歪んだ丸と重ならない格子の影
ここで、ジッとして待たなければならない。
八畳程の畳敷きの部屋で、低い書物机と古くさい床の間があった。
その隣には、ピッタリと扉を閉ざした、天袋付きの押し入れが並んでいる。
襖柄は、波に千鳥だった。
色味も少なく、殺風景な部屋だった。
急遽、通されたのがわかる。
ピタリと閉ざされた雪見障子では、外の様子は窺えず、ザワザワと風に遊ぶ、木の枝と葉陰が、庭の様子を伝えて来るだけだった。
足を崩して待つように言われていたが、胡座をかく気にもなれず、きちんと正座し背中も伸ばし、誰かが襖を開けて、入ってくるのを、ひたすら待った。
小さな座卓の上の冷茶のコップに、水滴が集まり、小さく、ツイッと流れた。
何処からか涼しげな風が、庭の木々を渡りながら、この部屋にも苔と土の匂いを運んでくる。
ザワッと、障子の向こうの葉が揺れる。
廊下を足音が近付き、襖が開けられた。
「まあまあ、申し訳ございません。
急な来客で、こんな小さな私室で待ってもらう事になってしまって。」
そこまで一気に言うと、向かい側に、座った。
「あら、座布団、使って下さい。
私、サッサと座っちゃいましたわ。」
コロコロと、良く笑う。
「はい、座らせて頂きます。」
そう、言って、頭を下げ、座布団の上に座り直した。
固めの座布団は尻座りが良い。
綿でない、変にフカフカのは、嫌いだった。
「お待たせしてしまって。」
そこに、新しいお茶を運んで来られたので、話は頓挫する。
冷茶を進められ、喉を潤す。
「本当にごめんなさいね。
高波梓さんが、月刊ミステリーの幽幻新人賞を取ったのよ。
あそこでも、エッセイ書いてるでしょう。
それでインタビューが、急遽入ってしまって。
ほら、変に腹を探られたくないでしょう。
最近は、直ぐ炎上してしまうから、新人賞へのコメントも、気を使うわ。」
コロコロと笑ってる。
巧く応えられなくて、はあとか、いやとか、で、お茶を濁すのが、精一杯だ。
「あら、嫌だ。
ひとりでペラペラ喋っていたわ。
ほら、インタビューって、言葉を選ぶじゃない。
解放されて、タガが外れたみたい。
返す返すも、ごめんなさいね。」
「いえ、あの、大変だと思います。
それで此方なのですが。」
座卓の下から、風呂敷に包まれた匣を出し、上に置いた。
エッセイストの内藤若子先生は、その口をピタリを閉じた。
風呂敷を広げ、白い桐の匣から、硯が出て来た。
「女性の手に合いそうなのを、幾つかお持ちしたのですが。」
添えた上蓋が、カタンと音を立てる。
スッと、自分の方に硯を引き寄せ、ジッと見ている。
この時が、嫌いだ。
待つしかない。
若子の口から、ホウッとため息が漏れた。
「素敵。
良いのかしら。
本当に、四十の手習いとは、良く言ったものね。
まさか、私が習字をするなんてね。」
いえいえと、首を振る。
「書道の先生方の中には、六十過ぎてからの方もいらっしゃいます。」
「嫌だわ。
書道なんて、レベルじゃないのよ。
手習いよ。
お習字、なのよ。
でも、道具にまさか、小学生の頃使ってた、お習字セットって訳にもいかないでしょう。
習ってる将右衛門先生の硯が、素敵で、無理させてしまったでしょうね。」
「いえ、後、こちらも。」
匣を次々開ける。
楕円の小ぶりな物から、少し大きく彫刻したのまで、その丸さと大きさが女性好みだと、選んで持って来たのだ。
全部広げると、小さな座卓いっぱいになった。
お茶は脇に寄せられた。
「素敵。
迷うわ。
先生が現物を見なさいって、言った意味がわかるわ。
自分の力量を問われてるわね。」
一つ一つ、説明したが、若子の眼は、もう決まっていた。
「これ、磨ってみたいんだけど、良いかしら。」
「はい、磨り加減もみて下さい。」
竹の格子に桔梗が咲いて、小さな水の流れがサラリと静けさを表してる柄だ。
龍だの虎だのは、女性なので、持って来なかった。
花や水をテーマにしたのを中心に持ってきていたのだ。
こんな時の為に、水から墨から和紙まで、一式を鞄に忍ばせている。
