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4章 12

「なっ、佐倉!?」

 振り向いたそこに青年はいなかった。一瞬混乱し、そして、はっと気づいて振り返った。

 青年の傷口から振り撒かれた血液が、霧雨のように背景を彩っていた。

 佐倉は明理の目の前に着地した。衝撃を制し切れなかった足がねじ曲がり、彼はとっさに明理の両肩を掴んだ。膨化しかけた肩に血まみれの指が食い込んだ。

 反動で後ろにかしいだ明理の頭。佐倉は短い息を吐くと、明理の頭を持ち上げた。

「お嬢様。明理お嬢様」

 彼の足は最早、支えの働きを成していなかった。右足は歪に曲がり、左足は明らかに骨折している。近距離で何度も超速停止を繰り返したせいだ。

 膨化した明理の足が、奇しくも彼の身を支える支柱となっていた。

「……っ、お待ちくださいませ」

 佐倉は呻き交じりに身を起こすと、ベストの内側に手を入れた。長い時間をかけ、そこから小振りのナイフを取り出した。

 そしてその刃を、躊躇なく自らの眼窩へと滑り込ませた。

 緋一はその行為に目を見張った。

「っく!」

 押さえつけた叫びが彼の背を振るわせる。緋一は唖然と、自らの眼球をえぐり出す様を傍観した。背がぶるぶると震え、腹の傷口から血液がほとばしる。そこで緋一は、はっと気付いた。

 まさか、御影は。

 視線が御影へ滑りかけたその時、佐倉の眼窩からナイフの刃が引き抜かれた。

 刃に遅れ、ころりとこぼれ出て来た球体を、彼は手の平で受けた。

「お……っ、お食べ……ください、明理お嬢様……」

 震える手の平の上で、球体はころころと行き来した。血液と透明な体液に濡れた表面が、転がる度に艶やかな光を帯びた。

 佐倉はナイフを持つ手を開き、ナイフを床へと落とした。その手は宙を何度か行き来し、ようやく明理の頬へと行きついた。

 彼の視界は失せていた。手探りで明理の口を探り当てると、唇をこじ開けて、僅かに開いた歯列のすき間に眼球を滑り込ませた。

 佐倉は満足げに嘆息すると、唇に差し入れた指を抜いた。ぷちゅ、とまるでトマトを潰すような音がして、少女の唇から透明な液が漏れた。

 少女はあたかも生物の反射行動のように、口の中の物を噛み、呑み下した。

「……」

 緋一は言葉を失くして彼らを眺めていた。異常だった。ためらい無く行われた行為はどう見ても異常だった。

 ただ――誰も。

 誰もこれ以上傷つかない。固まりかける思考の中でも分かった事実だった。

 少女の瞼から、涙がこぼれた。

「……ァ……あ……ああ」

 半開きの唇から、やわらかな声が漏れた。

「あ……ぁ……さくら……?」

 虚ろな瞬きを繰り返した後、少女がうっすらと目を開いた。筋になって伝った涙は、頬を覆った佐倉の手の平をあたたかく濡らしていた。

「お目が覚めましたか……明理お嬢様」

 佐倉もまた、信じられない程穏やかな声で少女を呼んだ。彼の背からはとめどなく血液が滲み出し、触れ合った明理のネグリジェを赤く染めていた。

 明理の両腕が緩やかに擡げられる。

「おもたいわね……しつじがよりかかってどうするの?」

「申し訳ありません、お嬢様。この足はもう使い物にならないようです」

「もぉ……ばかなことばっかりやるからよ。……ぜんぶみてたんだから」

 佐倉の頬が強張る。

「わたしのことも……わすれて……ひどいことしてたでしょ。ここからみてたのよ」

「……左様でございましたか」

 ゆっくりと引かれた彼の手を追うように、明理は彼の胸へと頬をつけた。

「なにがまもるよ……ばかね……あなたはなんにもわかってない。じぶんのことすらわかってないんだから、わたしのきもちなんてわかるわけがないわ」

 責めた彼女の口調は、切なげな笑みを交えていた。抑揚の少ない、幼く感じる声音の訴えに、佐倉は無言で頷きを繰り返すだけだった。

 明理が深くため息をつく。その拍子に上体が崩れかけ、佐倉は慌てて彼女を抱きしめた。

「お嬢様」

「だまってないで……メェくらいいいなさいよ……ひつじさん」

 意表を突かれたように動きを止める。

「いかないで。もうなにもしなくていい。……あなたもほかのだれも傷つけたくない。私自身ももう、泣きたくない……」

 明理はそっと両腕を佐倉の背へと回した。ピクリ、と佐倉が身じろいだ。

「あぁ、ふわふわしてはいないけど、あったかい……」

 血液に濡れた背を、異形と化した両腕が優しく撫でた。

「もっと早く……この手であなたの体を掴んでおくべきだったわ……」

 紛う事無き少女の声が、愛しげな音色で思いを紡いだ。何重にも意味を抱いたその言葉が、佐倉と、そして部屋にいる全員の耳へと響いた。

 異形の腕に抱かれた青年は、放心したように動かなかった。閉じた瞼から溢れる血液は、まるで感情に穿たれ流れる涙のようだった。

 背徳的な絵画に似たこの光景を、緋一は無言のまま眺めていた。細かな事情は知らない。しかし少女が抱いていた気持ちは痛いほど伝わって来た。

「愛だねぇ」

 窓辺から感嘆する声が聞こえる。俗っぽい言葉でまとめた響子の一言に、緋一や、同じく身を固めていた白羽やDDは一気に脱力した。

「お前なぁ……」

「こんな時に変な茶々を入れないで下さいよ! 響子さん」

 ずっこけた体を立て直す緋一とDD。響子は「えぇ?」と不満げに眉をひそめた。

 と、その時だった。

「!」

 緋一は弾かれたように地を蹴った。

「来るぞ!」

 遅れて御影が叫ぶ。忠告が耳に届いた時、緋一は既に立つべき場所に両足をつけていた。

 背にかばった響子が目を見開くのと同時だった。

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