何てことはない世界の話
紫璃は退廃なことは嫌いではなかった。しかし、退屈はあまり好きではない。何か行動を起こしたとしても、つまらないと思ってしまうからだ。つまらないと感じるだけなのは、楽しいなんてほど遠い気分にさせられた。かといって行動を起こそうとしてみても、結果が見えた気がしてやめた。紫璃にとっては、ただ何をしても、充足感は得られたとしても刹那的なそれはすぐに消えていた。また、充足感を継続したいとは思わなかった。だがそれでも、紫璃の手から砂のように零れていく満足感という気持ちが、砂塵のように手に鬱陶しく残留がこびりつくことなく、水のように透明で美しく、空気のように当然に存在するものであることを紫璃は知っていた。
努力やら天才やら塵も積もれば何とやら。もはや後悔先に立たずとはよく言ったもので、事実この世はそうできている。天賦や努力の天才というような、人には過ぎたというよりか、どこかに特化した脳を持つ人間と、彼らを核に今日も群がる蟻でできている。しかし、そこに意義があるか否かと問われれば、どれほどの人間がイエスと答えるのかと思うと、未知数なものだった。だが、そんな社会に寄生し生きていくのは、別段滑稽というわけではなく、むしろ世間一般的に正当である無限に広がる住宅街に住まうのは、今を生きる人間たちに与えられた使命だった。その中で何を見いだそうと、何か違反を企てようと、今現在の時の流れは変えることはできないのだから、ある種使命に更なる使命を垣間見た彼らは人生を少なからず、ただ寄生するだけの存在よりかは彩ったのだと思う。
そして、彩られようとも色が薄かろうとも、確かにその絵には外部からの刺激があり、満足感があり、更なる刺激を求めて高み或いは他に走ることがあっただろう。そこから、各その先の人生が何色になっているかは、別として。
退屈は白か無色だと思った。色が付かないとは、どれほどまでに可哀想で、無垢なものなのだろう。価値観のない、情報過多な澱みの波に揉まれて目を閉じた水中は、果たしてどれくらいで息が詰まるのだろう。どれほど耐えれば、目を開けて、酸素を取り入れようともがくようになるのだろう。まだ身をそんなところにまで沈めていなかった紫璃には、まるで愛しい恋人に出逢えることを想う、まさに恋に恋して生きる乙女のように、そんな好奇心と書いた妄想劇に身も心も浅はかに甘ったるく投じた。
そして、とある休日の三連休。彼女はそれを実行した。いや、想像を行動に変えた。誰に迷惑をかけるわけでもなく、必要最低限な食事と会話と言ったような、生活はそのままに。ただゆったりと、時の海へ徒に委ねて、思考を明け渡した。目を閉じて、開けて。携帯は電源はついていたにしても、触れることも弄ることもなく、充電だけがされている状態で放置し、ただ寝ころんで視界を閉じた。
1日目は、事件も何もなく、思うことさえなく、微睡みの中で何も感じずに過ごした。
2日目も、同じことだった。昼も夜も、彼女にはあまり変わらなかった。だが、生まれ落ちた瞬間から刻まれた朝に起きて夜に眠る性質は変わることがなかったので、部屋が暗くなれば再び深く眠った。しかし、眠る前、ふと考えた。このまま死んでしまったらどうしようかなと。その議論は、白熱も氷点下なることもなく、火のついた蝋燭のように融けて消えた。筋肉が動かなくなり、しだいに口も瞼を開けるのも億劫になったなら、人はいずれ衰退する。どんな形であれ、緩やかで恐ろしさすら覚える穏やかさで衰弱していく。
…それは、果たして。真綿で首を絞められるのと、どちらが苦しいのだろう。
苦しいのは嫌だな。死ぬとき、痛いのなんて。
選択することなく、そんな曖昧な答えで2日目の夜は片づいた。
3日目。微睡みが相も変わらず心地よかった。その感覚は麻酔か何かのように体中に巡っていて、昔入院していた頃を想起された。あの時は、麻酔が怖かった。このまま苦しむことなく目を覚ませなかったなら、自分を嘆いてくれる人間がどれほどいるんだろうと。何人というわけではなかったけれど、両手で数えられる程度には幾人かに思い出があって、それが無に消えることが、どうしようもなく紫璃を殺しにかかった。そのときはホームシックというものになったのだと自己完結して、そう思うことで落ち着きを取り戻していたけれど、今はそんな現状ではなかった。
ひたすらに、自己が消えるのを、消えそうになる気配を感じて脅えた。その日、4日目に差し掛かろうとしていた深夜手前で、紫璃は起きた。飛び上がった。なぜか息を切らしていて、必死に肩で呼吸をした。
夢、ゆめ。彼女は儚く消えた、長時間頭に浮かんでいただろう虚像に魘されたのだと思った。だが、やはりあの気配は消えなかった。
突拍子もなく、彼女は思わず「あ」と小さく声を漏らす。本当に小さな音だった。
そうか。私は、死にたかったわけでもなくいなくなりたかったわけでもなく。ただ、自分の世界だけで生きていきたいだけなのだ。他者と関わることが嫌なわけでなく、ひたすら、自分の小さな世界を棚に上げて、見下したかった。ただ、それだけだったのだ。
気付いたところで、笑いがこみ上げた。声をかみ殺し、暗い部屋を見渡した。
私は確かに、自分を嫌って、愛している。自分は、今、ここにいる。
誰かに、お前は屑だから死ねよ、と、一言もらいたかった。そして、お前も死ねよ、笑ってと皮肉ってやりたかったのだ。
そんな相手が来ることを夢見て、また恐ろしいと感じたはずの、自己を失う感覚がもう一度何度でも自分に巡ってほしいと願うほどには、彼女の心はくすんでいた。