3章 1
壁の小窓から光が差し込んでいた。まるで溶けかけのロウソクが放つような、空気との輪郭を曖昧にした光だった。
直線の筋から滲む光が、部屋の中をほの朱い色彩に染めている。夕暮れ間近の儚い時間。つかの間のぬるい静寂に落ちた空間は、時の狭間に取り残されたような静けさを纏っていた。
あたたかな日だまりの中に、少女は立っていた。光の筋の先を見下ろし、緩やかな表情で立っていた。
視線の先にいる少年は今も固く目を閉じている。ほんの数メートルも無い鉄格子の空間に、身を崩すように座っている。ヒビの入る壁に背をもたせて深く俯き、両足を投げ出すその様子は、とうに命を失くした骸のようにも見えた。
彼の右手首には手枷がはめられている。鉄の輪から伸びる太い鎖の先端は、壁の内側深くに埋めまれている。そして反対側の左手首には、点滴のチューブが差し込まれていた。
左腕用の手枷は、錠が開いたまま淋しげに床に転がっていた。
少女は両目を細めた。後ろ手に手を組み、いつくしむような微笑みを浮かべて少年を見下ろした。
約一年前にも、この部屋には同じような光景が存在した。溶けるような光の中、二人の人物が、彼らと同じ場所で息をしていた。
「……ねぇ、緋一君」
響子は軽く首を傾げた。鉄格子の内側にいる緋一は目を開けなかった。
約一年前、〝そこ〟に座っていた人物――大上響子は、彼と違って目を開いていた。
「……」
『……』
鉄格子の前に立っているのは、第一次自衛軍科学部門責任者の青年だった。
ボタンのとれた白衣は破れ、泥と砂と誰の物かも分からない血液に汚れていた。袖から覗く手首には、応急処置で巻きつけた布がそのままになっていた。
疲弊と空虚な諦観が混じり合った佇まいで、御影は立っていた。色眼鏡の奥に在る色素の薄い瞳は、居姿と同じ感情で鉄格子の内側を眺めていた。
両腕を手枷に縛られた少女。鎖はめいいっぱい縮められ、上半身が磔刑のように壁にはりつけられている。かくりと垂れた頭。ウェーブの髪は目茶苦茶にもつれ、吊り上げられた両腕の間でつぶれていた。
こぼれた毛先が撫でる胸元には〝特殊班〟の階級章があった。
御影の視線の先の少女は、第一次自衛軍の制服を纏っていた。戦闘の時の軍服ではない。平常行動時用のブレザーとスカートの制服だ。軍全体の規定では、ブレザーの内側には拳銃と予備弾倉を収めたホルスターを下げるよう決められている。特殊班に限っては重さを辟易して無視する隊員も多かった。響子も銃だけ携行していた。
しかし今、はだけたブレザーの下に銃は無かった。
内側に着こんだシャツは、誰かの血液で汚れていた。まるで吹雪のように散った斜めの血痕。すぐ目の前で誰かが血を噴き出した証だった。
血液の主を御影は知っていた。――姿とセカンドメモリーだけ、知っていた。
『……』
御影は目を瞬いた。ゆるゆるとした寂寞の光の先で、響子は変わらず頭を垂れたままだった。見られている事を認識しているのか、いないのか。ブツブツと独り言を呟き続ける様子からは分からなかった。
臨界突破の事実が、ただ、光の中に佇んでいた。
御影は白衣のポケットに手を入れた。カシャリと内側で撃鉄を起こし、取り出した拳銃を真正面へと向けた。
銃口の先を少女の額へと据える。真ん中で分けた前髪の間には、血液に染まったガーゼが張り付いていた。
御影の脳裏にその場面がフラッシュバックする。響子の爪に引き裂かれながらも、彼女の胸元へと突っ込んで行った少年。胸を裂かれ、腹を裂かれ、首を裂かれ、臓器を晒して血液をほとばしらせても彼は死ななかった。そして一瞬の隙をついて、響子の額目がけて銃をぶっ放した。
銃弾は間一髪で響子の額を掠めた。結果的に少年は響子を殺さなかった。が、確かにやるべきことはやった。響子の暴走を止め、クーデターを通り越した無差別殺戮を終わらせたのだ。
倒れた響子をここまで運んできたのは御影自身だった。特殊班員が残った一般兵を皆殺しにしていく最中、混乱に紛れて旧市街へと逃げるのは簡単だった。
彼女がこうなったのは、そして第一次自衛軍と新市街の一部が壊滅する羽目になったのは、御影の責任だった。視点を変えれば彼は何も悪くない。が、クーデターを起こし、特殊班員に全ての兵士の殺害を乞うたのは御影自身だった。
脳裏を巡ったほんの少しの過去に、後悔は九割九分無い。
ただ――
彼は銃を構えたままじっと佇んだ。
銃口を向けられても、響子が顔を上げる気配は無かった。俯いたままブツブツと呟く言葉は断片的にしか聞き取れない。精神を病んだ患者にしか見えなかった。
