2章 12
すぐさま全速で駆け出す。が、超速移動のセカンドメモリーに、緋一の足など敵うはずが無かった。
狩人のスピードに慣れた目がコンマ数秒遅れで彼の姿を認識する。裂けたシャツの腕に滲む血液。その紅が鋭い軌道を描こうとしていた。
響子は立ちつくしたままだった。現実をどこかに忘れて来たような雰囲気のまま、ひどく緩い呼吸と共に、漫然と狩人の接近を甘んじていた。
両腕は体の横に垂れたままだった。
「響子!」
間に合わないと分かっていても、緋一は思いっきり地を蹴り上げた。
瞬間。
「うっ!?」
呻きを上げたのは青年だった。
響子の背後から突然、凄まじい光が拡散した。闇に落ちていた視界が一気に塗りつぶされ、青年は反射的に足を止めた。
「くっ……」
光に押されるように顔をそむける。瞼越しに襲ってくる強烈な光に彼は再度呻いた。
視界を拒む目を無理やり開く。薄目に捉えた前方に、少女はいまだ立ちつくしていた。
半開きの唇が何かを唱えた。
意にも介さず、彼女に向かって渾身の力で鉄骨を叩き込んだ。
湿った破裂音が青年の鼓膜を振るわせた。
「な……」
拡散する光の中に、血液と、粉々になった肉片が舞い散った。
白く爆ぜた背景に躍るヒトの残骸は、その頭部を無残に粉砕されていた。こめかみから叩き込まれた鉄骨が頭蓋骨を割り、脳を潰し、髄液を飛び散らせた。
鉄骨が反対側のこめかみから出て来る。太い血管と神経が金属の溝に引っ掛かり、ひらひらと揺れていた。光を浴びた骨の破片も、雪粒のようなきらめきで鉄骨の軌道を彩っていた。
青年は唖然としていた。
その死体越しに、殺すはずだった少女がこちらを見ていた。
いや違う。彼女も〝それ〟を見ていた。自分を守り、代わりに粉々に砕けた少年を見ていた。まるで他人事のような目で。あるいは内なる異常を強烈に押さえつけた目で。
「ひいち……くん」
少女が虚ろな声で少年の名を呼んだ。
ふっと光が勢いを潜めた。
「……」
ぺしゃん、と粘質な音が立ち、青年は我に返った。鉄骨に引っ掛かっていた少年の組織が地面に落ちた音だった。
遅れて頭部の潰れた体が、鈍い音を立てて地面に倒れた。最早、物体が崩れた音だった。
青年は無言のまま視線を下げた。不完全ながら元の暗順応を取り戻した視界に、自らが作り上げた事実が広がった。
上半分を失くした頭。頭蓋骨の淵からこぼれる脳。千切れた神経。砂礫を濡らす液体。
視界の端にはローファーを履いた足があった。
ハイソックスには肉片が付着していた。間近で少年の身を砕かれたのだ、彼女の全身はおびただしい〝彼〟の雨に襲われたはずだ。
しかし青年は目を上げて確認しはしなかった。脳漿の狭間に見た物体によって、彼の意識は瞬時に切り代わった。
すっと両膝を折り、端麗な仕草で手を伸ばした。
「その眼球は必要無いよ」
ぴくっ、と青年は肩を揺らした。
「進行度Ⅲの段階では、救済部位の投与は眼球換算で六個パーウィーク。週当たり三体分の眼球で亢進抑制閾値に達するはずだ。逆に過剰投与はレシピエントに依存症を発症させる可能性があるから、過度に与えないに越したことは無い」
青年は顔を上げた。そして学者風の口調で唱えた声の方向を見上げた。
対峙した少女の向こう。半壊した石階段の上に、白い影があった。
「それに、その彼の眼球を取って行った所で、一時すればすぐに彼の体に戻って行ってしまうよ。この直後にレシピエントに投与するなら別だけれどね」
「……」
青年は足元を見下ろした。鉄骨で打ち殺した少年は今も無残な死体のままだ。今までの再生速度を思えば、完全に死んでしまったと判断していいように感じた。
「緋一君は生き返るよぉ」
まるで頭の中を見透かしたかのように、少女が言った。
「こんなになっちゃっても、緋一君はちゃーんと生き返るよ。これがウサギさんの戦い方だもん。勝つまで死ぬに決まってるでしょぉ?」
青年が目を上げた瞬間、
「オオカミだって、それで負けたんだよぉ」
突き刺さった視線に、彼は心臓を噛まれたような慄きを覚えた。




