4章 11
「ッ!」
明理が腕を振り上げる。ブランダーの反射行動だ。
緋一が飛び出す前に白い影が視界を突き抜けた。
直後、ガキン! と硬質な音が鼓膜に響いた。
「うガッ」
弾かれた明理の腕が天井を掠める。その影の下で、翻ったワンピースが静かに収束した。
「見事な動きだね。白羽。本当に君を選んで良かった」
笑みさえ交えた声がそう言った。白羽は一瞬目を丸くした後、小さく唇を緩めた。
白羽の向こうには、二つの白衣の姿があった。
「いい所を邪魔してすまないね、宇佐見君」
こちらを向いて微笑んだのは、御影だった。その足元には、大きなトランクを抱えたDDがいた。
「御影……」
「ハカセ? どうしたのさ。最後の見せ場だけかっさらって行くつもりぃ?」
窓の前から響子が不服そうに言う。御影は否定らしい笑みを返すと、僅かに立ち位置を変えた。彼が真正面から捉えたのは、変貌に蝕まれた少女だった。
「進行度Ⅳ終期。亢進現象の最後の段階だ。じきにこの子は亢進を完了する――けれど」
濃い色眼鏡の奥の目が、すっと細められた。
「あと少し。今もあと少しだけ猶予がある」
御影は明理を見つめながら言った。
「御影博士、お嬢様は助かるのですか!」
佐倉が叫ぶ。直後、彼は激しく咳き込んだ。口と腹の傷から血液の飛沫が飛び散った。
御影は静かな表情で佐倉を一瞥した。
「何をもって〝助かる〟と言えばいいんだい? この子がこの運命から解放される事かな。それなら、横槍を突っ込んだ君は紛れもない罪人だ」
「な……っ」
「ヒトの前に用意された道は実質的に一つだ。世代亢進の岐路はすぐ足元にある。そしてどちらの道を歩むかも全て、その生命が発生した時から決定されている。道の先にあるのが、予定運命という細胞の終着点だ」
御影の目が明理を向く。
「出生したが最後、どう足掻こうが、他の道に乗り換える事はできない。その先にある予定運命も変えられない。世代亢進は五分五分の賭けなんて言われるけれど、ルーレットの前で祈ろうが、細胞に願いは届かないんだ」
酷く冷静な、そしてどこか切なげな声で言う。
「本条明理の予定運命はブランダーだ。その事実を呑みこむ事が、君が唯一できる彼女への奉仕だった」
「そうは思いません」
佐倉がキッパリと言った。
「……明理お嬢様をお守りする事が私の使命。救済の術が存在すると知っておきながら静観する事こそが罪です」
「だから君は初めに自分の眼球を差し出したんだね」
御影は佐倉を見ないまま言った。佐倉は腹の傷を押さえながら御影を睨んだ。
「当然の事です。お嬢様の亢進を止められるのならば、どんな手であろうと厭いません」
「ネクスタブルを殺して、その眼球を無理矢理食べさせるのもぉ?」
響子が挟む。挑発的な口調に反し、彼女の顔も御影と同様に冷静だった。
佐倉は横目でちらりと見ただけで、答えなかった。
響子は不意に淡く笑いをこぼすと、なぜか悼むような目を明理へと向けた。
口を閉じた響子に代わり、御影が問う。
「君はいったい、何から彼女を守っているつもりなんだい? 初めはブランダーへの亢進から彼女を救い出すつもりだったのかもしれないけれど、眼球を何度も与えるうちに、この方法がその場しのぎでしか無い事は理解できたはずだ」
佐倉が顔をしかめる。
「君は諦めるべき瞬間すら無視してしまった。……止まらない運命から守られたかったのは君の方なんだ。盾にした使命の意味を見誤ったまま、彼女と一緒に縛られてしまったんだ」
「……あなたに何が言えると言うのです」
通りの良い声が響く。
「御影博士。あなたも世代亢進を止める研究に勤しんでいた。あなたの事は覚様から聞いて存じています」
御影は反応しない。