ボクハ マケタノ チガウ ボクハ ボクノホウガ
御影は銃口を、響子の額から胸元へと向けた。特殊班の階級章。対ブランダー要員として公式に自衛軍に属するネクスタブルの証だ。
この制度がこんな悲劇を呼び、そしてこんな結末に終わるなど全く予想していなかった。様々な事実と目論見が交錯した結果、御影はクーデターを起こし、響子は暴走した。クーデターは成功し、およそ百の兵士が死に、十三のネクスタブルが逃げ、響子は正気を失った。
『……』
長い長い沈黙――いや、御影の無言の時間が流れた。銃身から伸びる影は、響子の上で微動だにしなかった。
影が揺れたのは、彼が銃を降ろした時だった。
『あの少年は危険だ』
撃鉄を戻し、銃をポケットに入れた。
『……え?』
響子は呟きを止めた。
『彼のセカンドメモリー――超速治癒とでも言おうか。この力は危険だ。使いすぎると細胞分裂が加速度的に進行し歯止めが効かなくなる。ブランダーと同じだ。あの少年は死なないブランダーと化す危険性がある』
『危険……?』
『ああ。彼は監視下に置いておく必要がある。そして過剰発現や精神状態異常でセカンドメモリーが暴走し始めたら、完璧に飲まれてしまう前に彼を殺害しないといけない』
『殺すの?』
『彼が正気な内は手を出せない。彼が狂ってしまったら、ね』
響子がゆっくりと顔を上げた。虚無の濁りに染まってしまっていた瞳は、徐々に明度を取り戻し始めていた。
『それに、この件はまだ終わっていない。プロジェクトを知っていた兵士はほぼ全員封じられたけれど、特殊班の十三人が情報を持ったまま消えてしまった。彼らから情報が漏れてしまったら、どこでネクスタブル狩りが始まるか分からない』
『……』
『経亢進者の組織が及ぼす世代亢進抑制効果。この研究成果を抹殺してしまわない限り、ネクスタブルに平穏は訪れない。……周りの汚い事なんて考えずに研究に没頭してしまった私の責任さ』
御影は初めて唇を緩めた。自嘲の笑みだった。
『幸い私はセカンドメモリーのおかげで歳をとらない。この目が完全に潰れてしまうまであと五十年は猶予があるはずだ。それまでの間に、流出した研究成果をもみ消してみせる』
ボロボロの白衣を纏った背がすっと伸びる。響子はつられて視線を上げた。
『散ってしまった元特殊班員の捜索。情報流出ルートの抹殺。そのためには人数が必要だ。ひとまず孫娘をジュネーブから呼び寄せようと思う。彼女はネクスタブルじゃないけれど、色々と協力してくれるはずだ。他にもいくつか当てはある……でも、どう足掻いても少なすぎるんだよ』
『……僕は?』
御影はまなじりを下げた。
『君はだめだ、オオカミ――いや、響子』
あだ名から真名に言い換える。
『響子、クーデターで君は狂うほどセカンドメモリーを発現させた。その体はもう何度発現に耐えられるか分からない。君だって異常を認識しているはずだ』
『……』
『ただ、響子。君も私の研究成果を知っている一人だ。君を手放せば、君から漏れてしまう情報も懸念しないといけなくなる』
腕にはポケット越しに銃の感触があった。
『それに君はいい参謀だ。手放してしまうには惜しすぎる。だから君にはここに残ってもらうつもりだよ。行動内容上、否応なしに命の危険が伴うだろうから、きちんと護衛をつけてね』
『護衛?』
御影は頷いた。
『あの不死の少年は個人傭兵として活躍しているらしい。彼を捜して、君の護衛として雇い入れよう』
「だから僕はこうして、熱烈視線で緋一君を見張ってるのさぁ」
くすりと微笑みながら、響子は緋一に語りかけた。
「僕の最後のセカンドメモリーはねぇ、緋一君のために取っておいてるんだよ。今日か、明日か、何年先か分からないけど、緋一君が狂っちゃった時は僕の全てをかけて殺してあげる」
濁りのカケラも無い目で緋一を見つめる。
「僕はそのために生きてるんだ。緋一君に勝つために……〝敵になった緋一君〟ともう一度勝負して、今度こそ緋一君のセカンドメモリーを破ってみせる!」
響子は鉄格子を掴んだ。カシャン、と金属が動く音が壁に反射した。
「……今、薬が効いてるんだよねぇ。再生能力も今は封じられてる……。でも、そんな状態の緋一君に勝ったってイミが無いよぉ」
身をかがめ、まるで愛しい存在を見るかの如く目を細めた。
「僕が殺すのは、血まみれのウサギさんなんだから」
と、
「……つまりお前は、打算で御影についてるってワケなんだな」
響子は唇を持ち上げた。




