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3章 16

 薄暗い廊下に、明理は立ちつくしていた。

「いや……イヤよ。私。ブランダーに……ブランダーに変わるなんて……っ!」

 少女の両目から涙が溢れ出す。佐倉は彼女の下へと駆け出した。

 かくりと明理が膝を折る。廊下に跪いた彼女を、佐倉はきつく抱きしめた。

「っ……いや……ぁ……こんなのイヤ……」

「落ち着いて下さい。お嬢様……きっと大丈夫です」

 震える少女を抱きしめながら、佐倉は彼女の右腕を見た。色白だった皮膚は鈍色に代わり、表面に浮き出た血管がドクドクと脈打っている。

 ブランダーのような疑似金属の外骨格は見当たらない。それでもこの腕は誰がどう見ても異常だった。まるでブランダーの中身。外骨格に覆われる前の姿と言っていい。

「何が……大丈夫なのよ……」

 胸の中で明理が震える。

「もう……私……。ブランダーに……イヤ……っ」

 佐倉は歯を軋ませた。

 もはや、明理がブランダーに進むのは確実だ。世代亢進失敗。逃れようの無い変貌は腕に留まらず、いずれ彼女の全身を蝕み尽くす。

 この状態で変化が停止しているのは、摂取し続けて来たブランダーの眼球の効果なのだろうか。通常、ブランダーへの亢進は瞬く間に完了する。明理のこの状態は、今まで見て来た現象とは全く違っていた。

 それなら、まだ間に合うかもしれない。

 佐倉は明理から身を離した。

 明理は縋るように彼を仰いだ。そして、自らの隻眼へと手を伸ばした彼に息を呑んだ。

「何をする気なの!?」

 とっさにその手を止める。佐倉は至って冷静な顔で明理を見下ろした。

「佐倉、あなた何をする気!?」

「今ネクスタブルの眼球をお食べになれば、これ以上の亢進は抑えられます」

 さらりと言う佐倉を、明理は信じられない顔で眺めた。

「そ……そんな事……できるわけないでしょう」

「しかし」

「私にあなたのもう一つの目まで奪えって言うの!?」

 明理の大声で、佐倉は口をつぐんだ。

 隻眼に伸ばした手を下ろす。明理はほっと息をついて俯くと、佐倉のシャツを掴んでいた左手を下ろした。カーディガンに覆われた左腕は、今も華奢なままだった。

 艶やかなロングヘアがさらりと動き、彼女の顔の左半分を覆い隠す。

 右側の毛束は、肥大した右の肩に行く手を阻まれていた。

 明理の頬に涙が伝う。

「あなたは私の執事よ。でも、あなたの全てを掛けてまで私を守ろうとしないで」

「それはできません。お約束いたしましたから」

「約束? ……ああ、あなたが家に来た日の事。ブランダーから私を守るとか……」

 明理は俯いたまま呟いた。佐倉は意外だった。幼かった明理が覚えているとは思っていなかった。

 心の中にじわりと温かい感覚が広がる気がした。

 佐倉は淡く目を細めた。

「覚えておいでですか」

「ええ。薄ぼんやりとね。……でも、そんな約束を建前に好き勝手にしてもいいと思っているの?」

 強い語気で明理は問うた。その雰囲気に、佐倉は僅かに気圧された。

「私が世代亢進に失敗する事、あなたは感づいていたんでしょう。だからあなたは何の躊躇も無く〝それ〟を止めたの。自分の目玉なんて取り返しのつかない物を捨てて」

 明理の左手がぎゅっとカーディガンの胸を掴む。

「どこからかブランダーの目玉を取って来る事も、私にそれを食べさせるのも、みんな私のためだという事は分かっているわ。私だって変わりたくない。ずっと〝人〟のままでいたい。けれどそう願うせいで失うモノがある事を、あなたは自覚していなかったの? そうよね。だから『変わりたくない』願い以外を全部無視して、目玉にハーブなんてかけられるのよ」

「私は決して」

「あなたがあなたの片目を食べさせた時から言いたかったのよ。そんな風に守ってほしいなんて、私は一つも望んでいなかったのに!」

 明理は顔を上げた。

「ヒツジの背には隠れても、ヒツジを食べて生き永らえるつもりは無いわ!」

 涙の膜越しの視線は、きつく、たまらなく悔しげだった。

 佐倉は絶句したままその視線に刺し貫かれた。

「……だから、もうやめて」

 ふっと彼女の瞼が落ちる。

「っ、お嬢様」

「もうこれ以上……構わないで……」

 崩れかけた体を抱きかかえる。明理は逃れるように身をよじったが、抵抗に力は感じなかった。

 右肩がピクリと動き、佐倉ははっとそちらを振り向いた。変わり果てた右腕が、ずるりと音を立てて廊下を撫でた。

「……この手で……あなたを殺すなんて……絶対にイヤ……」

 明理は呟くと、佐倉の腕に頭を預けたまま、完全に意識を失ってしまった。

 佐倉は明理の頭を胸に抱いた。そして再度、顔をしかめて右腕を眺めた。

 上腕に浮き上がった血管がドクンドクンと脈打っている。肥大した腕は一時、三メートル以上の長さに及んでいたが、今はその半分以下に収まっている。しかし元の姿を留めている左腕とは似ても似つかない。この醜悪な容貌を隠し通せるとは考えられなかった。

