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4章 13

「ぐっ」

 体に衝撃がのしかかった。

「っく……」

 緋一は脊柱を侵す痛みに呻いた。刃のように鋭い爪は、腕のガードを貫通して腹に突き刺さっていた。

「……緋一君」

 後ろで響子が呟いた。いつに無いほど静かな声音だった。

 左腕が重力に負けて落ちる。床に跳ね、晒された断面から血液が飛び散った。

「ひっ、緋一さん!」

 DDが悲鳴を上げる。緋一ははっとそちらを見た。

「危ない! 白羽!」

 接近する爪に白羽が気付く。間一髪、彼女は御影とDDを抱えてその場を飛び退った。翻ったDDの白衣が爪に触れて大きく引き裂かれた。

「わっ、ひゃああ!」

「ありがとう、宇佐見君!」

 三人は部屋の角に着地した。白羽は翼を広げ、御影とDDの前に立ちはだかった。

「救済物質の効果が切れたな。あとはブランダーへの道を一直線だ」

 御影が冷静に判断する。

「彼女の意思も聞けたね。彼女はもう、このまま生を繋ぐ事は望んではいない。誰かを傷つけてまで、泣いてまで生きようとは願っていない」

 淡々と御影は言った。

 それが、少女の唇からこぼれた願いだった。

 ずず、と腹に埋まっていた爪が引かれる。肉と骨片を引きずられる痛みが緋一の顔を歪ませた。

 引き抜かれた反動で後ろに倒れかける。が、そこに響子がいる事を思い出して、抱きとめられる前に体勢を立て直した。

「やるねぇ、緋一君」

「……うるせぇ。ってかお前、さっきの爪は……」

 不意に意識が暗くなった。ぐらりと身を揺らした緋一に響子も「え?」と目を瞬いた。

 意識が飛んでいたのはほんの二秒ほどだった。再び感覚が戻り、緋一はとっさにバランスをとり直した。

 足を踏みしめた拍子、ふさがりかけの腹から痛みが突き抜けた。

「っく……」

 歯を食いしばる。ようやく繋がった左腕で頬の汗を拭う。腹も腕も、普段ならとっくに完治している傷だ。

 緋一は舌打ちした。佐倉のナイフを受け続けた影響に違いない。

「そう言えば、佐倉は――」

 顔を上げ、そして絶句した。

 広大な血液の泉の中に、青年は倒れ伏していた。

「……死んだのか」

 呆然と緋一は呟いた。疑似金属が腰まで這い上がった明理の足元で、彼はうつ伏せに倒れていた。

 ねじ曲がった両足が血だまりの中にオブジェのような形を描いている。体はピクリとも動かない。あの出血を見れば、事切れていても何らおかしくは無かった。

「ヒツジさんはシアワセな死体になれたのかなぁ」

 ポツリと響子が呟いた。その一言が、緋一の全身を揺さぶった。

「幸せな……」

 そんな緋一や響子を、御影は横目で窺っていた。

「宇佐見君、お願いできるかい」

 御影の一言で緋一は我に返った。

「佐倉君の代わりに、明理嬢を……本条覚氏が語った幕引きの向こうへ送ってやってくれないか」

「本条……覚だって?」

 その瞬間、

「ぁぁあ!」

 明理が悲鳴を上げた。辛うじて少女の声音を留めた叫びが緋一の鼓膜を揺さぶった。

 ドン! と壁が鳴り、部屋全体が軋んだ。明理の腕が鞭のように壁を叩いた衝撃だった。

 彼女の腕には砲身が形成され始めていた。響子の爪に指をやられた方の腕だ。

 どくん、と緋一の内側で鼓動が響いた。砲身はみるみる形を成して行く。エネルギー砲の発射装置が出来上がれば、破壊力は今の比では無い。

 緋一は目を凝らした。胸部も頭部も、いつの間にか薄い金属の膜が張り始めている。変容の速度は明らかに上がっていた。

「守ってあげて、緋一君」

 耳元で響子が言う。

「彼女がまだ、泣ける瞳のうちにさぁ」

 はっとそちらを見る。

 明理の両目は瞼を残していた。こぼれ出る涙が次々と頬を伝い、疑似金属の光沢の上を滑っていた。

 ――泣ける瞳。

 緋一が巻き上げた風に、響子のセミロングが淡く揺れた。

「……」

 愛しげに細まる響子の瞳の先で、緋一は銃に両手を添えた。

 明理の左腕が跳ね上がる。緋一はそこへ銃弾を放った。ガンッ! と硬質な音が立つ。銃弾が腕を押し上げ、その先の鋭い爪が天井に深々と突き刺さった。

 明理は右腕を薙いだ。目茶苦茶に曲がった爪が突き出される。緋一はそれを容易く交わし、流れるような動作で明理へと迫った。

 明理は再び右腕を擡げた。エネルギー砲を使う気だ。緋一は顔を強張らせたが、明理が突きつけた砲台は未完成だった。完全に膨化していない腕の砲身は、普段見るブランダーの半分の太さも無い。