持って来ていた墨を出し、硯に水を差す。
下敷きに和紙を乗せ、文鎮で抑えた。
桔梗の硯で、若子先生が、墨を立てる。
気張らず、細筆でサラサラとご自分の名を認められた。
「これ、好きだわ。」
ニッコリと笑う。
「まだまだ手習いの身分だしと、思ってはいたのですけど。
お道具で、気持ちも締まるって、勧められて。
本当ね。
これにします。
私、9月生まれなの。
桔梗が綺麗で、この格子の柵が、また良いわ。」
ベタ誉めである。
照れくさい。
ここで値段を言わなければならないのが、残念だ。
「宜しければ、こうなりますが。」
サッと眉間に皺が寄る。
決して、高くはないつもりだが、安くもない。
気まずい中で、小さな匣を開けた。
「こちらの水差しを、お付け致します。
良いのを選んで下さい。」
手作り饅頭が寝た様な、小振りの水差しには、歪んだフォルムをいかして、蕾と大輪の蓮の花が描かれている。
もう一つは、池から顔を出してる河童で、もう一つは傘を被った着物姿の娘が雨の中、下駄を鳴らしてる。
それぞれ青一色のサラッとした絵が、古風ながら、独特の味わいを出していた。
木の栓がされていて、そこがまたバランスが良く、コポコポと出て来る水の音が、笑いを誘う。
「丸いけど、シュウマイ弁当のお醤油入れみたいだわね〜。
可愛いわ〜。」
若子先生の顔がほころぶ。
「どうぞ、ゆっくり見て、お選び下さい。」
迷わず、河童を摘んだ、若子だった。
「私、ガラス細工で、胡瓜の形の文鎮持ってますの。
嬉しいわ。」
硯の料金を頂き、領収書を切る。
「では、お確かめ下さい。」
やれやれ、だ。
商才も話術も無いが、何処か剽軽な水差しには、毎回助けられていた。
その後、世間話をしてゴニョゴニョと濁し、お暇した。
角元将右衛門先生は、気楽に新規の客を紹介してくださるが、行く方は冷や汗ものだ。
展示販売だけでも、食べて行けるが、将右衛門先生の修行して来い、で、毎回、見知らぬ他人の家に、ずかずかと上がっていたのだった。
「君の硯は好きだが、この身一つでは千は使えないから、な。
さて、次は誰を紹介してあげようか。」
と、恐ろしい事を平気で言う。
それでも、豪快に持って行ったのを全部買ってもらえる強者に当たったりもするので、断りきれないのだ。
将右衛門先生の個展が始まった。
それぞれ、愛用の墨や硯や筆も並べられた。
パンフレットにそれぞれの購入先のお店の名前を乗せてくれてる。
御礼に、個展のお手伝いに来たが、今回は一角に、芸能人コーナーが出来ていた。
若子先生の書もあった。
『河童』だ。
あらら、と、笑ってしまった。
硯の桔梗より、水差しの河童に引っ張られたようだ。
そこを将右衛門先生に見つかる。
「その笑いは、なんで河童なのか、知ってるな。
教えろ、若子さんはなんで今回、河童なんて書いたんだ。」
色に出にけり我が恋は、為らぬ、顔に秘事が出やすい、陳腐な性格が恨めしい。
ガラス細工の胡瓜と水差しの河童の話をさせられた。
「ガラス細工の胡瓜か。
そりゃぁ多分、柏原君、とこだな。
抜け目ないな。
ほら、あそこの一角が、柏原君の店のだよ。」
指差された方に、キラキラと賑やかな、ガラスの小物が並んでいる。
兎や鯰、茄子やトウモロコシ。
1束に結わえられた、麦なんかもある。
チョッと細長く、和紙を抑えやすい形で、ガラス細工の文鎮が、並んでいた。
「どうだい、今度、そら、なんて言ったか。
えーっと、なんだ、それ。」
あ、又ロクでもない事を思い付いたようだ。
だが、ここでは、逃げようがない。
何かの単語を思い出そうと、口の中でブツブツ言ってる。
ソッと目線から外れて、他の芸能人の書を、追いかけてるふりをして、一、二歩歩く。
先だって、話題になった高波梓の書を見つけた。
太い字体でおおらかに、『雨』の一文字が、書かれていた。
淡墨の滲み(にじ)み具合が、余白に色をそえている。
「お、それ、面白いだろう。
大胆で、その淡墨のとろけ具合。
作品自体が、何処かミステリーだろう。」
いつの間にか後ろに、将右衛門先生が立っていた。
