4章 8
「っ……!」
「殺してさしあげると申しましたでしょう」
佐倉の唇がそう紡いだ、瞬間。
「っつあ!」
「君が絶命すれば眼球も取り出せます。明理お嬢様にはそれを食べていただけばいい」
ナイフが走り抜けた両目から血液が溢れ出す。眼窩に収まったまま真っ二つになった眼球からドロリとしたゲルが流れ出した。
佐倉は着地した地点から緋一を振り返った。間合いは一メートルほど。始点からの距離二メートルは、彼のセカンドメモリーである超速移動を正常発現・停止させられる最小限界の距離だった。
再び佐倉の姿が消える。眼球の修復を終えていない緋一にはその気配だけが分かった。直後、熱い衝撃が喉を覆った。
「――っ!」
戻った視界が一瞬でホワイトアウトする。神経の許容を突破した痛みが脳を白亜に塗りつぶす。吹き上がる血液も激痛も何も解らない。生理的な思考停止が緋一に訪れる。
そのうたかたの〝死〟が徐々に姿を消す。修復される細胞、組織、器官。鈍い痛みと共に甦った視界の淵に、再び銀のナイフが閃く。
「ぅっ」
ナイフが喉に突き刺さり、続けて柄を握った拳が尖穴にえぐり込む。引きちぎられる筋肉と血管。脱臼する頸骨。繋がりを断たれた頭部が拳の方向に弾け飛んだ。
ドン! と壁にぶつかる頭部。壁に大きな血痕を打ち、床にバウンドする。飛び散る肉片と骨片。そのすぐ横に佐倉は着地した。
転がる緋一の頭部にナイフが突き立つ。こめかみの薄い骨は容易く破られ、先端が脳に達したのを佐倉は感じた。
そして柄まで埋め込む前に、ナイフが折れた。
「はぁっ……はぁ……っ」
佐倉は思い出したように肩を上下させた。喘ぐ呼吸を抑えながら立ち上がり、少年の頭部を見下ろした。血液にまみれた切断頭部。壁に当たった衝撃で眼球は破裂し、耳からも血が流れている。赤く染まったデスマスクの中で、こめかみに埋まったナイフだけが銀色に光っていた。
佐倉は踵を返すと、飾り棚の引き出しを開けた。そこには純銀の食器が綺麗に並んでいた。毎日手入れを欠かさない純銀の食器は、どれも見事な光沢を放っていた。
佐倉はその中から再びナイフを取り出した。刃の入っていないテーブルナイフ。先程の物も、明理がケーキや軽食を食べる時に使っているナイフだった。
引き出しを閉め、振り返る。収束しきれなかった動悸の中に、ドクンと強烈な鼓動が響く。
少年は早くも、元の輪郭を取り戻そうとしていた。断面を重ねる首。砕けていた下顎が骨を継ぎ、頬の陥没が盛り上がる。眼窩に戻る水晶体。そしてそれらを彩る、華吹雪のような血液のつぶて。
緋一のこめかみから、折れたナイフが吐き出された。
瞬間、佐倉は地を蹴った。炸裂するセカンドメモリー。超速移動を記したメッセンジャー因子が両脚の細胞を駆け抜ける。
見開いた隻眼は一直線に前を見ていた。
通り過ぎた少女はもう、彼の眼中には無かった。
だんっ! と緋一の後頭部が壁を叩いた。
「がっ!」
よみがえりかけていた緋一の意識は再び白く霞んだ。一瞬見えた光景は、異様なまでに光を帯びた瞳だった。
――知ってる。俺はその目を。
穿たれたナイフが首の中でうごめく。一瞬の間の後、凄まじい速度で横に抜ける。皮一枚になった首が頭部の重みで傾いていく。
――その目は血の赤よりも濃く記憶にこびりついている。
首が完全に断裂する前に組織が修復され始める。神経がつながり、筋繊維が肉を編む。骨片がパズルを合わせ、血管が道を描く。
――憑かれたように人を殺したあいつの目だ。
血液の時雨が明ける。
――そして憑かれたように俺を殺したあいつの目だ。
緋一は目を開けた。
――狂ったオオカミと同じ目だ。
焦点を結んだ先の隻眼は狂っていた。
「……きょう……こ……」
薙がれたナイフが緋一の首を分断した。唇からこぼれた呟きの続きが喉の断面から噴出した。
ナイフの軌道を辿る血液が壁に赤い弧を描く。
単色の虹はすぐに弧を崩す。佐倉は着地するや、ぐるりと回転し再び床を蹴った。ナイフが首を断ち、銀色の光沢が血液と共に躍った。
彼は両足にのしかかる凄まじい反動など意にも介さず急停止し、至近距離から再び緋一に突進した。ざしんっ、と太い動脈が切れる響きが佐倉の腕をしびれさせる。その快感でしかない感触に、彼の耳の後ろはぞくぞくと弥立った。
びくりと緋一の足が痙攣する。まるで喉の代わりに上がった断末魔。佐倉の心臓が更に高く跳ねた。
