4章 15
「っ!」
筒の先端から製剤を入れた注射器が発射された。DDが構えた器具は圧縮空気式の注射筒だった。
「緋一君っ」
高度圧縮空気に押し出された注射器が空気を裂いて突き進む。響子が振り向いた時、針は既に緋一の胸に突き刺さっていた。
「あっ……っ!」
響子は緋一へと駆け出した。
「約束破りの卑怯者だと罵られても仕方が無いね。ただ、私もまだ何かを失うわけにはいかないんだよ」
白羽が翼を閉じる。御影は色眼鏡を押し上げた。
「響子、君はセカンドメモリーを潜めていようと、この組織には不可欠な存在だ。それからこの宇佐見緋一というネクスタブルの価値も、みすみす君に殺させるほど軽くはない。どちらも残す術があるのなら――私は躊躇なくそれを採る」
響子は緋一に突き立った注射器を抜いた。中の製剤は既に、緋一の体へと吸い込まれた後だった。
空になったシリンジを見、響子は強烈に顔を歪めた。
「今回は私の作戦勝ちだ。響子」
「っ!」
響子は注射器を床に叩きつけた。
ガラスが粉々に砕け散る。鳴り響いた破裂音に、白羽とDDがビクリと身をすくめた。
キラキラと舞うガラスの破片を纏いながら、響子は緋一へと半身を投げ打った。
ざんっ!
鋭いメスの刃が緋一の腕を切り裂いた。
「響子ちゃん! ダメ!」
爆ぜた緋一の血液に白羽が叫ぶ。飛び上がりかけた彼女はしかし、二本の白衣の腕に制された。
「ハカセ、DD!」
DDが背で答える。
「このサイレンサーは即効性能を添加してます。注射すれば瞬く間に全身を巡って細胞機序に作用します。だからもう、緋一さんのセカンドメモリーは……」
白羽は前を向いた。
「……」
膝をつき、うなだれる響子の後ろ姿があった。その向こう側では、歪に膨れた腕から鮮やかな色彩が溢れ続けていた。
止まらない血液を、響子は呆然と眺めた。腕に走った裂け目も、ぱくりと口を開いたままだ。
宇佐見緋一のセカンドメモリーは、見事に抑制されていた。暴走し、無意味な細胞分裂を続けていた体は今、息をひそめたように静まり返っていた。
それはつまり、宇佐美緋一の臨界が過去の代物になり果てた証だった。
「……は、はは」
呆気ない終焉に、響子は乾いた笑みをこぼした。
彼女の視線の中で、膨化した組織が徐々に収束していく。
「ずるいよぉ、ハカセ……」
ぺたりと座り込んだまま訴える。
「僕がどれだけこの時を待ち望んでいたか……ハカセが一番知ってるでしょぉ」
「ああ。そして響子、君も、私が素直に願いを叶えさせるなんて思っていたのかい」
ピクリと響子の肩が動く。
「君が分かっていないはずが無い。私という人物が非正攻法の塊だという事実をね」
御影は言い、そして含み笑いを交えた。
「……はは、油断したよぉ。ハカセ」
響子は乾いた笑いと共に、天を仰いだ。
「みんな酷いなぁ。僕の邪魔ばっかりして……これじゃ、いつまで経っても緋一君を殺せないじゃない」
亀裂の入った天井を仰ぐ目は、セリフとは裏腹に緩い笑みを交えていた。
と、その時だった。
「っつ……」
鈍い呻きが聞こえた。響子ははっと息を呑み、足元へ視線を戻した。
すぐそこに横たわる少年は既に、元の輪郭に収束していた。ボコボコに隆起した肩も、丸太のように膨張した足も全て、幻のように消え去っている。
ただ一つだけ、彼の体は異常を刻んでいた。死なない彼にとって最も常識を逸した現象――裂傷からの出血が続いていた。
切り裂かれた腕が痛むのか、緋一は顔を歪めていた。
響子は無言で緋一を見下ろした。彼はまだ目覚めない。悪い夢にうなされる子供のように身をよじり、全身から汗を噴き出している。
今、胸に刃を突き立てれば彼は死ぬ。一時的に不死を失っている彼は、激痛と血液にまみれて息絶える。
彼を殺す。その行為を確実に遂げられる瞬間だった。
「……そんなの……意味が無いよぉ」
響子は囁くように呟いた。
「死なないウサギさんが相手じゃないと、意味が無いんだから……」
少女の囁きがこぼれる下で、緋一は湧き上がる記憶に悶えていた。
オオカミ。オオカミ。狂ったように人を殺すオオカミ。
笑いながら血にまみれる少女。
緩いウェーブの髪が風に躍る。ナイフのような爪を薙ぐ度、獣の毛並みのように躍る。
開いた唇から牙が覗く。その奥から狂った笑い声が響く。
まるで獣の泣き声のような。
まるで死神の歌声のような。
そして――目。
ドクン、と緋一の心臓が跳ねた。
あの目。歓喜に歪んだ獣の瞳。狂気に染まった少女の瞳。
俺はあのとき初めて誰かを怖いと思った。
ネクスタブルが怖いと思った。
自分以外が怖いと思った――
「ぁああっ!」
緋一は目を開いた。瞼の先に鈍い景色が開けた。
張り裂けんばかりの鼓動が胸を打っている。意識が戻って来た場所がどこなのか全く分からなかった。絶叫に枯れた喉が空気を求めて喘いだ。
「……緋一君」
はっ、と緋一は息を呑んだ。
その声、知ってる。俺はその声を知ってる。
声の方向へゆるゆると視線を向けた。
夢の中に在った瞳が、そこで瞬く両目と重なった。
オオカミだ。
「うぁあっ!」
緋一は身を跳ね起こした。記憶とうつつが無茶苦茶に混ざり、視界の中に爆ぜた。
とっさに緋一は、少女の胸元へと手を突っ込んでいた。
記憶の中に在った拳銃は、今、そこには無かった。代わりに手の平が掴んだのは、むにゅりとやわらかな感触だった。
「……え?」
瞬間、頬に強烈な熱が走った。
「っつあ!」
平手打ちを食らったように、顔が真横を向く。何が何だか分からないうちに、頬にみるみる熱い液体が流れ出した。
「なっ……あっ、え?」
鼓動に合わせた激痛が響き始める。緋一は頬に触れた。手の平に着いた液体が己の血液だと気付くまで、かなり長い時間を要した。
ゆらり、と体に掛かる影が動く。緋一は呆然としたまま、惹かれるように影を仰いだ。
そこには、小さな刃を手に佇む少女がいた。
「ホントに……緋一君も酷いなぁ」
呟く彼女は緩く緩く、涙を流していた。




