2章 15
「白羽ぁ、無理しなくていいってばぁ」
「大丈夫。もう痛くないから、宇佐見君ひとりくらい平気だよ」
肩越しに言うと、白羽はふわりと地面から飛び立った。
「先に研究所に戻ってるね。宇佐見君、早くちゃんと寝かせてあげた方がいいよね」
星が浮かぶ夜空を背景に、白羽がこちらを見下ろして来る。
「ああ。患部は右肺の上だから、仰向けに寝かせておいて」
彼女を仰ぎながら御影が言う。了解、と白羽が頷き、くるりと翼を翻した。
狩人に切り裂かれた翼。出血は治まってはいるものの、真ん中に走る裂け目は今も痛々しい色をむき出しにしていた。
響子が顔をしかめていると、
「DD、一足先に帰って手術の準備をしていてくれないか」
御影の足元でDDが振り返る。
「彼のようなネクスタブルに外科手術を施すのは実質不可能だ。超速治癒のセカンドメモリーが働いて、メスを入れる度に切り口が塞がれてしまう」
DDは頷いた。
「確かに、緋一さんのセカンドメモリーは自動発現みたいですからね。……当然ですね。生死に関係無い程度の怪我ならともかく、死亡状態でも発現できなければ意味が無いですから」
「反対に言えば、彼は自分の力を制御できないんだよ」
ピク、と響子が反応した。
反してDDの方は「そうですね」と受け流しただけだった。
「無意識下でも発現してしまうなら抑制措置が必要です」
「作業室の棚に試作品のサイレンサーが残っているから、それを使おう。核内メッセンジャーの阻害剤だから効果が出るまでにしばらく掛かる。先にその処置を済ませておいて」
「了解です」
DDは軽く頷くと、御影の傍らから駆け出した。
ぱたぱた揺れる白衣が建物の影に消える。
「……さっきは、わざと落ちただろう」
口を開きかけていた響子は小さく息を呑み込んだ。横目で彼を見る。
「白羽があんな風な失敗を犯すわけがない。彼女のセカンドメモリーには重力制御も伴っている。自分の周りの重力をコントロールした上で、翼の揚力を使って飛び上がる。翼が起こす気流だけでは自由飛行なんて不可能なんだよ」
御影は前を向いたまま続ける。
「彼女の独自重力は任意制御だ。だから彼女が〝共に飛び立ちたい〟と思えば、細胞はそれに答えて重力場を広げる。それに逆らって彼女の腕を離れない限り、落ちてしまうなんてあり得ない」
「ふぅん」
「白羽も下の喧騒に夢中になっていたみたいだからね……君からは完全に注意が逸れていた。その状態で彼女の腕の中から抜け出すのは簡単だったろう?」
彼は無表情に問いかけた。丸眼鏡の内側にある瞳は、やはり前を向いたままだった。
響子はからかうように頬を歪めた。
「……悪趣味ぃ。いったいいつから見てたのさ。ひょっとして最初から僕らをつけてたわけぇ?」
御影の前に回ると、小首を傾げて挑戦的に見上げた。
「緋一君の実力を、ハカセももう一度確かめるつもりだったの?」
御影は苦笑する。
「悪者みたいに言わないでほしいな。ここで君たちと出くわしたのは偶然だよ」
「ホント? じゃあDDがブランダーに追っかけられたのも知らないのぉ?」
すると御影は「え!?」と吃驚した。その見事な驚きっぷりを見れば、彼の話に疑いの余地は無いのは明らかだった。
御影は額を押さえて呻り続けていた。
「マグカップは諦めて一緒に帰るべきだっただろうか……でも、うーん」
「まぁ、いいよぉ。そのブランダーも狩人が仕留めたからさ」
御影の目がちらりと後ろを見る。闇の先、眼球を抜かれたブランダーの死骸が転がっているはずだ。
「狩人か……」
「って言うか、何で逃がしたのさ。狩人を捕まえる絶好のチャンスだったんじゃないのぉ?」
不服交じりに言う響子。
御影はふっと息をつくと、冷静な口調を戻した。
「我に返った彼と渡り合える者はいなかった」
「……」
「響子。君の乱入のせいで狩人は狂い切れなかった。彼は寸での所で宇佐見緋一の呪縛を振り切ってしまったんだ」
叱責する目が響子を見下ろした。
「あのまま狩人が狂っていれば、宇佐見緋一は勝利した。臨界状態に達し狂気に呑まれたネクスタブルはブランダーと同じだ。ただ衝動に従ってセカンドメモリーを爆発させる。一発の刃で殺し切れるかなんて二の次だ。宇佐見緋一はその隙をついて相手を倒す。――君が一番分かっている事だろう」
響子は答える代わりに、御影から目を逸らして淡く笑った。
御影がため息をつく。
「とにかく、冷静さを取り戻した狩人に敵うメンバーはいなかった。見送る事になるのは致し方なかったんだよ」
軽く目を閉じ、片手を振った。
「早く研究所に戻ろうか。遅くなると心配されるだろうからね」
「……」
続かない足音に、御影は目を開いた。振り返ると、数歩後ろの地面に響子が佇んでいた。
緩い風に、髪と、プリーツのスカートが揺れる。
「……狩人が緋一君を狂わせてたかもしれない」
御影は目を細めた。
「あのまま殺され続けてれば、緋一君は狂ってたかもしれない。やっと狂ってくれてたかもしれない」
下を向いた目には、憑かれたような光が宿っていた。
「僕だって、大人しくそれを待ってるつもりだったんだけどさぁ」
「……」
「狩人に取られちゃうんじゃないか、って考えたら……、じっとしてられなかったんだ」
御影はしばし沈黙すると、軽く肩をすくめた。
「本当に、君は呆れるくらい一途だね。響子」
言った彼の顔は、諦めたような笑みを浮かべていた。