「こう中性的で、その中に、大胆な構図が浮かぶだろう。」
はいはいと、返事して、どうやら巧くさっきの話は逸れたようだ。
そこからは、先生の飽きるまで、展示してある他人の作品の品評会だった。
誉めても、けなしても、愛情たっぷりなのだが、口が悪い。
まあ、それが良いところなので、そこが解ると、先生の虜になってしまう。
その1人が自分だ。
あちこちに、花を生けていたフラワーショップ『イブ』の梶さんがエプロンを叩いてから仲間に加わり、先生の毒舌ツアーは最後の書の前に来た。
俳優の芦川絢斗の作品だ。
そこまで、饒舌だったのに、フンと、無視して、クルリと背を向けると、トイレだ、と、行ってしまった。
残された二人は、キョトンとしてしまった。
何が感に触ったのだろうか。
別段、特に下手くそでもない。
花も生けられ、パンフレットも並んだ。
あとは、届け物があれば、受け取るだけで、それは先生のお弟子さん達が、受け持ってくれている。
トイレから出て来た先生に、挨拶して会場を、後にした。
梶さんは、次の仕事場に行くので、ここで別れる。
何だか、スッキリしないまま、自宅に着いてしまった。
帰宅すればしたで、野暮用が生まれる。
ホッと一息ついたのは、夕暮れ時だった。
硯は字の如く、石を見る。
石を見て、削り出す。
墨池は、単純に池や海と呼ばれ、磨られた墨が溜まる。
平たい高い部分は、墨堂だが、単に丘と呼ぶ方が通りやすい。
丘と池を繋ぐ斜面が、落潮で、舌というが、ここが要である。
鋒鋩という、墨を磨る為の、目が立たせてあるのだ。
細かな石で切り出された、下し金の刃といえば、わかりやすいだろう。
良く見れば細かな粒が、星座のように、煌めいている。
その石の刃が、墨をあのまったりとした、墨汁に変えるのだ。
粗くても細かすぎても、出すぎても引っこみすぎも、いけない。
難儀な、部分なのだ。
硯は水と切っても切れない。
水に沈めると、その石紋が際立ち、名品は美しさを増すのだ。
納品や今回の様な展示では、水通しをしてある。
石も水で生きてる物なのだ。
過度な湿気や乾燥は、硯には良くないのだ。
程よく使って、しっかり洗ってもらえば、鋒鋩に、無駄な墨が溜まる事はなく、しっかりと墨を磨る事が出来るのだ。
道具こそ少ないが、筆は筆、墨は墨、硯は硯の手入れがある。
まして、硯は持ち主や創り手よりも、長生きする道具だ。
たとえ、飾りの彫刻か気に入っただけでも、使ってもらえれば、その良さが伝わるだろう。
液体の墨汁を使う人もいるが、ひとすり、ひとすり、墨を磨る人も多いのだ。
水と墨を合わせるために、良い意味で、鋒鋩を立たせたい。
先だっての内藤若子先生は知らなかったのだが、あの桔梗の硯より、楕円の小さな硯の方が、倍以上高かったのだ。
だが、それはそれだけの事。
道具は、使って持ってこそなのだ。
気に入るというのは、とても大事な事だった。
展示の手伝いでの気疲れが、頭を働かせなくしてしまっていた。
それでも、普段の手順通り、辺りを片付けると、将右衛門先生の気まぐれで引っかかっていた、モヤモヤは何処かに消えていた。
展示会の中日に出掛けると、肝心要の先生は、何処かの社長さんと、ご飯を食べに外に行ってしまっていた。
「申し訳ありません。
こちらが把握していなくて。
待たれますか。」
いいえと、首を振った。
元々、売れてしまった硯の補充がてらだったからだ。
やはりそこそこの大きさのが、売れていた。
小さくて飾りもない、値段が高いのは中々売れない。
こういった物は、買い手がつくまで、何年でも待つしかないのだ。
補充を済ませ外に出て、帰る道を歩き出し、信号に捕まっていた矢先、留守番のお弟子さんが、走って来た。
「待って下さい。
お客様です。」
あわてて戻ると、若子先生が待っていた。
そこに、テレビで見た、俳優の芦川絢斗が立っていた。
「申し訳ありませんでした。
お帰りの足を止めてしまって。
絢斗君が、是非、会いたいって言うもので。」
若子先生が明るく笑って、紹介された。
「芦川絢斗です。」