「一年前に研究は頓挫し、あなたは姿をくらませた。軍は研究を続けているらしいですが、中核からあなたが消えたチームでは全く埒が明かないそうですよ」
「本条氏からの情報かい?」
「ええ。故に覚様も援助を打ち切られました。御身に重傷を負わされておきながら援助を続ける義理は無いと私も思いました」
佐倉はクーデターの首謀者が御影本人であることまでは知らないらしい。御影の横顔をキッと見据えると、
「内情は分かりかねますが、途中で研究を手放したあなたに責められる筋合いはありません。置き土産の理論を活用させていただいた事は、事後承諾になりますが認めていただきたく思います」
瀕死の重傷を負っているとは思えないほど屹然とした言い草だった。
御影はしばらく口をつぐんでいた。視線の先では、明理が体を折って呻いていた。
「そうだね。君の言う通りだ。だから私も今さら説教を垂れに来たつもりじゃないよ」
平らな口調でそう言った。直後、不意に明理が御影へと爪を振り下ろした。
「ハカセ!」
白羽が翼を翻した。滑り込んだ翼が爪を弾き返す。
高い残響の中、明理は天を仰いだまま喘ぎを重ねた。電子音になりかけた少女の喘ぎが、ファンの風に乗って部屋中に拡散した。
それは誰の耳にも、嘆くべき今への叫びにしか聞こえなかった。
「君も最後まで彼女を守るといい」
はっ、と佐倉が息を呑んだ。緋一も同じだった。
「最後までって、御影。どういう意味だよ」
とっさに問うた緋一。御影は白羽の翼の影で軽く笑むと、
「『同じ死を迎えるのならば、誰かに思われて殺される方が幸せな骸になれる』」
穏やかな口調でそう言った。どきん、と緋一の心臓が鳴った。
「……」
「とある人が遺した言葉だよ。この人はその後、殺されて死んだ。涙を浮かばせた暗殺者の手で――ね」
佐倉は無言で立っていた。誰の言葉なのか、彼は問い詰めない。御影は再び明理を向いた。
「この子、本条明理はもう助からない。完全にブランダーに変わるのももうすぐだ。そうなったら自我も感情も何もかもを失くし、誰かに殺されるまでヒトを襲い続ける」
明理はまだ少女の姿を留めている。しかし皮膚の変色剛化は更に進み、顔面に達しようとしていた。
「脳を揺さぶる殺戮衝動も相当なレベルに達している。この程度に抑圧できているのも、彼女の内側に残った最後の自我のおかげだ。こんな姿になっても、彼女の方は私達を必死に守ろうとしているんだ」
冷静な口調と瞳は、現象解析の最中の科学者そのものだった。
「間違いない。彼女にはまだ、人としての感情や意識が残っている」
御影が言い切り、そしてそれを肯定するかのように、明理の絶叫が部屋を振るわせた。
「……殺せと言うのですか」
叫びの下で、佐倉が問うた。その声は半ば力を失っていた。
「私が明理お嬢様を殺害する。これが私に成せる最後の仕事だと言うのですか」
御影は首を横に振った。
「それは彼女自身に尋ねるといい」
佐倉が意表を突かれた顔をする。緋一も怪訝な目で御影を窺った。
御影は後ろ手に手を組んだ。
「彼女はまだ完全に変わってはいない。今、然るべき措置をとれば、彼女は一時的に亢進の意識障害から覚醒する。会話する事も可能だ。そして恐らく、これが最後のタイミングになるだろうね」
濃い色眼鏡の奥の瞳が、白羽、響子、緋一を順に見た。
「この部屋に存在する救済の術は九つ。本条明理はあと九回、自分の言葉を取り戻す事が出来る」
緋一の心臓が疼いた。救済の術――つまり亢進者の眼球。九という数字は、DD以外の全員が有す眼球の数だった。
御影は最後に佐倉の顔、そして腹の傷を一瞥した。
「……ただ、今の君に許されるのは一回だけだ」
佐倉は隻眼を見開いた。
己へ放たれた視線が抱く意味を、彼は一瞬で察していた。
緋一は耳の後ろに風が吹くのを感じた。




