2章 16
ガリっ、と革靴のつま先が石塀を擦った。青年――佐倉はしまったと認識すると同時に、受け身を取って背中から着地した。短く刈り込まれた芝生の感触がシャツ越しにチクリと肌を刺した。
安全に着地したおかげで怪我は無い。立ち上がると、体に付いた芝生を払い落した。真っ先にガードした小箱は、確認するまでも無く無傷だ。
革靴の傷はどうしたのかと訊かれるだろうか。いや、それ以上にボロボロになったシャツの方が問題だ。銃弾に裂かれ、血液を浸み込ませたシャツは誰がどう見ても〝異常〟の証だ。
しかし服を着替えている暇も、靴を磨き直す暇も無い。佐倉はせめてと胸ポケットから取り出したハンカチで腕の傷を覆い隠した。
ぽつぽつと常夜灯が灯る庭を走る。家が何軒建つだろうと思えるほど広い庭園だ。セカンドメモリーを発現すればものの一瞬で突き抜けられるが、それすら阻まれるほど彼の体は疲弊していた。
あの少年のせいだ。挑発的な言葉、そして殺しても死なない不条理に煽られて自分を見失いかけた。佐倉は自責に顔を歪めた。あのまま彼を殺し続けていれば――この体と思考はどうなっていただろうか。
ざっ、と両足を止める。
「はぁ……っ……はぁ」
珍しく息が切れた。呼吸を整えながら見つめる先には、屋敷の離れのドアがあった。
呼び鈴を鳴らし、来訪を伝える。しかしドアの中から反応は戻って来なかった。
いつものことだった。佐倉は二呼吸だけ待つと、扉に手をかけた。
「っ?」
鍵が掛かっていない。この遅い時間だと言うのに。いつもと違う事態に、さっと不安が走り抜けた。
「明理お嬢様!?」
体当たりするように扉を開けた。
真っ暗な闇が視界を覆う。佐倉は壁際を手探りして電灯のスイッチを入れた。ぱっと拡散する光。一瞬目をつぶされたが、あの光に比べれば何ら障害ではない。すぐさま廊下を走り抜けた。
「お嬢様っ、どちらにおおせですか。お嬢様!」
部屋を一つ一つ確認しながら奥へと進む。庭にちょこんと建つ離れとは言え、普通の住宅と変わらない設備を備えている。名家の屋敷らしくゲストルームまであるくらいだ。
バスルーム、寝室、トイレ、ウォークインクロゼット、キッチン。どこを見ても少女の姿は無い。
最後の最後、廊下の最奥にあるリビングへと躍り込んだ。
「っ、!」
佐倉は目を見張った。
床に散らばったガラス片が、廊下からこぼれる光を部屋中に拡散させていた。
「……お嬢様!」
クリスタルガラスの輝きを踏み越え、佐倉はそちらへ走った。
倒れた飾り棚の前に、ワンピース姿の少女がうつ伏せに倒れていた。
佐倉は彼女――明理を抱き起した。固く閉じた目、乱れた髪。一瞬思考が硬直しかけたが、半開きの口からは静かな呼吸が漏れていた。
ほ、と佐倉は息をついた。少女は眠りに落ちているだけだった。
明理を腕に抱いたまま、佐倉はリビングをぐるりと見回した。低くなった視線に、テーブルの脚、ソファ、カーテンの裾が映る。その全ての配置が乱れ、すき間を埋めるようにガラスや陶器の破片が散乱していた。
「前駆衝動、か……」
呟き、顔をしかめた。
世代亢進が目前に迫った者に襲いかかる前駆衝動。これが激しく現れる場合、亢進は失敗へと進む可能性が高いと噂されていた。精神がアンバランスになり取り乱すのは、殺戮衝動の予兆なのだ、と。
しかし一方で『セカンドメモリーの発現強度を反映しているだけ』という噂もある。前駆衝動があるからと言って、必ずしもブランダーに変貌するわけではない。やはり、世代亢進は五分五分の賭けなのだ、と。
しかし佐倉にとっては、真相がどちらであっても取る行動は同じだった。
『ネクスタブルやブランダーの眼球には、世代亢進を妨げる効果があるらしい』。数年前、この屋敷の主人・本条覚が、雑談の折りにふとこぼした言葉だった。
自衛軍内で世代亢進研究が行われている事は、佐倉も屋敷に来る前から知っていた。自衛軍の中枢には研究者がいて、人々を世代亢進の不安から救うために抑制方法を研究していると。しかしその内容は極秘。旧市街の店で働く少年だった佐倉には無縁の領域だった。
一方本条家は、先代の頃より自衛軍の研究に対し資金援助を行ってきた。その関係で年に二度ほど軍人がやって来ては、満面の笑顔で覚に状況を報告していた。どんな内容か佐倉は知らなかったが、軍人が帰った後の覚の苦笑を見れば、真新しい前進が無いのは明らかだった。覚自身も気長に待つつもりのようだった。
彼は佐倉とよく雑談したが、研究の話題が上がる事はほとんど無かった。だからこの言葉を聞いた時がどんな状況だったかも思い出せない。ただ情報だけが濃く頭に刻まれていた。
名も知らぬ研究者が見出した研究成果。その事実が孕む大きなジレンマに誰も気づかないのだろうか。まだ少年だったその時に抱いた疑問は、今ではどうでもよくなっていた。