血液を吹いていた頸動脈が断面を塞ぎ始める。徐々に肉に埋まっていく管に再び銀色がえぐり込む。剥き出しの組織が真っ二つに裂けた。
行き場を失った血液が口から溢れ出す。それは直接気管へと流れ込み、緋一は激しくむせかえった。
「げほっ! ごほっ、ごはっ!」
口と喉から血液が同時に噴出する。ぐしゅっ、びしゅっ、と異常な摩擦音が部屋に響いた。
佐倉は傷口へナイフを突っ込んだ。繋がりかけの組織を銀の食器がぐちぐちと掻き分ける。頭部が千切れ、血液をまき散らしながら転がった。
どさっ、と重たい音がする。緋一の胴体が床に崩れた音だった。首はまだ、絨毯の上で断面を晒したままだった。
佐倉は手にしたナイフを見た。純銀の刃は生体組織に汚れ、完全に曇ってしまっている。
もしナイフが鏡のような輝きを保っていたら、彼は我に返ったかもしれない。
己の異常に気付けたかもしれない。
隻眼は狂気にまみれていた。
死なないウサギを殺す至福にとりつかれていた。
「――」
ナイフに映らなかったその瞳は、彼を我に返す最後の機会を逸してしまった。
駆け巡るセカンドメモリーと呼応する細胞の震え。そして身を貫くあり得ない程の高揚が佐倉の全てを支配していた。
背後で少年が蠢く気配がする。佐倉は肩越しに振り返り、身を起こした少年の姿を射止めた。
ナイフが閃く。
「っぅ!」
喉がめくれ上がる。叫びにならなかった声が裂け目から漏れた。
緋一はナイフの風圧すら認識できなかった。捻じれた鼓膜が元に戻り、ようやく音が聞こえ始めた矢先だった。
佐倉のナイフのスピードに、緋一の再生速度は追いつかなかった。完全に再生を終える前に彼のナイフが喉を断っていく。同じ場所を狙われ続けている事も、治癒が追いつかない原因だった。
……まずいな。このままだと本当に死ぬんじゃないか。緋一は切れ切れの思考に思った。
こんなに連続して再生を続けた事は無い。おまけに傷のレベルも半端じゃ無い。ぐちゃぐちゃに砕けるよりはマシだが、太い血管や中枢神経を切られ続けると再生の負荷も相当大きくなる。頼むから首はやめろと叫びたかった。
しかし叫ぶに叫べなかった。意識が戻り、声帯が震える前に喉は再び真っ二つにされている。視界さえロクに回復しないままホワイトアウトの繰り返しだ。
このまま連続再生を続ければ、どんな結末が待っているのか。点滅信号のような状態の思考でも分かった。セカンドメモリーに晒され続けた細胞は臨界状態に達し、それを突破したら一気に崩壊する。超速再生の力は永遠に失われ、その瞬間に俺は佐倉に殺される。
その前に俺は狂うんだろうか。緋一は考えた。臨界状態に達すると、ある地点から爆発的に力が暴走し始める。その暴走は細胞に押し込められた殺戮衝動を惹起し、ネクスタブルを血濡れの狂気に染め上げる。
そう、同じように。
今の佐倉や、かつての大上響子と同じように。
『緋一君が狂っちゃった時は僕の全てをかけて殺してあげる』
響子の声が白い視界に響く。違う。バカかお前は。俺は絶対に狂ったりなんかしない。お前が望むしょうもない未来を実現させる気なんてさらさら無ぇ。
何が狂えだ。殺すだ。あの狂気を受け入れてるお前とは違うんだよ。
俺は最後まで抗う。耐えてみせる。反撃できる時が来るまで殺され続けてみせる。例え細胞が狂った叫びを突き上げようと、頭の中まで呑み尽されるつもりはねぇよ!
それで臨界を突破したら? 狂わなくとも、細胞が再生の限界を叫んだら?
はっ、その時は潔く死ぬまでだ。俺を殺せなくて残念だったな、なんてあの世から嗤ってやるよ。響子!
「……は……」
唇が鈍い笑みを吐き出した。無意識のそれには、佐倉も全く気付かなかった。
しかし――……
もし、この殺戮劇に観客がいたとしたら、観客達は緋一の笑みを、紛れもない逆転の合図と捕えるに違いなかった。
ドン、と衝撃が腹を突き抜けた。
鈍く緩衝されたその衝撃は、淀んだ感覚の中でも異様だと理解できた。
「……っ?」
緋一は明度を取り戻した視界に違和感を覚えた。影だ。ナイフを振り上げたシルエットが、くるくる回る天井のファンを隠している。
佐倉は緋一の目の前で動きを止めていた。
ごふっ、と彼の喉が重たい咳を吐き出した。同時に出て来た濃色の飛沫が、彼の口の周りに散った。
血液だった。




