2章 9
「白羽、戻って!」
しかし白羽には届かなかった。目視を越えたスピードで彼女は青年に迫った。
翼の淵が狙うは彼の腕。眼球を収めた小箱を持つ左腕だった。
軌道の先から彼の輪郭が消えた。はっ、と白羽は息を呑んだ。
次の瞬間、翼から鮮血が弾けた。
「ぁああっ!?」
白羽の絶叫が響いた。
「白羽ぁ!」
とん、と革靴がコンクリートを叩いた。白羽はそちらを振り返った。
「っ――」
ぞわ、と剥き出しの肩に鳥肌が立った。
先程と同じ間合いの先に、青年は姿勢よく立っていた。左手には変わらず小箱。そして右手には、腕の長さほどの棒を握っていた。いつの間に手にしたのだろうか、白羽の血液を滴らせるそれは、足元に無数に落ちているねじ切れた鉄骨だった。
青年は右側だけの目で、滞空する白羽を見ていた。
「その速度で挑まれたら潰れてしまう」
屈むと、足元に眼球の小箱を置いた。
「……っ、な……」
白羽がうろたえた、次の瞬間、
「っ!?」
白羽はとっさに首を逸らした。
首元すれすれを通り過ぎた鉄骨を、彼女は目視出来なかった。代わりに強烈な風圧が彼女の細い首を横断した。
風に押されるように白羽は後退した。しかしそれもつかの間。はっと息を呑んだ直後、片方の翼に凄まじい衝撃を受けた。
「ああっ!」
ピンと張られた皮膚が真っ二つに断裂した。
緋一は唖然と目を開いた。
「っ……」
夜闇に散る血液が、頭に冷静な戦慄を走らせた。
あの男――狩人、ヒツジ。どちらでもいい。男のセカンドメモリーが何かは知らないが、凄まじい速度で移動している。そしてその速度を保持したまま相手に武器を振りかぶる。武器は何でもいい。薙ぎ払う速度が常識を超えていれば、ただの棒きれでも刃に変わる。
「ぅ……」
白羽が歪んだ唇から呻きを漏らした。
彼女も〝相手は飛べない〟と察したらしい。傷ついた翼を羽ばたかせ上空高くへと移動した。ただ翼のダメージは激しいのだろう。滞空しながら、時折がくりと体が揺れた。
青年はそれ以上追わなかった。
しかし彼の姿は今も、誰の視界からも消えたままだった。
「ど、ど、どこに行ったんですか」
DDが震えながら辺りを見回した。
「ねぇ……緋一君」
響子が呼んだ。幾分落ちつきを取り戻した声だった。
「……何だよ」
「狩人はもう一人狩って行くと思う?」
細めた目で彼女は尋ねた。
「昨日の四個じゃ足りなかった誰かのために、彼は今日も〝四個〟用意するのかな?」
不敵に歪んだ頬には、薄く冷や汗が浮かんでいた。
「……」
今まで守り続けて来た誰か。世代亢進の時が迫り、四個の目玉がもたらす救済では足りなくなった誰か。また一つ五分五分の賭けの瞬間に近づいた誰かのために、彼は一体、何対の眼球をえぐり出そうとしているのか――
「知るかよ」
素っ気なく答えた。
ふふ、と響子の含み笑いが聞こえた。
「そうだよねぇ。僕だって今まで、誰かのためにヒトを狩った事なんて無い」
何かの感情を抑えた声で呟いた。
そして、突然身を返した。
「ひっ!?」
吃驚したのはDDだ。響子の手が、DDの白衣をむしるようにはだけた。緋一はギョッと目を見張ったが、白衣の内側に下がっていた物体を見て全てを察した。
ショルダーホルスターから小口径の拳銃が引き抜かれる。
響子はそれを緋一へと突き出した。
「まさか、ブランダー専門とか言わないよね」
皮肉の笑みを含んだ瞳が言った。
「あの時、あれだけ容赦なく僕を撃てたんだから」
「……根に持ってんのかよ」
「そりゃそうだよぉ。傷跡も残っちゃったし」
分厚い前髪に隠れた傷跡が残像のように浮かび上がる。緋一は胸の中で舌打ちすると、響子の手から銃を取った。
「DD、予備のマガジンももらうぞ」
「え?」
彼女の反応を待たず、緋一は白衣の内側のホルスターに手を伸ばした。「ひ、ひゃぁっ!」と悲鳴が聞こえたが、無視してストラップから予備の弾倉を二つ抜き取った。
「さささ触りましたね! 変態!」
「は? 何かあったか?」
顔を真っ赤にして白衣をかき合わせるDD。しかし何も無かったというのは事実だ。
緋一は少女たちから顔を背けた。
「極力動くなよ、二人とも」
オートマチックハンドガンの安全装置を解除する。
「俺が狩人の的になる。あいつの注意が完全に俺に向いたら、お前ら二人は白羽を呼んで上空に逃げろ」
「ひ、緋一さんはどうするんですか」
DDの問いが背中に掛かる。
「どうする?」
緋一はちらりと振り返った。
怯えを精一杯に押さえつけた瞳が視線を迎えた。
「か……狩人の〝目玉狩り〟という行為は潜在的な脅威を孕んでいますっ。だから私達は彼の行動が巷に広がる前に速やかに彼を拘束しなければいけません。も、もしここで逃してしまったら……」
「要はここで捕えろって事だろ」
さらりと答えた緋一。DDは「えっ」とうろたえた。
「次、いつ会えるか分かんないもんねぇ」
響子がひょうきんに続け、緋一は軽く舌打ちした。
「俺だっていつまでもお前らの側にいたいわけじゃないんだ。だから護衛の仕事の一環として狩人を拘束する。これは俺の意思だ。ここで狩人を拘束しようが、お前らの組織の手先になるつもりはさらさら無いからな」
「なかなかデレてくれないねぇ。緋一君」
まいったなぁ、と肩をすくめる響子が視界の端に映る。その横では、DDがポカンと呆気にとられていた。
この仕事は早い所終わらせるべきだ。緋一は薄々感じていた。こいつらの正義の味方ぶった行動の裏には、きっと深入りしたら出られなくなる思惑が隠れている。そして――
これ以上、大上響子と関わり合うつもりも無い。
「来るよ、緋一君」
はっ、と顔を上げた。
ネクスタブルの細胞が放つ気配。次世代に成り得た者だけが帯びる不可視の旋律。
旋風のように突き進んで来たそれが、緋一の神経を一気にかき回した。
「!」
緋一は両手で銃を構えた。
そして、研ぎ澄ませた感覚が教えた先へと銃弾を放った。