佐倉は十五歳の時に世代を亢進した。己の全てが掛かった賭けは、一応、成功の方へと進んだ。
しかし〝成功者〟へと変わってしまったせいで、佐倉は住み込みで働いていた店を追い出されてしまった。嫉妬と恐れにまみれた視線こそ、彼が亢進後に浴びた最初の攻撃だった。
もし人々が事実を知っていたら、彼らは喜んでこの目をえぐりに来ただろう。バッドエンドの光景はありありと頭に浮かんだ。
しかし自分は運が良かった、と佐倉は実感していた。こんな世の中に類を見ない幸せ者だ、と――。
佐倉がネクスタブルへと亢進した事実は、瞬く間にブロック中へと知れ渡った。それを聞きつけた店の常連が、佐倉に待ったをかけたのだ。
『待ってくれ。さ……佐倉君だよな。きみ、これからどうするつもりかい? 自衛軍に入隊するかな。それとも民間の組織……かな?』
息を切らしながら問うてきたのは身なりのいい紳士だった。まだ若い彼は確か、仕事の関係で新市街から通っていると言っていた客だ。そう、この頃はまだゴーストタウンなど存在せず、旧市街、新市街は単に街が重ねて来た歴史の話だった。彼のように地下鉄で通勤する者も当たり前のようにいたのだ。
佐倉が首を振ると、
『そうか。それなら……よかったら、きみがよかったらでいいんだ。ウチの娘の世話役になってくれないか?』
世話役? と首を捻ると、紳士は顎に手をやり、
『まぁ……その、執事と言うヤツなのかな。きみはレストランでの仕事も丁寧だったし、多分几帳面だ。きっと向いていると思うよ。それに……最近は新市街でも物騒が絶えないんだ。ネクスタブルのきみがついていてくれれば、娘も安心だと思ってね』
そんなネクスタブルの利用方法もあるのか、と佐倉は感心した。そして行く当ても無いから二つ返事で紳士の申し出を受けた。
『ただ〝執事をつける〟なんて言うには、ウチの娘はまだ幼すぎるかもしれないなぁ』
苦笑した紳士の呟きを実感したのは、誂え物の執事の衣装に身を包み、いざ屋敷に招き入れられた時だった。扉の向こうで待っていたのは九歳の〝お嬢様〟だったのだ。
少女は生意気そうな目で、見知らぬ人間である佐倉を見上げた。父である紳士に『おとうさま、おきゃくさまですか』なんて尋ねる辺りは、さすが幼くも令嬢だった。
『佐倉君だ。今日から明理の執事になってくれるんだよ』
『ひつじ? あなたひつじさんなの?』
少女の目がぱちくりと瞬いた。佐倉はどう反応していいか分からず硬直してしまった。
『おしゃべりできないの? ひつじさんならメェってなくのよ』
思わずメェと言いかけて、最後のプライドに慌てて止められた。
『つまらないわ。それにひつじさんはかわいくなくっちゃだめよ。ふわふわで、ぎゅっとだきしめるとあったかいのよ』
小さな人差し指が床に散らばる絵本を指差した。その中の一冊に、幸せそうな顔で動物を抱く子供が描かれた絵本があった。
『違うよ明理。執事さんだ。それにこの執事さんはとっても強いんだよ』
『つよい?』
『そうだよ。いざと言う時、ブランダーから明理を守ってくれるんだ』
少女が眉をひそめた。
『ぶらんだぁ、って、このまえおとうさまがゆってたこわいばけもののこと?』
バケモノ、という単語が佐倉の耳を突いた。無意識に繰り返していたのだろうか、紳士は参ったように苦笑して、小声で佐倉へ弁明した。
『娘にはまだブランダーに関して教え切れていないんだよ。あれが元は人だという事をなかなか理解してくれなくてね……。ひとまず怖い化物という事にしているんだ』
無理も無い事だ。こんなに幼い子供が理解できる現象ではない。
『まもってくれるの? ひつじさんが?』
『違う違う。ヒツジじゃなくて執事。佐倉君だ』
少女は顔を上げた。
『そんなになってまで私を守ろうって言うの? 佐倉』
「……」
佐倉は天を仰いだ。頭上ではクラシックなデザインのファンが、いつもと同じ速度でくるくる回っていた。
『そうまでして何で私を守るのよ。ねぇ、佐倉!』
「……お約束したではありませんか」
斜め上に浮かぶ回顧へと、佐倉は呟いた。
『さくらはわたしをまもってくれるの?』
幼い少女の声音は今も、時空を超えて耳に響いた。
『ばけものから、まもってくれるの?』
〝バケモノ〟から――
「……」
佐倉は小さく微笑むと、いまだ目を覚まさない明理を見下ろした。生意気そうだった少女は、その雰囲気を残したまま美しく成長していた。
少しだけためらった後、佐倉は明理の体を抱き寄せた。ぎゅっと抱きしめると、ふわふわしていて、そしてとても温かかった。
首元から聞こえて来る彼女の鼓動の音に、佐倉はしばらく耳を傾けていた。