 そして同時に、明理の変貌がこれ以上進む気配も無かった。

 軍人たちの攻撃意思に反射して、一時的に亢進が進んだだけかもしれない。佐倉はその可能性に行き当たった。それならば、まだ猶予がある。完全にブランダーに変貌してしまうまで、もう少し時間が残されているはずだ。

 計りようの無い残り時間。頭に湧いたいくつもの時計の幻影を振り払いながら、佐倉は明理を抱き上げた。立ち上がると、明理の右腕は床すれすれを振り子のようにかすめた。

 佐倉は彼女を寝室へと運んだ。両腕に抱いた体は今もやわらかく、あたたかかった。

『まもってくれるの?』

『そうまでして何で私を守るのよ』

 遠い過去と近い過去が入り混じる。

『もうこれ以上……構わないで……』

 耳の中に直前の嘆きが覆いかぶさる。

 好き勝手。建前。無視。少女の唇から放たれた言葉が、記憶と共に頭を回る。

 少女は泣いていた。無理やり唇をこじ開け、初めて眼球を食ませた時から泣いていた。

「なぜ……拒むのですか」

 約束を守るために佐倉が取った行動を、少女は初めから拒絶していた。ブランダーの眼球による救済も、彼女は己の本能に従いつつも激しく嫌悪していた。守られる代わりに失せてしまう何かを憂えて――

 佐倉はそっと、明理をベッドに横たえた。右半身を見なければ、彼女は静穏な夢の中にいる少女だった。

 しばらく、その寝顔を眺めていた。次に瞼が開くとき、彼女はまだ人の姿を残しているだろうか。それとも、この眠りの最中に全てが変わってしまうだろうか。その答えは誰も分からなかったし、佐倉自身も探そうとはしなかった。

 ただ、取るべき行動は知っていた。

 佐倉は立ち上がると、窓へと目を向けた。閉ざされたカーテンの向こう側には、まだ高い太陽の気配があった。日が暮れるまで数時間ある。闇に紛れてゴーストタウンへと出るには、もうしばらく待つ必要があった。

 小さく息を吐くと、再びベッドに眠る明理へと目を落とした。

「……日が暮れましたら、すぐに眼球を調達してまいります。それまでどうかご無事でいらしてください」

 佐倉は一礼すると、踵を返して寝室から出た。

 開けっ放しになっていた玄関の扉を閉める。廊下に転がっている軍人の死体は、暗くなった後でゴーストタウンに捨てて来るつもりだ。廊下に散った血液も、日暮れまでには完璧に掃除できるだろう。

 ふと、彼らが叫んだ軍令を思い出した。亢進予備者を集め、亢進完了まで軍が監視する。ネクスタブルへと進んだ場合は、元の家に帰す。

 それならブランダーへと進んだ場合はどうなるのか。彼らは説明しなかった、が、察するのは簡単だった。ゴーストタウンに打ち捨てるのだろう。どうりで最近、新市街にブランダーの発生を聞かないわけだ。

 二か月前からゴーストタウンで狩りをする事になった自分は、知らない間にその恩恵を受けていたのかもしれない。

 だが、今日これから都合よくブランダーが現れる可能性には、微塵も期待していなかった。

 相手がどちらであろうと厭わず、佐倉は狩るつもりだった。

 数日前の光景が思い浮かぶ。ブランダーを追ううちに踏み入った旧市街の奥地。そこで自分を待ち受けたネクスタブルの少年少女。そして青年。

 ――その理論の提唱者だよ。

 青年の言葉が耳に反響する。昔聞いた研究の中枢が彼だと言うのか。白衣を着ていた青年は、確かに何かの研究者に見えた。そしてあの晩の彼の助言も正確だった。

 佐倉は廊下を進み、リビングへと入った。数日前は目茶苦茶だったリビングだが、棚の修復まで終えた今は整然と片付いている。

 テーブルの上のティーポットから淡い紅茶の香りが漏れている。ポットのふたを開けると、閉じ込められていた香りが一気に上り立った。

 ティーポットの横の砂時計は、砂をすっかり落としてしまっている。佐倉はポットに蓋を閉め直すと、ティーストレーナーで茶葉を越しながらカップに紅茶を注いだ。放置しすぎた茶葉は完全に開いてしまっていた。

 ポットを置き、無造作にカップを取る。冷たいカップに注いだせいで、最初から冷めていた紅茶は更にぬるくなっていた。一口飲むと、舌を刺す渋みと苦さが広がった。

 零点の紅茶だ。執事失格だな。

 即座にそう断定したが、カップを下ろしはしなかった。

 顔を上げると、飾り棚のガラスに自分が映っていた。

 眼帯を掛けた青年。こちらを見返す切れ長の隻眼には、確かな冷たい光が灯っている。

 佐倉はその場に立ったまま、出来損ないの紅茶をゆっくりと飲み干した。

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