9 手紙の先
ウォーレス伯爵家の本当の執務室。日光の入らない石壁で囲まれた部屋で人知れず執務に勤しむ当主ネイサンの元に、報告書以外のものが届けられるようになって暫くが経っていた。
袖机の右の引き出しに溜まっていく手紙は、先月来この伯爵邸に滞在している『当主の妻』となった女性からのものである。
最初、アランが意気揚々と掲げ持ってきた手紙を突然目の前に出されて、反射的に受け取ってしまったネイサンは、それがステラからのものだと聞いて頭を抱えた。
「え、もう少し嬉しそうな顔しなよ。可愛い奥方様からの折角の手紙だよ?」
「何が折角なものか。余計なことを」
「まあそう言わず」
押し返そうとしたが、両手を後ろに隠して下がられてしまった。諦めの息を吐いて仕方なく手紙の表裏を眺めれば、細いながらもしっかりとした手蹟。
「……彼女の行く宛は確保出来たか?」
「あー、レディ・ベアトリクスは実に抜かりない。信用できそうなところに打診してみたけど、どこもレディが先手を打っていてダメだね。使用人達もかなり言い含められているみたいだし、逃がしてあげる気は全く無さそうだよ……こうなった以上、ネイトも少しは歩み寄りなよ」
苦虫を噛み潰したような表情で黙り込み手紙を持て余しているネイサンに、まずは読めと言ってアランは自分の仕事に戻る。
カリカリと銅板を細い器具で引っ掻きながら片目で様子を伺っていると、ネイサンは腕を組んだまま机上に置いた手紙をしばらく睨みつけていたが、やがて封を開けた。
「――なんて書いてた? 恨み言?」
手紙を託された時の様子からいってもそれはないだろうと思っていたが、あまりにネイサンが無表情なままなので一応聞いてみる。二、三秒言い淀んで、呟くように返事がきた。
「……自己紹介」
「ん?」
「名前、生年月日、出身地、家族構成。趣味嗜好その他」
「……へえ。他には?」
「ない」
「それだけ? なんかないの、ほら、どうして会ってくれないんだ、とかそういうの」
ネイサンとて自分の行動が褒められた事ではないことくらい分かっている。経緯はどうあれ、正式に妻として迎えた花嫁を放置している状況なのだから。
責められるか、詰られるか。それらを予想して手紙を開けたのに、肩透かしもいいところだった。
“はじめまして、旦那様。旦那様とお呼びすることをお許しいただけますか?――”
そんな書き出しで始まった手紙は、いわゆる「手紙の習い」に則った書き方ではない、まるで話しかけるような文面が綴られていた。
“――お仕事がとても忙しいと聞いております。お食事はお摂りですか? どうか御身お大事になさってくださいませ”
二枚の便箋にはいわゆる自己紹介が続き、最後はこう締められていた。
「ふうん」
面白そうににやりとするアランを横目で黙らせると、便箋を封筒に戻し引き出しの中へと落とした。
「あれ、返事は?」
「ない」
「うわー、言うと思った」
呆れたようにおどけてみせる従兄弟はそれ以上は追求して来ず、そのまま仕事に戻ったが、翌日も、さらにその翌日も、それから毎日『奥方様からの手紙』を持参するようになった。
始めの数回は受け取る受け取らないの攻防があったが、アランが引かないのと、何をしても結局は手元に残されることから次第に無駄な抵抗はやめて、大人しく受け取るようになった。
手紙の内容は、ひと通りの自己紹介が終わると次は周囲の者たちのこと。伯爵家について学んでいることの内容、そんなことを書いてよこした。
引き出しに入れた手紙の層は厚くなるばかりだというのに、ネイサンを責める言葉も、返事を催促するような文言も一度もない。最近書かれる内容は日記のような様相を呈してきた。
一方的なお喋りを聞かされているようなものなのだが、不思議なことにそれを不快には感じない。
むしろ、執務室に来るアランの手にいつもの封筒があることを確認してしまうようになったことに、ネイサンは自分で驚いていた。
正式に受理されてしまった婚姻の事実を消して無くすことは不可能だが、関係を持たずになるべく早く解放してやりたい。そう思っているのに、手紙一つで絆されるわけにはいかない。
そんな日、アランの手には手紙の他に普段とは違うものがあった。
「雪舞草?」
「そう。これを口実にミスター・ノックスが連れ出してね。奥方様、初の外出だったよ。あ、大丈夫、すっかり香りは飛んでいるから邪魔にならない」
そう言ってアランはその辺にあったガラス器にぞんざいに花を生け、ネイサンの前にドン、と置く。陽の光の届かないこの部屋で、白い花はやけに存在感を出していた。
