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3章 4

 階段を上がり、年季のしみたドアを押し開くと、ダイニングの光景が広がった。

 緋一が繋がれていた殺風景な鉄格子の部屋――ゲストルームは寂寥とした夕刻に呑まれていたが、ダイニングは一転して和やかな喧騒に覆われていた。

「あ、コーヒーそろそろ切れちゃいそう」

「えっ、それは問題です! コーヒー無しでは作業効率が落ちてしまいますよ」

「我が孫娘のカフェイン中毒も深刻だなぁ」

 流しの周りに背中が三つ。背中の開いたワンピース姿が一つに、デコボコの白衣が二つ。白羽とDD、そして御影だった。

 コンロの上のヤカンがピーっと笛を吹き、DDがビクッと飛び上がる。

「やっと沸いたね。還流管に入れてバーナーであぶった方が早かったんじゃないかな?」

 御影がヤカンの蓋を開け、沸騰している中身を覗き込む。

「還流管は冷却効率を上げるための器具ですよ、お祖父さん。熱伝導の観点からアルミビーカーの方が適切じゃないですか?」

「私はどっちもイヤだなぁ……」

 白羽が苦笑交じりに言う。

 柄物のクロスが掛かったテーブルの上には、カゴが置かれている。ピクニックに持って行くような代物ではなく、少々さびが混じった金属製の四角いカゴだ。一応その上にハンカチらしき布が敷かれ、無機質なフォルムをどうにか隠している。中に入れられているのはクッキーだった。

 カゴの隣には、フラスコの花瓶に挿された季節外れのコスモス。そして更にその隣には、あのセンスを疑うマグカップが五つ用意されていた。

「よし、コーヒー入りました」

 白羽が腰に手を当てて満足げに言う。芳しいコーヒーの香りが部屋中に漂っていた。

「それじゃ、そろそろ二人を呼んで来ようか」

「響子さん、ちゃんと点滴外せましたかね」

 DDがくるりと白衣を翻した。

「あ、もう来てたんですか」

 ぱちくりと少女が目を瞬く。白羽と御影もこちらを振り向いた。白羽は一瞬驚いた顔をしたが、緋一と目が合うと、ホッとしたように目を細めた。

「やあ、気分はどうだい? 宇佐見緋一君」

 白衣の青年がにこやかに尋ねた。まるで患者に経過を問う医師のような雰囲気だ。

「君の胸部に混入していた異物は外科手術オペで取り除いたよ。術後の後遺症は無いはずだ。幸い異物は皮下数ミリの浅部に留まっていた。レントゲン施設の無いこの研究所でも安全に施術ができたよ」

「ああ。おかげで痛みはすっかり無くなった」

 緋一は警戒の視線を弱めないまま答えた。

 御影の目がさっと左手首を撫でる。

「点滴針の後も無いね。一時的に封じたセカンドメモリーもきちんと戻ったようだ」

 緋一は思わず手首を隠した。

「俺のセカンドメモリーを封じた……だって?」

「ああ。以前に試作したサイレンサー――ネクスタブルのセカンドメモリーを一時的に阻害する製剤を使ったんだ。そうしないと宇佐見君、君の体はメスを入れるそばから傷を治してしまう。手術なんて不可能なんだよ」

「あ……そうか」

 納得する。確かに、真っ二つにされても瞬く間に元に戻ってしまうこの体だ。

「そんな薬なんてあったのか」

「逃亡生活をしながら秘かに研究していた薬品でね。……まぁ、粗方のメソッドは立っていたから、それを応用しただけとも言えるけれど」

 御影の目が斜め上を見る。何かを回顧する顔だ。

 ピンと緋一は思い当った。その途端、足元に気持ちの悪い罪悪感が湧いた。

「……あんたが前の自衛軍で研究してた、ってヤツか?」

 顔をしかめて問う。

「ネクスタブルの体を砕いて、世代亢進を止める薬にするって言う、あの――」

 御影の後ろで白羽とDDが顔を強張らせた。

 そんな緋一を御影は見て、そしてちらりと隣の響子を見た。響子は悪びれる風も無く小首を傾げる。

「緋一君は下手に言いふらしたりしないよぉ。ハカセだっていずれは話すつもりだったんでしょぉ?」

 御影もさして焦る素振りは見せなかった。予想していたのだろうか。むしろあのタイミングで響子一人をよこした辺り、彼女が全て話してしまう事は想定通りなのかもしれなかった。

 緋一はじっと御影を見据えた。宇佐見緋一に関して、御影は響子に一任している。宇佐見緋一は彼女をここに繋ぎとめておく唯一の手段なのだから。

 御影は響子が臨界突破した事に関して多少なりの責任を感じている。緋一はそう確信していた。だから彼女が〝あの約束〟を破らない限り、好きに行動させるつもりなのだろう。

 御影は軽く息をつくと、再び緋一へ視線を据えた。

「君に投与した製剤はリコンビナント、つまり人工合成したタンパク質で作成したものだ。ネクスタブルやブランダー――実在の〝肉〟は一切使用していない。だから安心していいよ」

 緋一の内心の不快感を見透かして説明した。

「この新型の製剤をもっと早く臨床段階に進められれば良かったんだけどね。タンパク質をコードしたDNAのベクター導入がなかなか進まなかったんだ。亢進細胞での実験例が全く無かったか、全部初めから組み立てていく必要があった」

