがたくさんの情報を得て、迎えに来た馬車の小窓から嬉しそうに手を振って去って行く頃には『不吉な黒伯爵』から『仕事馬鹿な黒伯爵』へと、噂は変貌を遂げていたのだった。
カラカラと軽快な音を立てて去っていく伯爵家の馬車を見送って、集まっていた人たちもそれぞれに散らばっていく。
自分も家に戻ろうとしたところ、ステラを招いた母親は不意に後ろから声をかけられた。
「おかみさん、今のはウォーレス伯爵の? 」
「奥方様さ。お綺麗だよねえ、それにお優しくっていらっしゃる」
「へえ」
何の気なしに答えて振り向けば、鳥打ち帽を深く被った男が二人が立っていた。野次馬に乗り遅れた誰かだと思い込んで返事をしたが、どうやら違ったらしい。
「おや、お前さんら見ない顔だね。市の日はまだ先だよ」
「放っとけ。それより奥方様はよくここに来るのか?」
「最近は時々ね。何か用でもあるのかい?」
訝しげに訊ねると返事の代わりに横目で睨み、男達は踵を返して大通りの方へ消えていった。
仕立ての良いものをわざわざ着崩した服装は、お忍びの貴族のようだった。しかし、どこかすれて胡散臭い雰囲気は香具師の元締めを思わせる。
流暢だがほんの少し違和感を感じる発音、先ほどまでここにいた奥方様にはまったく感じなかった横柄な威圧感……。
「……嫌な感じだよ」
次に奥方様にお会いしたら伝えておこう。
そう決めると夕飯の支度の方へと頭を切り替え、家の中に入ったのだった。