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プロローグ:クレイトンの執務室


 暖かくなり始めた日差しに柔らかな緑が芽吹く早春。

 子どもたちは雪解けの野原を競って駆け回り、ようやく冷たさもやわらいだ水におかみさん達もほっと一息。さて今年の畑はどうだろうかと、鍬を持つ手を休めて空を見る男達の目は期待に満ちている。

 そんな晴れやかな外とは対照的に、王都にほど近いクレイトン男爵家のこぢんまりとした執務室には、どうにも気まずく重苦しい空気が漂っていた。


 季節に似つかわしくない渋い表情の中年の男性が二人。窓を背に、一人はマホガニーの執務机に座り、もう一人は書類の束を手にその脇に立っている。

 対するは、うら若い令嬢と、扉近くに控えるお仕着せを着た黒髪の侍女。立ち姿も美しい令嬢はどこもかしこも色が薄い。

 銀と見まごうばかりの薄金色の髪に明るい琥珀色の瞳。抜けるような白い肌に、今は頬の赤みもなくまるで紙のよう。着ているものが喪服でなければまるで春の光に溶けてしまいそうな容姿だが、その珊瑚色の唇から出た声は落ち着いてしっかりしたものだった。


「デニス叔父様、タイラー先生。お話は分かりました」

「お前には異論があるだろうね、ステラ。だがな、遺言はさっきタイラー氏が読み上げた通りだ。このクレイトン男爵家は私が継ぐことになった」


 タイラーと呼ばれた片眼鏡の男性は、いささか寂しくなった頭を軽く下げ同意を表す。


「……お祖父様は、私に婿をとって男爵家を継がせるとずっと仰っていましたが。マーロウ先生からもそのように」

「残念ですが、ステラお嬢様。何度読み返しても、そうとは一行も書かれていないのですよ。ご署名もありますし、疑う余地がございません」


 心底申し訳なさそうに釈明するのは昨秋代替わりした息子タイラーだ。その手の中では何枚もの書類や封筒がカサカサと音を立てる。


「直筆の遺言書には、男爵家は男子が継ぐ、とのみ。卿の直系でご存命なのはステラお嬢様ただ一人。現在そのお嬢様に許嫁も定まっておられない以上、一番近しい親類で最も年長の男子であるデニス様が次期当主になるのが、順当なのです」


 デニス叔父は、亡き当主ジェームズ・クレイトンの弟の再婚相手の連れ子――義理甥で、ステラの叔父にあたる。確かに親類縁者ではあるが彼はずっと王都に住んでおり全くの疎遠で、血の繋がりもなければ、もうすぐ十九になるステラがこの歳まで会った記憶もなかった。

 初対面が祖父の葬式だったというのに、このクレイトン領とも地縁のない彼が継ぐのだという。

 ステラには、自分こそが男爵家を継ぎたいという意思があるわけではなかった。

 女性の領主はそこまで珍しくもないが、後ろ盾もない自分が独身のまま継いだところで、周りから侮られずにいられないだろう。領地を狙って持ち込まれる争いごとに巻き込まれる領民たちの負担と不安を思えば、無理を通す道理はない。


 このクレイトン領をしっかりと守ってくれるなら、相続を放棄すること自体はやぶさかでない――気掛かりは、ひとつだけ。

 突然倒れて以来、寝台から離れられなかった祖父は、最期まで領民たちのことを気にしていた。


「……デニス叔父様。クレイトンの領地は広くありませんし、税収だって多くはありません。ですが、お祖父様は、この地に住む人達のことをそれは大事にしていらっしゃいました」


 初孫になるステラも生まれ、そろそろ息子夫婦に家督を継いで隠居を、とジェームズが考え出した時。王都周辺で流行ったたち(・・)の悪い風邪が、至極あっさりとステラの両親と祖母を連れて行ってしまったのだった。

 その時の流行病によって、もともと多くないクレイトン男爵家の血筋はさらにその数を減らした。デニス叔父もそうで、婚儀早々に妻を亡くした彼は後添えを取らないまま王都で独身貴族に戻り、書類上はともかく、実生活ではクレイトン男爵家とは縁を切ったような関係になっていたのだった。

 ステラとジェームズは墓と小さな領地を守り、細々とだが穏やかに過ごしてきた。鳶色の瞳を細めて大きな手でステラの髪を撫でる祖父との、静かで優しかった暮らしを思い出せば胸が詰まる。


 季節の節目のカードのやりとりすら途絶えていた叔父の人となりを、ステラは知らない。ずっとクレイトン家の事務方をしてくれていたマーロウ先生が頷いてくれたなら安心も出来ようが、祖父よりも歳上の彼もまた昨冬、天に召されてしまっていた。


 タイラーが事務所から持参した卿の遺言の書類に、不備は見受けられなかった。ただ、事細かに記載されていた文面には、なぜかステラの名前の一文字すら見当たらない。

 亡くなった両親の分までも愛情を注いでくれていたのは疑いようもない事実なのに、まるで生まれてもいなかったような扱いをされていたことに対して違和感は拭えない。しかし、確かにそれは見慣れた祖父の筆蹟なのだ。


「……くれぐれも、領民の方たちのことをどうか第一に」

「ああ、もちろん分かっているとも、心配には及ばない。それでステラ、お前の今後の身の振り方だが」


 ほっとしたような表情の叔父の口髭の下で、少しだけ唇の端が歪んだ。目線で合図を受けたタイラーが書類の束の中から一枚を取り出し、ステラに渡す。


「お前の結婚が既に成っている。迎えが来次第、そちらに発つがいい」


 ステラの背後で、仲の良い侍女が息を呑む声が聞こえた。

 驚きに目を見張ったステラの手の中にあるのは――自分の名前が書かれた婚姻証明書の写しだった。






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アマゾナイトノベルズ/イラスト:堀越有紗先生

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