4章 7
何かがギシギシと軋む音が、意識の淀みへ楔のように突き刺さった。
緋一は重たく閉じていた瞼を開いた。ぼんやりと霞む視界。焦点を捜す眼球が無意識に視界を転がしていく。
ぐちゅっ、と粘質な何かが潰れる音が聞こえる。何なのか、緋一は体験的に知っていた。眼球だ。頭蓋骨の中で眼球が潰れた時の響きと同じだ。徐々に霞みを晴らしていく意識と視界の中で確信した。
緋一は絨毯の敷かれた床に座っていた。背には壁。腰の後ろで縛られた両手が壁に触れている。旧市街の建物にあるようなセメント質ではなく、木の質感があった。
虚ろな吐息が、軋む音の迫間に混じる。緋一は導かれるように顔を上げた。
革張りのソファの上で、ベストを着た人物の背と、異様な形をした少女の体が重なっていた。
「……」
少女をソファに押し付け、無理矢理唇を開かせる青年。細く開いた歯と歯の間に何かを突っ込み、奥へと押し込んだ。
「お噛み下さい、明理お嬢様」
平らな声が命じる。少女は口を半開きにしたまま固まっている。青年が再度命じると、まるで壊れたからくり人形のようにゆっくりと顎を閉じた。ぶちゅ、と少女の口の中で何かが弾ける。少女は二・三回咀嚼すると、口の中の物を飲み下した。まだ塊の状態の咀嚼物が、少女の細い喉を押し開きながら通り過ぎていった。
緋一はじっと、その異常な儀式を眺めていた。青年は少女の嚥下を確認すると、ホッと息をついた。覆いかぶさっていた少女から身を放し、彼女の前に姿勢よく立つ。その足元には蓋の開いた小箱が転がっていた。
彼の影を被った少女は、その頬を涙と、爪の形の痣に汚されていた。
濁った両目は何も見ていなかった。緩慢な瞬きは最早、感情の全てを手放していた。
ソファに投げ出された少女の腕――神話に出て来る怪物のように肥大した右腕は動かない。脈動する血管が浮き出た鈍色の皮膚。無骨な隆起に垂れる滑らかな髪の房を、青年の手がそっとかき上げた。
まるで〝それ〟は憐れな人形だった。
「……無惨だな」
呟いた瞬間。青年がばっと緋一を向いた。
その姿がかき消える。視認した瞬間、緋一の喉に一本の線が走った。
「っ!」
頭が後ろに反り返る。横一字に裂けた喉から、肺の空気と動脈血が勢いよく噴出した。
青年は銀のテーブルナイフを掲げたまま振り返った。
剥いた目で天を仰ぎ、びくびくと痙攣する緋一。解放された血圧のままほとばしる血液。
鮮血の飛沫は壁と床を覆い、そしてすぐに軌道を逆戻りし始めた。青年は隻眼をしかめた。
銀のナイフを染めた深紅が蝶のように宙を舞う。
「ぁっ」
緋一は肺に残った息を吐き出した。繋がった気道を呼気が通り、次いで吸気が満たした。
「……佐倉、あんたは自分が罪人だって事に気づいてねぇのか」
緋一が発した名に、青年――佐倉は一つも動じない。
「この子……もうブランダーになりかけてるじゃねぇか。亢進失敗は確実だ。そしてここまで来てるってのに……あんたは眼球の救済をやめなかったのか」
ソファの前には眼球の小箱が転がっている。
「変わりかけの一番酷い状態で止めさせてるあんたは、この子にとって紛れもねぇ罪人だ。普通だったら一瞬で過ぎる絶望に長々と晒されてるこの子の気持ち、あんたは一度も考えなかったのかよ」
佐倉は無言で佇んでいる。
「どこから情報を手に入れたのかは知らねぇが、眼球の救済が一時的なモンだって事は分かってただろ。一度亢進が始まればもう元には戻れねぇ。成功・失敗どっちかに辿り着くまで二択の恐怖が付き纏う。その時点からこの子の地獄は始まってたんだ。何で一気に解放してやらなかった。おまけに失敗が確定した後も、何で無意味に抗った。……無意味レベルじゃねぇよ。半分ブランダーになっても生かされ続ける意味と価値、あんたは理解できねぇのか」
佐倉は何も言わない。緋一は言葉を切り、視点を上げた。少女の虚ろな横顔が見えた。
美しい少女だった。そこに有るのが何も見ない瞳と何も聞いていない耳、何も言わない唇、動かない体であろうと、彼女はまだ美しいままだった。
変わり果てた右腕。繰り返す果て無き絶望の波。この二つの地獄に、本条明理は美しいまま壊されていた。
逃れようの無い細胞の予定運命と、一人の男の罪が生み出した結末だった。
緋一は小さく嘆息した。
何であんたは、ここまで彼女をこうしたんだ。刃のような言葉で責め、胸ぐらを掴んで問い質しても答えは返って来ないだろう。
「それに言っただろ、俺を捉えた所であんたには何の意味もねぇぜ。その子に食わせる眼球が欲しけりゃ、またブランダーでも狩りに行くんだな」
挑発的な口調で言い、視線を明理の向こうの壁へと移した。高価そうな飾り棚。カップが一脚だけのティーセット。アンティークな機械時計は正午近くを指していた。
「狩りは夜だけの主義なのか? 確かに、自衛軍の警備をくぐってゴーストタウンに出るのは夜の方が都合いいだろうな。でも日暮れを悠長に待ってていいのか? 次の亢進現象が来てから慌てても遅すぎるぜ」
言いながら後ろ手の拘束を確認する。太いロープのようだ。足は自由だから、いざとなったらこのまま逃げられる。
しかし緋一の挑発に、佐倉が動じる様子は皆無だった。無表情のまま硬直したように床に立ち、じっと緋一を見下ろしている。
そう、佐倉はずっと、明理では無く緋一を見ていた。
体に絡まり続ける視線に、緋一は怪訝に目線を返した。
その瞬間、全身の毛が逆立った。