『黒伯爵』の噂が蔓延している領地にステラが行ったと聞いて、ネイサンは騒ついた心に蓋をして何気ない風を装う。
「もうそんな季節か」
「そうだよ、全く。あと、これ」
机に置いた手紙の上に、ポケットから取り出した小さな袋をペーパーウェイトのように乗せる。
「帰りに買い物してきたって、使用人たちにもお土産渡してたよ。で、これは『旦那様に』だって」
「……子どもか」
「疲れには甘いもの、なんだってさ。俺も貰ったけど、ネイトのほうのが美味そうだな」
袋の中は、薄紙に包まれた色とりどりの飴玉だった。自分で買ったと言うなら領民の態度も身をもって知っただろうに、まだこうして接してくるステラに、ネイサンは言葉にし難いものを感じる。
「今日も書かないの?」
「関わりは、無いほうが安全だ」
「あ、そう」
ネイサンは『返事を書かない』から『書いてはいけない』に、自分の心が変わっていることに目を瞑った。
* * *
その夜。ステラが一人で眠る主人夫婦の寝室を辞し、私室の片付けを終えたケリーは同じ階の侍女室ではなく階下のキッチンへ向かった。
伯爵家にはまず滅多に夜中の来客はないが、だからと言って使用人全員が寝惚けていていい訳はない。交代で寝ずの番をするが常に人員不足の伯爵家、奥方様の専属侍女もその役から外されることはないのだった。
キッチンの扉を開けるとそこにはアランがいて、ケリーの顔を見ると開口一番に謝る。
「ごめーん」
「今日も無いのですかっ? 」
「ちょ、声が大きいって」
慌てたアランに口元を大きな手で塞がれて、ケリーは上目で睨み口をつぐむ。その時ちょうど火にかけていたお湯が沸き、ケリーはそちらへするりと身をかわした。
それを残念そうに見送って、アランは手際よくお茶を用意する侍女を眺める。
クレイトンからの道中ではお互いに警戒していたが、ケリーの物怖じのなさとアランの気さくさも手伝って、今ではすっかり軽口をききあう仲だった。
「……いい加減に、返事の一通くらい書いたっていいと思います」
「だよねえ、気にしてんの見え見えだっての。今日こそはって俺も期待したんだけど、子どもっぽい意地はっちゃってさ」
「実年齢はどうあれ、ステラ様のほうが確実に大人の対応です」
根雪が溶けようと雪舞草が咲こうと、夜はまだ冷える。湯気の立つカップを傾けながらしみじみと愚痴り合う。
「ステラ様があのように仰るから堪えてきましたけれど……私、あまり気は長くないのです」
「あの、ケリー? 目が据わってない?」
テーブルの上のマグカップを両手で包むように持つケリーは、引きつった表情のアランに向けて一層艶やかに笑ってみせた。
「私の大事なステラ様を勝手に嫁にしたばかりか、一ヶ月も放置した上、手紙にも贈り物にも反応ひとつない。これが怒らずにいられましょうか?」
「わ、分かるっ、分かるけど」
「いい加減にステラ様をお連れして出奔したくて仕方ありません」
「それは、ケリー頼むよ。だいたい行くあてなんかあるのかい?」
ふふん、と勝ち誇った表情の侍女になんとも言えない迫力を感じて、アランはちょっと後ろに下がる。
「味方になってくださりそうな方ならミセス・フロストを筆頭に幾人か」
「ああ、前にも聞いた人だね。クレイトン卿のご友人だったかな」
ちょっとまだ裏は取れてないけど、とのアランの小さい呟きを気にもせず、ケリーはそのまま話し続ける。
「本当の孫娘のように可愛がっておいででした」
「うん。分かってる。色々明かせないことが多くて、本当に奥方様には申し訳ないんだけど、もう少しだけ待ってくれないかな」
「話せない事情など聞きたくもありません。むしろ絶対に言わないでください。私はステラ様さえお幸せならば、そちらの事情などどうだっていいんです」
「ケリーもブレないね……レディ・ベアトリクスの強引なやり方は正直どうかと思うけど、ここに来たのが奥方様のような方だったのは、本当に幸運だったと思ってる。ネイトには、彼女みたいなひとが必要なんだよ」
本心からネイサンを案じているアランの声は真剣だった。血の繋がりとか主従とかを抜きにして、お互い一人の人間として成り立っている関係なのだと伝わってくる。
それはケリーも同様だ。
ステラは支えるべき大事な主人であり、妹のような存在でもあり、そして文字通り、自分を救ってくれた人なのだ。
「それを、伯爵様ご自身が理解していないのが問題なのです」
「ああ。本当にな」
手が止まるたびに雪舞草に目がいっていたネイサン。
菓子屋で一番時間をかけて飴を選んだステラ。
それぞれの主人を思い浮かべた二人の視線が絡む。
大きなため息がふたつ、夜半のキッチンに響いて消えていった。