 御影は白衣のポケットに手を突っ込んだ。

「亢進者特異的タンパク質のDNAは放っておくと勝手に複雑な立体構造を作り始めるから、従来の酵素では作用できない。バッファーの成分やらpHやらを確立するのに数カ月は」

「お祖父さん、緋一さんが固まってます」

 DDが呆れ声で止めた。あ、と我に返る御影。DDの隣で白羽も顔にハテナを浮かべていたし、響子など早くからお手上げモードだ。

「ごめんごめん。つい愚痴ってしまった。でも本当に大変だったんだよ」

「ですから『この薬を早く公表していれば』なんて批判は慎んで下さいね。お祖父さんは全力を尽くしたんですから」

 DDが眼鏡を押し上げながら言った。

「それにサイレンサー製剤は今の段階でも、ヒトの世代亢進を食い止めるまでの効果はありません。世代亢進という現象は言わば、爆発的なDNAの開花です。ネクスタブルのセカンドメモリー発現とはケタが違う。ですからサイレンサーはあくまでネクスタブル向けの発現阻害剤として考えて下さいね」

「そう。だからこの薬はまだ救済にはならない。誰かの世代亢進を止めたければ、薬よりも遥かにタンパク質濃度の高い――〝肉〟由来のモノを摂取するしかないんだ」

 御影が悼むように目を細めた。彼が狩人の事を示しているのは明らかだった。しん、とダイニングに沈黙が落ちた。

「さ、立ち話はこれくらいにして、そろそろ本題に入ろうか」

 御影が発した。

「せっかく入ったコーヒーが冷めてしまう。今日のコーヒーはハワイのお土産だよ、ね? 白羽」

「え? あっ、はい! ハワイのコナコーヒーです」

 白羽がコーヒーの袋を確認しながら答えた。

「冷めると酸味が強くなりすぎるから、早く飲もう。クッキーもあるよ。宇佐見君、栄養剤を打っていたとは言え、二日も絶食したからお腹すいたろう」

 さらりとかけられた言葉に、緋一は唖然と固まった。

「……二日?」

「そうだよぉ。緋一君てば二日も寝てたんだから」

「仕方がないですよ。一時的な昏睡状態はサイレンサーの副作用です」

 響子がからかうように言い、それをDDが窘めた。

「今日の昼までラボのベッドに寝てもらってたんだけどね、久々に人を寝かせたらベッドの足が折れてしまった。安静状態に入っていたし、ゲストルームに移ってもらったんだよ」

 御影が苦笑する。

 不可抗力だと言われているようだが、それでも点滴をくっつけた患者を鉄格子の中にブチ込むとは。おまけにご丁寧に手枷まではめて。緋一は怒りを忘れて放心してしまった。

「お前らの行動、どうしたって無駄な悪意は抜けないのか……?」

「悪意? 人聞き悪いなぁ。ベッドが壊れたのは緋一君が重たいせいでしょぉ」

 響子が場違いな所を窘める。緋一は反論しかけたが、最早どこから突っ込んでいいのか分からなくなった。

 黙った緋一を、響子はテーブルへと促した。

 人数に対して椅子が明らかに足りていない。緋一に用意されたのは、縦に三つ積まれた木の箱だった。隣の響子は、この間――二日前に緋一が座っていた丸椅子。向かいの白羽とDDは二人掛けの長椅子に並んでいる。そして一番上座の席についた御影は、何かの薬品が入っていたと思われる巨大な缶の上に座っていた。

 大丈夫なのか、と不安になりながら緋一が腰を下ろすと、白羽が湯気の立つマグカップを目の前に置いた。以前の〝入浴〟マグだ。

 目を上げると、白羽もこちらを見ていた。心底安心したような――しかしどこか、切なげな諦観を帯びた顔に感じた。

 彼女はすぐに目を逸らすと、響子にコーヒーを手渡した。すでにいつもの笑顔だった。

「……」

「それじゃあ、宇佐見君の全快祝いと行こうか」

「違いますよ! お祖父さん。今回の狩人事件に対する作戦会議ですっ」

 勝手に宴会にすり替わりかけていた趣旨を戻すDD。

「そうだったね」と頭をかく御影とDDを見比べながら、緋一は「そう言えばこの二人はじいさんと孫だった」と思い出した。DDはともかく、御影の方はそんな年齢には見えない。

〝不老〟のネクスタブル。響子の話の中に聞いた事実を思い出す。老いない人間。しかし目だけは朽ちていくのか、彼の顔には濃い色の眼鏡が掛かっている。

 この目が潰れるまでには、全ての情報をもみ消してみせる。掲げられた切なるタイムリミットに、この男の決意が凝縮されているように感じた。

「ん? 何か質問かい」

 色素の薄い瞳がこちらを向く。緋一は「いや」と首を振った。

「んー、甘いモノなんて久しぶりだよぉ」

 隣では響子が平和に感激していた。その向こうにもサクサクと軽快なBGM。幸せそうにクッキーを齧る白羽だ。

 DDもクッキーを手に取ると、

「そんなに美味しいんですか? 響子さんに言われた店、結構質素な店構えでしたけど」

「新市街口コミランキングナンバーワンなんだよぉ。DDも食べてみなって」

 薦められるままクッキーを齧るDD。途端、少女の顔がぱっと明るくなった。

「こっ、これは! ウィーンのパティスリーにも負けない味ですっ!」

「ね、ね。僕の情報は確かでしょぉ」

 満足げに覗き込む響子。

「って、新市街に行ってきたのか!?」

 緋一の吃驚がテーブルを覆う。え? と少女たちが顔を上げた。

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