新進の俳優らしく、人当たりが良い。
こんな時、自分の了見の狭さや身勝手さが、ムクムクと出てしまうのが、辛い。
辛いが、なんとか挨拶をくぐり抜けたのは、若子先生のおかげだ。
「本当に、職人さんなのよ。
私や将右衛門先生なんて、ベラベラ喋るだけで、中身なんて、こんなもんよ。」
若子が右手の親指と人指し指で、1㎝ぐらいの隙間を見せて、みんなを笑わしている。
その陽気さに引きづられ、硯の説明をさせられた。
一通り、話し終わると、もう何も言うことが無いのだ。
「私の家に持ってきてくださったのって、本当に私用だったんですね。
河童の水差し、もらったんですのよ。」
「あ、それで、河童、なんですか。」
「ウフッ、胡瓜の文鎮も持ってるの。
ほら、あそこに展示されてる、ガラス工芸店の物なのよ。」
カタツムリが三匹連なっているのが、ある。
ワザと気泡を入れたキノコも、綺麗だった。
「これなんですね。
ホラ、若子さんが、将右衛門先生から聞いたのって。」
水の渦巻く彫刻がされてる硯と、鯉が口を開けているガラスの文鎮を右手と左手に持って、クルリと、芦川絢斗がこちらを向いた。
「コラボですよ。
関連性の高いのを、セットにするです。
わざわざバラバラで探して買わなくても良いですし、テーマに沿って揃えられますよ。」
あ、それか。
若子先生の河童から、将右衛門先生が考えついていたのは。
コラボの単語が出なかったのだと、わかるとクスクスと笑える。
「水差しも揃えられたら、楽しいわね。」
そうだと思うが、そこまで。
こんな時だからこその、悪い癖が現れる。
「そうですが、高い買い物になってしまいますよ。
筆まで入れたら、いくらになるか。
硯はどなたの道具でも、嫌わないのが、揃ってますので、そんな値を吊り上げる様な売り方は、あまりしなくても。」
芦川絢斗がガラスの文鎮と硯をソッと下ろした。
あ、又やってしまった。
俗に言う、水を差す様な言葉が、出て来てしまうのだ。
張り詰めた空気の中ドヤドヤと、将右衛門先生御一行様が、帰って来た。
みんなが落胆した顔をしてるのに気付いたのだろう。
「おっ、お通夜か。
なんかやったな。
今度は何だ。」
グルリと首を回して、笑っているが眼が意地悪そうだった。
そう。
こんな所が、似ている。
皮肉な性格が、出てしまっていた。
将右衛門先生は、そんな事ぐらいでは、自分のペースを乱すなんて事がないのが凄い。
「若子さん、こちら佐江元商会の会長の佐江元さん。」
2人は、将右衛門先生を介して、挨拶。
若子さんは、芦川君を紹介している。
その間に、コソコソと影に隠れて、逃げ出した。
元々、影の薄さには、自信があったが、この口が開くとろくな事が無い。
職人気質で口が重いんじゃなくて、地口が悪いので、あまり話さないのだ。
誰とも話さなくて良い場所は、家しかなかった。
帰り着くとホッとした。
だが逃足より、留守番電話の方が速い。
ガラス工芸店とのコラボが決まったとの、知らせが入っている。
小さな世界だ。
逃げも隠れも出来ない。
硯の石を取りに行くのは、気が重い。
案の定、捕まって、幾つか新作を出さなければならないと、言われた。
どうにか、半年の時間をもらえた。
が、半年なんて、アッと言う間だ。
将右衛門先生への恩を盾にされては、逃げ切る事が出来なかったのだ。
目玉になる様な、大物をひとつ彫る。
彫るのは良い。
テーマが決められているから、悩まなくても良いし。
たいそうな宣伝やポスターで、展示が始まった。
将右衛門先生の書、目当ての人も多い。
若子先生もあの芦川君も新しい書を出している。
今回の主催者の佐江元会長もニコニコだ。
関係者だけのパーティが行われ、こういった場所にピッタリな人々の中で、身の置き所がない。
展示会場にも、ゾロゾロと全員で向かう。
明日からの開催なんて、信じられない。
その上、硯とガラスの文鎮と筆が、会場のど真ん中に、鎮座しているのだ。
円形の大台に段を作り、テーマ毎に飾られていた。
1番上には、花も飾られている。
