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4章 9

「血……?」

 佐倉は氷漬けになったように動きを止めていた。

 右手のナイフは、緋一の喉を見据えたまま宙に停止していた。

 隻眼がゆっくりと下を見る。緋一もつられて視線を下へと移した。

 彼の腹には、突き出した異形の腕があった。

 佐倉を貫通した腕は、そして、直線上にあった緋一も同時に貫いていた。

「ぐっ……ぅ……っ」

 佐倉が遅れて呻きを上げた。体を折り、ごぼりと血液を吐き出す。ナイフが滑り落ち、くすんだ銀色が絨毯に跳ねた。

「っ……ぐ……っ」

 食いしばった歯の間から血液が流れ落ちる。深く俯いた顔は影に塗りつぶされて見えない。喉から漏れ出る呻き声が、彼を襲う激痛を伝播した。

 ぐぐっ、と腹の内側が動く。鈍い痛みが緋一の神経に這い上がる。そして次の瞬間、背の皮膚をめり込ませる勢いで腕が引き抜かれた。

「! うあああっ!」

 絶叫したのは佐倉だった。彼の体は弓のように反り、痛みに染まった顔が天井を向いた。

 何の配慮も無く引き抜かれた腕は、混ぜこぜになった緋一と佐倉の組織をまき散らしながら宙に躍った。

 がくりと佐倉の膝が崩れる。彼はそのまま緋一の上に倒れ込んだ。

「おいっ……佐倉!」

 緋一は絨毯に座り込んだまま彼を抱き止めた。手を縛り上げていたロープは先程の一撃で断ち切られていた。

 緋一自身の傷は既に再生を始めていた。今までの攻撃でセカンドメモリーが近極限まで活性化していたせいだ。

 ボトボトと音を立てて周りに血液が落ちて来る。治癒能を持たない宿主の血液は、そのまま絨毯の毛並みに吸い込まれていった。

「……お……じょぅ……さま?」

 佐倉が虚ろな声で呟いた。この状態でも立ち上がろうと言うのか、彼の靴底が絨毯を踏んだ。しかし短い呻きの後、力の無い支えは一気に崩れた。

 彼は背と腹から溢れる鮮やかな血液と共に、緋一の隣へと倒れ込んだ。

 緋一は露わになった背後の光景を目の当たりにした。

 鈍色の双腕。

 肥大した両足。

 末端からそれらを覆い始めた金属質の光沢。

「……くそ……っ」

 緋一は顔をしかめた。

「もう時間切れってか……」

 長いストレートの髪がさらりと揺れる。

 ソファを背に立つ少女はまだ、十二分に人の面影を残している。

 しかし両腕と両足はもう、隠しようの無い変貌に蝕まれていた。

 見開かれた両目が緋一を見つめている。ひどく頻度の低い瞬き。この少女が瞼を手放しかけている証拠だった。

 緋一の目の裏に記憶がよぎる。ブランダーは瞬きをしない。顔面に残る眼球は人の痕跡を語る唯一のパーツだが、瞼を失くし、剥き出しになって充血したそれは憐れな運命の体現でしか無い。