 ドン! と衝撃が空気を震わせた。

「っく!」

 とっさに身を捻る。左の脇腹を凝縮エネルギーの弾丸が霞める。肺の下部が消え、空気が血液と一緒に爆ぜた。

 突き抜ける激痛。それでも緋一は止まらなかった。

 発射の反動で跳ね上がった右腕をくぐり抜ける。そして渾身の力を込めて床を蹴り上げた。

 飛び込んだのは、明理の目の前だった。

 ガッ、と肩を掴み、天井を穿った左腕に足をつける。半分逆立ちになった体勢で緋一は停止した。弾けた脇腹からは激しい出血が続いていた。

 明理が顔を上げた。人のそれと同じ水滴が、瞼の淵からこぼれ落ちた。

「佐倉はあんたを、仕方が無いくらいに愛してたんだと思うぜ」

 少女が目を見開いた。

 瞬間。

 緋一は引き金を引いた。眉間に突きつけた銃口が火を噴き、銃弾がその先へと突き抜けた。

 明理の体がぐらりとかしぐ。爪が天井から抜け、背中から床へと倒れた。ずん、と疑似金属の重みが部屋を鈍く振動させた。

 パラパラと天井の破片が降って来る。質の良い壁の破片を、着地した緋一の足がパキリと割った。

「……はぁ……はぁ……っ」

 固い雨を浴びながら、緋一は喉を喘がせた。

「……なぜ……そのような事を」

 不意に足元から声が掛かった。喘ぎにさえ消えかかりそうなほど、か細く力無い声だった。

 緋一が見下ろした先。血だまりに伏した佐倉がいた。彼は身を転がし、横向きに緋一を仰いでいた。

 閉じた彼の隻眼。そこにもう眼球は無いと分かっていながらも、視線に射られているような気分だった。

 その視線に敵意や憎悪は存在しなかった。

〝なぜ、それを知っているのか〟

「っ……だってあんた……二度も臨界から我に返れたじゃねぇか……」

「……」

「明理の事が頭をよぎったから……あんたは狂わなかったんだろ?」

 少しの間の後、ふ、と小さな笑みが聞こえた。単純な種明かしに心地よく完敗したような笑いだった。

 佐倉は身をよじった。

「……殺してくれませんか……。死なない少年」

 目を閉じた青年は乞う。

「お嬢様と同じ銃で……殺してくれませんか……。そうすれば……」

 彼の掲げた結論は、緋一の耳には聞き取れなかった。

「……」

 緋一は静かに銃を擡げた。

 何もしなくても、じき佐倉は事切れるだろう。それならなぜ彼は殺される事を願ったのか――

 この世界で一番、幸せな死体になるため。

 緋一は引き金を引いた。破裂音と同時、床の上で佐倉の体が跳ねた。銃弾は正確に彼の眉間を穿っていた。

 立ちのぼる硝煙の香りが緋一の鼻腔を刺激する。風の無い室内、発砲の残り香はまるで殺害者の証のように、緋一の体にまとわりついた。

 それが罪である認識など、緋一の中には無かった。

 そして華麗なまでの殺戮劇を眺めていた観客達にとっても同じだった。

「……終わったの……?」

 白羽が呆然と呟いた。並んだ二つの死体を、信じられない顔で見比べた。

「本条明理の遺体がどんな末路を辿るかは定かではないな。ブランダーなら灰化して骨だけが残るけれど、変容が不完全だった彼女は既存の理論が当てはまらない」

「確かに想像できません。ただ、今回も遺体の隠滅は不可欠でしょうね」

 科学者二人組は淡白に言葉を交わしていた。早くも次に控えている行動へと移るつもりだ。

 緋一は重い足取りで佐倉の遺体を後にした。

「……っ」

 左の脇腹を押さえた。弾け散った組織はほとんど戻ってきている。しかし少し触れれば分かる。肉片がパズルのように組み合わさっているだけで、ほとんど結合していない。ようやく血管の再生が始まった雰囲気だ。

 何ですぐに治らないんだ。

 緋一は奥歯を軋ませた。

 体の内側では、鼓動とは別の何かが慟哭を訴えていた。ドクン、ドクンと全身から響く拍動に、緋一は得体の知れない恐怖でいっぱいになった。

 何なんだこれは、何なんだこれは。

 何なんだこれは。

 細胞から込み上げる絶叫のような圧力――!

「緋一君?」

 すれ違いざま、その声が耳に響いた。

 瞬間だった。

 バクン

 何かが、何かを越えた。

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