3章 9
彼方の山地へ沈みかける太陽が、潤んだ炎のような光を投げかけていた。山地から何キロメートルも離れている旧市街の空も、山の上に浮かぶ雲と同じ色に染まっていた。
時折、緩やかな北風が吹きつける。昼間の最後の名残を乗せた、僅かな温度を感じる風。十一月の空を巡って来た空気は、白羽の髪を揺らした先で四散した。
淡い色の髪は夕焼けの色に染まっていた。まるで、炎の輪を纏った天使だった。
研究所の屋上、白羽は西側の手すりに身をもたせながら景色を眺めていた。
そして緋一は、屋上へと続く扉に手を掛けたまま、破れたガラス越しに彼女の後姿を見つめていた。
また風が吹き、ワンピースの裾が揺れる。この季節だと言うのに寒くないのだろうか。剥き出しの背に浮かぶ肩甲骨を見、不意に心配になった。
白羽は風に身を震わす様子も無く、一人空を眺めている。夕陽に焼けた空と、旧市街独特の歴史を刻んだ建物の背景。その中に立つ彼女。さながら暖かな寂寞を求めて描かれた一枚の絵画だった。
緋一は扉を押し開いた。が、立てつけが悪いのか、扉は僅かに開いただけでビクともしなくなった。
「え? どうなってんだ」
突然のハプニングに小さく混乱する。ぐいぐい前後に揺さぶってみるが、扉は抵抗を止めない。
「鍵でも掛かってんのか? くそ、響子の奴」
体当たりする勢いで思いっきり押してみる。すると、ガキンと音を立てて勢いよく扉が開いた。勢い余って緋一は、扉のノブを握ったまま前につんのめってしまった。
「うわっ!」
「えっ」
白羽がぱっと振り返る。そして、扉を持ってよろめいている緋一を見て目を丸くした。
「宇佐見君。どうしたの」
「い、いや、ちょっと……ってか、ひとまずこの扉はどうなってんだ」
「あ、外れちゃったの? これ引き戸だったんだけど……」
緋一は呆然と扉を見た。丸いドアノブが付いているこの扉はどう見ても開き戸だ。
「騙された……」
「開き戸だと思ったの? でも開けちゃうなんてすごいよ」
白羽が苦笑した。イヤミではない、純粋な関心に聞こえた。
同じセリフを響子が言ったらこうは聞こえないだろうな。そんな事を思いつつ、緋一は扉を元の場所に戻した。扉はまたも抵抗したが、強く蹴ったらレールにはまった。
「宇佐見君、屋上に用事?」
振り返った緋一へ、白羽は尋ねた。
「響子ちゃんはどうしたの?」
緋一はやるせない顔で返した。
「もしかして白羽、俺が常に見張られてないと不安なのか?」
「えっ、あ、ううん。そう言うつもりじゃなくって!」
白羽は慌てて両手を振った。
「響子ちゃんが言ってたの。宇佐見君を見つけたらずっと側にいるんだ、って」
「その割にこの間は、白羽と二人にして姿くらませてたけどな」
「あの時は特別な用事だったの。代わりに私が宇佐見君を見張ってたじゃない」
緋一は乾いた笑いで返した。白羽は「あっ」と口に手を当てると、
「あ、あの時は違うの! 宇佐見君が『仕事は終わり』って勘違いして帰っちゃうかもしれないから、代わりに見ててって言われてただけ。一応、いざと言う時は適当に弱らせてゲストルームに入れておく事になってたんだけど、でも宇佐見君相手じゃそんなの無理だよね」
取り繕った笑顔で説明する彼女だが、全く弁明になっていない。
これくらいにしておかないと白羽がかわいそうだ。緋一は軽く息をつくと、白羽の横を抜けて手すりの方へと歩いた。白羽が「え?」と振り返る。
「響子に関しては心配いらねぇよ。ほら」
手すり越しに下を見ながら言った。白羽が隣から顔を出す。
「あ……」
五階下の地面には、ブレザー姿の少女が佇んでいた。腕組みをし、軽く責めるような目でこちらを仰いでいる。
「響子ちゃん」
「白羽と話がしたいって言ったら、ここを教えてくれた。いやにあっさり引いたと思ったら、端から二人にする気は無かったんだな」
緋一は軽く肩をすくめると、手すりから顔をひっこめた。
「私と?」
白羽が心底意外そうな顔でこちらを見る。
「ああ。聞きたい事があって」
緋一は背を手すりにもたせ、白羽へと視線を巡らせた。
「白羽は何で御影の組織に入ったんだ?」
「……私が、ハカセの組織に入った理由?」
白羽は問いを繰り返した。頷く緋一。
「白羽は響子みたいに、元の自衛軍にいたネクスタブルってわけじゃないんだろ? 確かDDが『御影が選んだ戦えるネクスタブル』だって言ってた。白羽も元は外部の人間なら、何があってこんなケッタイな組織に入ったんだ?」
尋ね、そして軽く空を仰いだ。目が映した東の空は、早くも宵闇を帯びた濃淡に彩られていた。
しばしの沈黙が流れる。やっぱり、理由なんて教えてくれないか。緋一が諦めかけたその時だった。
くすり、と小さな笑みが聞こえ、緋一は目を瞬いた。
「私、響子ちゃんに買われたの」
「……」
一瞬、頭の中に空白ができた。
「――はぁ!?」
盛大に驚きながら振り向く。白羽はその反応が嬉しかったのか、明るく笑いながら「本当だよ」と続けた。
「買われたって、金でか!?」
「そう。お金で買われてこの組織に来たの。宇佐見君と同じでしょう?」
確かに緋一自身も金銭で雇用関係を結んでいる。しかし白羽の言葉は信じられなかった。
「多分、私の方が高かったんじゃないかなぁ。響子ちゃんが言った額に、元々私を買う予定だった人達もびっくりしてたから」
「ちょっと待て。そもそも初めは別の奴に買われる予定だったのか」
白羽は頷く。ますます緋一はうろたえた。そんなセリのような取引があったと言うのか。
それに何より、〝買われた〟という表現がしっくりこなかった。
何から尋ねていいのか分からない。すると白羽が続けた。
「つい一年前まで孤児院にいたの。親がいない子供を育てる施設。旧市街に沢山あるでしょう?」
あ、と緋一は顔を上げた。
「知ってた? 旧市街の孤児院は半分人身取引で成り立ってるんだよ」
白羽は微笑み、両手を後ろに組んだ。
「そして実はね、私、ホントは自衛軍に引き取られる予定だったの」
緋一は目を丸くした。
「っ……軍だって?」
「そう。もう孤児院を出なきゃいけない年齢だったし……それに、すぐに出ていかなきゃいけない理由ができちゃったの。そんな時に私を買いたいって言ってきたのが、自衛軍だったの」
白羽は微笑んだまま視線を流した。
一方の緋一は疑問が増すばかりだった。
彼女は軍に名指しで売買されようとしていた。しかも驚くような金額で。
新市街と違い、旧市街にネクスタブル登録の制度は無い。一孤児院の人間であった高梨白羽という人物が、どうして〝軍にとって価値あるネクスタブル〟だと知れ渡ったのか。
切れ切れになりながらもそれを尋ねる。そして一呼吸置き、
「何が……あったんだ?」
真正面から白羽を見つめた。
彼女は笑い返し、その曇りない笑顔のまま答えた。
「私、人を殺したの」
呼吸を止めた緋一の代わりに、緩い風が空気を鳴らした。