テーマは蜻蛉だったり桜だったり竹林だったりと、古典的な物から、自転車やら扇風機やら、およそ見た事も聞いた事もない様なのもあった。
1番大きな硯は、地球がテーマだが、なんと白亜紀とかジュラ紀とかがテーマだった。
絶滅した生き物達が、絡み合い硯の上に姿を現している。
文鎮はフタバスズキリュウだと言う。
頭を下にし、長い首を少し持ち上げ、流線型の胴体と四つの鰭、長い尾も美しい。
細かな泡や小さな亀裂が、ガラス細工の危うさを表している。
筆には、アンモナイトや三葉虫の焼印がされていた。
硯は、シダ植物や遠くの火山を背景に、恐竜を三体、彫らされた。
恐竜が良くわからないと言うと、図鑑を抱えた若子先生と芦川君に、遊園地に連れて行かされて、ロボット仕掛けのを、観察させられた。
博物館にも連れて行かれた。
その甲斐あってか、自分でも中々の出来だと思う。
地口の悪さを引っ込めて、なるべく知り合い以外話さなくて良いようにしながら、どうにか時間を潰していた。
そんな時、見知らぬ人に、声をかけられた。
緊張が走る。
「失礼ですが、硯の作者さんでしょうか。」
作者⁉︎
思わず、身体全体で、全否定。
「ただの職人です。
作者なんて者じゃありません。」
名刺を渡された。
名刺なんて無いから、困ってしまう。
つくづくと、転がる時はころがるものだ。
今、この時の業者さんの注文で硯を作っている。
何と、小学生向けのカラー硯だ。
説明されてもよくわからないが、試作品を作って、それを3Dプリンターで、大量に作ると言うのだ。
小学生用の普通の大きさの長四角の硯だ。
その硯の丘の部分に、模様をはめ込む。
それを、色つきの石の粉で、仕上げると、ピンクの硯の丘の部分に、花が咲き蝶が踊る。
青いにはそれこそ、恐竜や蜻蛉が表れる。
3Dプリンターで仕上げると、丘はツルンと仕上がったのだった。
何が何やら、黒っぽい硯は一掃され、習字の時間のカラフルな事。
墨の黒さは、昔のまま。
プラスチックの硯より高いが、親受けも子供受けも良かった。
墨が良く摩れるのも、意外と子供達に受け入れられていたのだった。
知らなかったが、キャラクター物は禁止なので、こんな拙い、柄の方が良かったらしい。
そのカラー硯を持って、習字を習う小学生が増えていた。
将右衛門先生は、小学生は教えないが、他の習字教室から噂を聞いてきて、教えてくれた。
その後、芦川絢斗君が、将右衛門先生のお孫さんだったのを教えてくれたのは、若子先生だった。
どうやら、小さい時に、書を手解きして、余りにからかい過ぎて、嫌われたらしい。
口の悪い将右衛門先生らしい。
それが、20歳を過ぎてから、又筆を持ち出して、こっそり芸能人部門の中に紛れこんでいたのだった。
将右衛門先生が気付いた時は、展示がされてからで、それであの日、機嫌が悪かったのだ。
若子先生が間に入って、10年振りにお互い、歩み寄ったとの事だった。
思い起こせば、あの日の、障子の格子の影や庭の木々のざわめきが、蘇る。
偶然、通された和室の部屋。
持って来た水差しの河童の絵。
色味の少ない、静かで古い日本家屋の静けさ。
そこに、良く笑う若子先生。
自分の地口の悪さを、抑えていたっけ。
新しい図柄に、イルカや鷲や虹などを頼まれている。
硯に、注がれる墨汁は、それはそれでも良いだろう。
だが、墨を硯で磨ると、いう事も、忘れないでほしいのだ。
決して重ならない格子の影が、少し歪んだ丸い水入れに、重なったような気がする。
鋒鋩の峰は小さく見えないが、それは、丘と池をしっかり繋ぎ、あの日の庭からの影を思い出させる。
石の色1色だったはずなのに、その中に無限の色と形があったのだ。
恐竜の硯は、芦川君がチャッカリ買ってくれていた。
こちらの方の注文も、待ってもらってるぐらい、沢山舞い込んで来ている。
石巻の雄勝石が好きだ。
今は諸事情で、手に入れる事が出来ないが、多分もう少ししたら、又採掘が始まるだろう。
手持ちの雄勝石を大事にしながらも、その日を心待ちにしながら、硯を愛でるのだった。
今は、ここまで。