 そう、あの子もそうだった。

 この手で殺した妹もそうだった。

 不満げに『短い』と言っていたまつ毛も全部無くなって、泣きはらしたような色の眼球だけが自分を見つめていた。

 緋一は漏れ出る呻きを殺して立ち上がった。腹に開けられた大穴は既に、完全にふさがっていた。

 ちらりと横を見る。急所がうまく外れたのだろう、体を突き破られても、佐倉は辛うじて生を留めていた。しかし出血の様子から彼が事切れるのは時間の問題だった。

 はっと緋一は前を向いた。突進してくる腕が目に飛び込む。

「!」

 反射的に佐倉の前へと立ちはだかる。直後、疑似金属に覆われた鋭い爪が緋一の腕を貫いた。鋭利な衝撃が脳へと突き抜ける。

 爪は緋一の上腕を断ち、背後の壁に突き立った。ドン! と強烈な振動が部屋中に響き、飾り棚のガラスが音を立てた。

「……あぁ……いけ……ない……」

 背後からか細い声が聞こえる。

「おじょ……さま……いけま……せん……よ」

 緋一は肩越しに振り返った。佐倉は突き立った爪の下で、必死に身を起こそうとしていた。

「ごほっ! ……くっ……ぅ……ぐっ」

 立ち上がりかけた体が転がる。壁を背にこちらを向いた彼の顔は、苦痛と血液と、緋一には理解できない慈しみに満ちていた。

 佐倉は再び手を床についた。

「バカか! 動くな!」

 制した瞬間、明理が反対の腕を擡げた。揺れた空気を察した緋一はすぐさま佐倉に覆いかぶさった。

「ぐっ!」

 爪が背を切り裂く。ぱくりと開いた傷口から血液が噴き上がった。

 深紅の噴水に歓喜するように、明理が何か声を上げた。何を言っているのかは音が濁り過ぎて聞き取れなかった。

 再び背に衝撃が走る。緩衝し切れなかった神経の悲鳴が激痛となって脳に突き抜けた。

「うあ!」

 太い神経を損傷した証拠だった。緋一の悲鳴にますます煽られたのか、明理は緋一の背をめった切りにし始めた。

 飛び散る血液が、緋一の下にいる佐倉に降りかかる。崩れては甦る少年の輪郭を、佐倉は呆然と見守っていた。

「くっ……ぐぅっ!」

 緋一は歯を食いしばった。歪んだ顔で呻き、四肢を強張らせる。

 しかしそんな状況でも――緋一の内側にある絶望はまだゼロに等しかった。

 佐倉のナイフと違い、明理の攻撃は勢いばかりで的を射ていない。隙さえあれば即座に背を返して突っ込める。そう、いつものブランダーとの戦闘と同じだった。

 ただ、緋一の手の中には何も無かった。

「くそっ!」

 繋がった腕で壁を叩いた。

 武器が無いからどうしようもないんだよ!

「……なぜ」

「あぁ?」

「きみは私……を……守るのですか」

 下を見る。佐倉は背を壁に預けたまま緋一を見上げていた。彼の隻眼が焦点を合わせていないように見えるのは、腹の出血と痛みが意識を霞ませているせいだろう。

 そして同じ理由からか、彼はいつの間にか正気を取り戻していた。瞳にあった狂った光は、光跡すら残さず淀みの奥に消えていた。

 元から無表情に近い彼は今、完璧に表情を失くしている。動きの鈍った唇が発した問いも、あまりに平坦すぎて、すぐに問いと判断できなかったくらいだ。

 緋一は苛立った声で答えた。

「あんたには訊く事があるんだよ。だから勝手に死なれちゃ困る。そう言ってる奴がいるんだ」

「……先日の……科学者ですか」

「ああ」

 頷きながら、緋一は頭の奥で「くそっ」と悪態をついた。

 目玉狩りの狩人――佐倉がどこから眼球の救済を知ったのかを明らかにしたい。その理由で御影は佐倉の〝生け捕り〟を要求した。研究成果の抹殺が御影の何よりの使命。佐倉に個人的な恨みも無い緋一は当たり前に頷いた。悪態の相手は御影が吐いた平和なセリフだ。

『ウサギに狩人が狩られるなんて滑稽だね。ウサギ対ヒツジのタイトルでも面白いな』

 これのどこが面白いバトルだ。緋一は再び歯を軋ませた。

 自分と佐倉。二人して丸腰の状態でブランダーに襲われる展開は誰も予想していなかった。

 小さな吐息が聞こえた。

「彼が……ミカゲですか……」

 見ると、佐倉は虚ろな視線でどこかを見ていた。

「御影を知ってんのか」

「ええ……他愛もない話の……中でですがね……」

 緋一は息を呑んだ。

「その話、どこで聞いたんだ」

「……覚さまとの……雑談ですよ。……っ」

 佐倉は苦しげに顔をしかめた。腹の傷を隠すように、血染めのベストをぎゅっと握りしめた。

 覚――本条覚。その名が緋一の中に点灯した。この本条家の主人の名だ。彼は一年前のクーデターまで、自衛軍に亢進抑制研究のための資金援助を行っていた。

 そのルートから情報が漏れたのか。緋一は目前の壁を見つめ、唖然とした。支援者とは言え、御影自身が軽々しく口外するとは思えない。きっと研究を知る軍の人間の仕業だ。救済に孕む罪の自覚の無い〝人間〟なら、つい話してしまう可能性は低く無い。

 緋一は納得した。そして同時に狼狽が襲った。情報の元は取れた。それなら……後はどうするべきなんだ。

 ちらりと後ろを見る。瞬間、鋭い爪が頬を切り裂く。体が反転しかけたが、とっさに足を踏みしめてその場に留まった。

「……くそっ」

 緋一は佐倉の盾になったまま、狼狽に呻いた。

 誰も何も求めない。助けてくれと叫ばない。殺してくれとも叫ばない。俺はどうすればいいんだ。この死ねない時をどう過ごせばいいんだ。

 誰か――……誰か俺に銃を渡してくれ。

 守ってくれと願ってくれ。

 そうすれば俺は一番楽な方法で俺を確信できる。死ねない体が在る意味を確信できる。

 鼓動する理由が欲しいんだ!

「俺に銃をくれ!」

 心臓から願いがこぼれた。

 その時だった。

 部屋にけたたましい音が響き渡った。

 乱暴で無秩序で、どこか澄んだ旋律のような音。ガラスがぶち破られた音だった。

「っゃ!」

 背を裂き続けた爪が止まった。かすかに少女の気配を帯びた悲鳴が、跳ね散るガラスの残響に被さった。

 緋一は音の方向を振り向いた。

 破れたガラスから注ぐ光。

「!」

「フライングはダメだよぉ、緋一君」

 こぼれる白い陽を背負い、悠然と佇むシルエットがあった。

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