2章 5
「きゃっ」
白羽がビクリと身をすくめる。
続けて鈍い震動がコンクリートの壁を伝ってくる。箱の中のマグカップがぶつかりガチャガチャと音を立てた。
「ブランダーか!?」
緋一は椅子を蹴って立ち上がった。
「この揺れはそうだろうねぇ。近くをブランダーが全速力で走ってる。そんな感じ」
「近くにブランダーは出ないんじゃなかったのかよ」
響子は振り返らないまま流しの前の窓を覗き込んだ。くすんだ窓ガラスに目を細める彼女が映る。
「人口比率で考えたらここは安全地帯。でもよそからやって来ないとも限らないよぉ」
再び地揺れが壁を揺さぶる。緋一はバランスを崩しかけ、慌ててテーブルに手を突いた。バン! と大きな音が響く。
「……何でそんなに焦ってんのぉ?」
「いや、よろけただけだ」
「違うよぉ。緋一君じゃなくて外のブランダー。何でそんなに焦ってんのかなぁ」
え、と緋一は顔を上げた。
「この足音の感じ……何かを追いかけてるって言うより、何かから逃げてる感じがしない?」
白羽が呟いた。緋一は耳を疑った。
「ブランダーが、逃げて……?」
その時、地揺れの騒音の狭間に再び銃声が響いた。緋一の耳が反応する。ブランダーに備わった疑似銃器の発砲音では無い。耳慣れたアナログ銃の音だ。
窓へと走り、響子の横から外を窺った。
「銃を撃ってる奴がいる。でもこの銃じゃブランダーの装甲は破れねぇよ」
「へぇ、分かるの?」
「かなりの種類の銃を触って来たからな。外の奴が撃ってる銃は威力が弱すぎる。牽制は出来てもいずれやられるぜ」
こちらを向いた響子が感心したように頷いた。
「さすがは緋一君だねぇ」
「でも、変じゃない?」
後ろから白羽が挟んだ。
「銃を向けられたくらいで逃げ出したブランダーなんて、今まで見たこと無いよ。自衛軍がミサイルを向けた時でさえ……まるで敵を見つけたみたいに駆け寄って行ってたくらい」
確かに緋一も違和感を覚えた。銃口の先で怯えたブランダーは今まで一体もいない。
「それならこいつも、銃を撃ってる人間を追いかけてるって事か?」
緋一の問いに被さって、再び銃声が一発響く。
見知らぬ誰かが放つ銃声はどんどん近付いて来ていた。それに伴いブランダーの足音もこちらに迫っている。素直に考えれば、追われているのは人間の方だ。
緋一は響子の横顔を窺った。彼女は変わらず、窓の外をじっと見つめていた。
「……役者が二人とは限らない」
ポツリと彼女は言った。
「私、見てこようか?」
勝手口の前に走った白羽が問う。
「ううん、三人で行くよ。緋一君も来て」
「はっ?」
唐突に言われ、緋一は思わず響子を見つめ直した。
「いいから。行くよ!」
肩越しに振り返って急かすと、セミロングを振り回して勝手口へと走った。
老朽化した建物に似つかわしくない電子ロックの扉を開く。そして緋一が追求する間もなく、身を投げ打つように外へと走り出した。
「えっ、ちょっと響子ちゃん!」
慌てて続いた白羽のワンピースも、瞬く間に闇に消える。ほんの一瞬で、緋一はポツンと一人残されてしまった。
「な……」
しばらく唖然と、少女たちが消えた扉を見つめていた。
数秒後、はっと我に返ると、緋一も慌てて外へと駆け出した。
勝手口の扉をくぐり、そのすぐ先から伸びる長い階段を駆け降りる。研究所だという建物は急坂の傾斜に沿って作られているらしく、ほぼ最上階にあるダイニングから地面に到達するには相当な距離の階段を降りる必要があった。坂の多い旧市街に建つ建物としてはよくある造りだったが、坂を丸ごと一つの建物にしている物件は珍しい。
長い階段を降り切ると、緋一は後ろを振り返った。五階の窓から光が漏れる以外、全く人けのない建物が、すぐ背後に佇んでいた。
一週間もの間閉じ込められていた〝ゲストルーム〟は何階だろう。無意識に目を凝らして探していた。暗い窓の中に鉄格子を見つけられるわけも無く、地面から突き上げる振動ではっと我に返った。
「あっちか」
振り向いた先の視界は、夜闇と立ち並ぶ建物の壁に阻まれていた。
長年飽きるほど眺めて来た旧市街の夜。昼間わずかながら存在していた人の温度は消え、空気は微かな揺れさえ拒むほどに静まり返っている。
そしてコンクリートを隔てた向こう側では、招かれざる喧騒が湧き上がっていた。
ブランダーの耳障りな金切り声が聞こえて来る。耳を突いた叫び声は、確かに響子が言った〝焦り〟を滲ませているような気がした。
緋一は地面を蹴った。目線を上げると、空を進む白い影が見えた。白羽だ。
「響子! 白羽っ!」
白い翼のシルエットが建物の向こうに消える。
緋一は足を速めた。緩いジクザグの階段を駆け、路地を疾走する。カラカラに乾いたコンクリートの塵が蹴り出す度に音を立てた。
パァン! と鳴った銃声にビクリと身が震えた。すぐ近くだ。緋一は路地の出口で足を緩めると、建物の影から向こう側を窺った。
そこは見晴らし台のようになっていた。端の崩れた煉瓦がせり出し、先の方にはひん曲がった手すりが残っている。煉瓦の下は断崖なっていて、かなり高い視点から下の様子が見下ろせた。
煉瓦の足場には響子の姿があった。絶え間ない地響きにも構わず手すりから身を乗り出し、何かを捜すように下の景色を見下ろしている。
「……もしかしたら……」
呟きながら視線を景色に這わせている。小さな独り言には僅かながら、焦燥のような気配が窺えた。
緋一も手すりの前に立った。と、視線のちょうど先に白羽の姿が見えた。
突然響子が叫んだ。
「いた! 緋一君見てっ」
「えっ」
緋一は彼女の指先を辿った。