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4章 1

 頭の上に掲げた地図を、緋一はしかめっ面で眺めていた。

 ベッドとは名ばかりのマットに寝転がり、折りたたんだ地図の一角をじっと睨む。

 重なった紙の淵から裸電球の光がこぼれて来る。人工的な逆光で、紙面はほとんど影に塗りつぶされていた。

 そこに描かれている図はとうに頭の中に焼きついている。新市街の外れ、ゴーストタウンと隣り合う境界のエリアだ。

 地図の中心には本条邸がある。緋一たちは明日、この巨大な屋敷に不法侵入する事になっていた。

 紙面の矢印は、白羽が空から確認してきた侵入可能経路だ。塀は自衛軍によってゴーストタウン側から警備されているが、響子がどこからか仕入れて来た情報で、監視が薄くなる時間が明らかになっている。

「満を持して突っ込めって事か……」

 緋一はため息を突くと、地図を掲げた手を下ろした。鈍い弾力が腕を受け止めた。

 いつもの護衛の仕事のつもりが、いつの間にか戦力として有効利用されている。早い所おさらばしようと思っていたのに、それどころか、気付けば組織の内情に深入りしている状況だ。

 緋一は顔をしかめた。何であの時断らなかったんだ、俺は。

 一週間前、いつも通り旧市街で雇い主を捜していた。そこへ声をかけて来た響子。彼女があの時のオオカミだという事はすぐに分かった。

 分かったのに、断らなかった。

 何でだ。別に日銭に困っていたわけじゃない。ネクスタブルによる個人護衛は常に求められている。引く手数多な状況で、何で俺はあえて響子の依頼を受けたんだ。

 まさか、俺も再戦を求めていた――?

「はっ……馬鹿な」

 緋一は自分で否定すると、ごろりと寝返りを打った。

 目の前に部屋の壁がそびえる。飾り気も何も無い、強いて言うなら歴史ばかりが刻まれた古くさい壁だ。幼い頃住んでいた家と同じ雰囲気の壁だった。

「……」

 緋一は寝転がったまま首を振った。違う、俺はあいつとは違う。例え何かを殺しても、笑って鉤爪を振るったあいつとは殺意のベクトルが違う。

 俺はウサギだ。

 オオカミとは違うんだ。

 赤い殺戮者オオカミには絶対にならないと、最初の最初に誓ったんだ!

 ぎゅっと閉じた目の奥に、一年前の映像が浮かんだ。

「っ」

 緋一は思わず目の前の壁を蹴った。するとその直後、壁が激しい震動を放ち返してきた。

「えっ」

 壁に触れた足に、ゴゴゴゴゴ、とただならぬ振動が伝わっている。

 まさか蹴ったせいか。……いや、そんな馬鹿な。

 両手をつけてみると、振動は階下から伝って来ているようだった。

「真下……それとも外か? こんな夜中に何やってんだ」

 緋一はベッドを降りると、元物置の部屋を出た。

 緩いらせん状の階段を下り、一つ下のフロアに着く。外階段が通じていない二階のフロアを覗くのは初めてだった。

 床に降り立ち、左側を見る。緋一の部屋の真下に当たるそこには頑丈そうなドアがあった。ドアは閉ざされていたが、老朽化のせいかすき間ができていて、そこから光が漏れていた。

 特におかしな所は無い。緋一はそっとドアへと歩むと、静かにドアノブを回した。金属が軋む音が立ち、向こう側へ押し開かれる。鍵は掛かっていなかった。

「響子さんですか? この操作は今の時間にやらないといけないんですよ」

 かけられた声はDDのものだった。

「これが済んだら一晩放置オーバーナイトです。そこまで進めたらちゃんと寝ますよ」

 ひしめく実験機器の間に白衣の背中があった。

 実験台の前に座り、右手に持ったピペットで液体を分注している。その速度は目を見張るものがあった。

 緋一はドアの所に立ったまま、DDの見事な手技を眺めた。もっとも彼女が何をしているのか、素人の緋一には全く分からなかったが。

 ツインテールが揺れる。

「響子さん?」

 コシの強い髪がくるりと回る。

 丸淵眼鏡越しに目が合った人物に、DDは思いっきり意表を突かれたようだった。

 まん丸になった目が緋一を凝視する。

「ひ、緋一さん。どうしたんですかこんな夜中に」

「いや、壁から妙な振動が伝わって来たから……」

 DDが「ああ」と頷く。

「遠心分離機ですね。機械が古いから、回し始めにかなり揺れるんですよ。その振動ですね」

 言い、壁の方を示した。壁のすぐ前で、小型の洗濯機のような機械が駆動音を立てていた。

「そう言えば緋一さんの部屋はすぐ上でしたね。たまにそんな振動や音がすると思いますけど、気にしないで下さい。夜中も実験しないといけない時があるんですよ」

 つらつらと言うと、再び操作に戻ってしまった。

 出て行けとは言われない。緋一はなるべく静かに部屋を歩むと、

「何で響子だと思ったんだ?」

「ノックが無かったからですよ。白羽さんは部屋に入る前にノックしてくれます。お祖父さんは外出から戻ってませんし」

 DDはさらりと答えた。単純かつ納得いく推理だ。話の間も止まらない手元を覗き込むと、無数の小さな窪みがついたプレートに次々とピンク色の液体を加えていた。

 と、彼女は僅かに手を止め、

「まさか緋一さんとは思いませんでしたよ」

 独り言のように呟いた。

 そして最後の数コマをハイスピードで埋めてしまうと、丸椅子を回して立ち上がった。手には例のプレート。緋一が思わず身を引くと、DDは眼中にも無さそうに早足で部屋を進んだ。小さな冷蔵庫のような機械を開け、中にプレートを安置する。機械の扉の横には庫内の温度と湿度を示すデジタル表示があった。

 DDは静かに扉を閉め、ふうと息を吐いた。

「……昼は言葉が過ぎました。謝罪します」

 突然の言葉に、緋一は理解が追いつかなかった。

「は?」

「〝は〟じゃないですよ! 昼間の事を謝ってるんです!」

 勢いよく振り返り、人差し指を突きつけて来る。ようやく緋一は何の事だか思い当った。

「気にしてないならいいんですよ。ただ、一方的に怒鳴りつけたのは悪かったと思ったんです」

 ふてくされたように言うと、腕を下ろし、顔を逸らした。

「……」

 部屋にはそのまま沈黙が落ちてしまった。遠心分離機の高い音が静寂の狭間を気まずく埋めている。

 謝られたのは心底意外だった。ただ、気にしていないと返せば間違いになる。

 緋一がどうしようと迷っていると、

「何とか言ったらどうなんです」

 DDが不機嫌そうに促してきた。緋一は頬を掻くと、ためらいがちに返した。

「御影第一のお前が謝って来るとは思わなくて」

 DDは目を瞬いた。そして納得したのか、視線が批判じみた雰囲気に変わる。

 少女は聞えよがしにため息を吐き、腕を組んだ。

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