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エピローグ3

「……響子」

 彼女の視線が緩く持ち上がる。その顔は、一年前に出会った、狂気に身を染めたあの少女とは全く別人に思えた。

 何かを憂い、そしてすがるような目がこちらを向き、微笑んだ。

「僕のカン、当たってたねぇ」

 ざわっ、と胸の奥が波を立てた。

 その戸惑いの理由を、緋一はとうに自覚していた。

 ただ、認められなかった。

 最初に立てた誓いが、全ての口実をなぎ倒していた。

「……そうだな」

 緋一は視線を伏しながら言った。響子の微笑が耳に届き、更に胸が締め上げられた。

 しかし、

「ただ、ここでサヨナラしても無駄だけどねぇ」

 続いた彼女の言葉に、一瞬思考が真っ白になった。

「は?」

「契約切れでお別れしたって、緋一君は僕らから離れられないよぉ。だって緋一君は僕らのヒミツを隅から隅まで知っちゃったじゃない」

 緋一は顔を跳ね上げた。

「ハカセの研究成果、僕らの組織の成り立ちから活動内容まで全部。海外拠点になってる都市もいくつか知っちゃってるよねぇ」

 一瞬何の事だか分からなかったが、はっと思い当った。

 あのセンス皆無のマグカップの事か! 覚えちゃいないと反論しようとしたが、デカデカと書かれた都市名はあろうことか記憶にしっかりこびりついていた。ニューヨーク、コペンハーゲン、ニース、ケベック、ブエノスアイレス。世界中の都市名が、アイラブのマークと共に次々と浮かび上がった。

 頭を抱える緋一を見て、響子はにやにや笑っていた。

「別に、逃げちゃってもいいんだよぉ。そうなったら緋一君は、僕らにとって正当な理由で殺される事になるだけ。緋一君が臨界突破するまで、白羽にめった切りにしてもらうのもアリだねぇ」

 その光景が頭に浮かび、ぞっと背筋が粟立つ。

「白羽は僕より組織に忠実だから、緋一君が敵認定されれば容赦なくやると思うよぉ。そうしたら後は僕がスパンとやっちゃうだけ。僕の願いを叶えるなら、こっちの方が簡単だねぇ」

 緋一は恐る恐る響子を見た。冗談なのかそれとも本気なのか、淡い垂れ目に浮かぶ笑みからは判断できなかった。

 逃げ道は無い。緋一はそう確信し、観念した。

「お前、最初からハメるつもりだったな」

「人聞き悪いなぁ。僕は緋一君に色んな選択肢を教えてあげてるだけだよ。逃げてもいいし、僕らと一緒に来てもいい。それから、僕に恋するのもいい」

 緋一は顔をしかめた。さすがに最後の一言は冗談だったのか、響子はふふっと笑うと、

「でも分かってる。緋一君が選ぶべき選択肢がここには無い事。緋一君がこれからも誓いと一緒に生きるには、もう一つの言葉が必要な事」

 身をかがめ、足元に落ちていた拳銃を拾い上げた。

 そしてもう片方の手を、緋一へと差し出した。

「僕を守ってよ、ウサギさん。また銃をあげるから、血まみれになって僕を守って」

 こちらを向いた手の平。すらりとした指を彩るネイルアート。二度目の出会いのデジャヴが、緋一の鼓動の中に強く響いた。

「……」

「緋一君が狂うまで、僕らは再会を繰り返せばいい。ずっとずっと、その時まで、僕を守ってくれればいい。緋一君が変わる必要なんて一つも無い。変われた今からはもう、何も変える必要は無いんだよぉ」

 響子は言い、唇を持ち上げた。

 緋一の内側を見透かし、全てを優しい解決へと導き得た顔だった。

 差し出された少女の手は、緋一が無言で佇む間も、少しも揺らがなかった。

 長い、しかし浅い沈黙の後、緋一は問うた。

「もし俺が狂ったらどうなる」

 響子は同じ顔で答えた。

「その時は、僕が緋一君を世界で一番シアワセな死体にしてあげる」

 世界で一番幸せな、死体。

 それがいつ訪れるのかは分からない。

 ただ、緋一は思った。その時はきっと、俺は今より幸せな何かになれているだろう。その状態で響子に殺されて死ぬのなら、死体になる瞬間まで幸せなのかもしれない。

 緋一は小さく笑った。

「死体には自分が幸せかどうかなんて分からねぇよ」

 死んだら何も分からない。感じない。何千何万と死を繰り返した緋一は知っていた。

 響子は答えた。

「きっと最後の最後の幸せが、僕らの細胞に残ってるよぉ」

 想像でしか無いその現象が、緋一の頭の中に開いた。意識が失せた後もこの世に残る死体。死の直前、全身に廻った感情は、全てが息を止めた後でも個々の細胞に満ち続ける。

 その結末も、ありなのかもしれない。

 緋一は顔を上げた。

「だったら、お前こそ勝手に死ぬなよな」

 響子は挑むように笑い返した。

「このウサギさんが守ってくれるから大丈夫だよぉ」

 触れ合った手の平から、出会いの温度が伝わった。


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