2章 3
「お、おいっ! 目玉ってお前もしかしてこれ!」
「しろわー、コーヒー入れよぉ。まだ温かいと思うからさ、早く食べよぉ」
流しの前から呑気に言う。白羽も、驚いた様子も無く椅子を立ち上がった。
確かに響子の言葉通り、紙袋の中身はじんわりと温かかった。
「食う気なのかよ! おい!」
焦燥しながら叫ぶ。
「ブランダーの目玉だぞ! そんなモン食えるわけが」
「追い詰められた人は食べるよ」
冷めた声が返って来る。緋一は息を呑んだ。
「世代亢進に怯える従来人類はそんな猟奇的な行為もためらい無く受け入れる。恐怖を拒むために何かを殺す。奪う。そしてむさぼる」
「……」
「今追いかけてる狩人の目玉狩りが何よりの証拠じゃない」
くるりと振り返った響子は、呆れた顔をしていた。
「もしかして緋一君、狩られた目玉がどうなるのか分かんなかったわけ?」
顔の通り、呆れ声でなじって来る。緋一は我に返って曖昧に頷いた。
響子はこちらへ歩み始めた。
「簡単だよぉ。食べればいいだけ。亢進の抑制に必要な部分は眼球全体に分布してるから、丸々一個食べちゃえばいいだけさぁ」
両手を広げて言う。まるで怪しげな預言者のように。
「狩人に守られてる誰かも、二週間に一度、四個の眼球を食べてる。ブランダーの眼球って言っても、見た目はヒトと変わらないよ。緋一君も知ってるでしょぉ?」
確かにブランダーの眼球はヒトのそれと同じだ。体は面影も残さず変貌――半生体機械と化してしまうのに、眼球だけは最後まで〝肉〟の要素を残している。
「狩人がどのくらい情報を持ってるのかは分かんないけど、二か月も狩りを続けてるって事は、生で食べなきゃいけない事は知ってるんだろうねぇ」
「な……生であれを?」
「そぉ。火を入れたら変質しちゃって効果が無いんだ。お肉と一緒だよぉ。焼いたら見た目も性質も変わっちゃう。だから目玉は生でいただきましょう」
すっと緋一の手から紙袋を取る。
「ブランダーの場合、悪くなるのも早いから新鮮なうちにねぇ」
口を開け、がさりと中に手を突っ込んだ。
「おっ、おい待てよ!」
「なぁにビビっちゃってんのぉ? これが初めてならなおさら、あったかいうちに食べようよぉ」
緋一の待ったを無視して袋をガサガサ探る。そして身構える緋一の目の前に、ずいっとそれを突き出した。
「はいっ、僕ら御用達のお店の目玉焼きサンド!」
目の前でほっこり湯気を上げるそれは、紙に包まれた大きなサンドイッチだった。
「……え?」
「なに? ホントにブランダーの目玉だと思っちゃったぁ?」
にやにや笑う響子。緋一は呆気にとられて眺めてしまった。
そして数秒後、
「響子! お前わざとだろ!」
「あはははー! 緋一君たら、まんまと引っかかっちゃったよぉ」
「もう、宇佐見君をからかっちゃダメだよ、響子ちゃん」
腹を抱えて笑う響子の向こうに白羽が現れる。手にはマグカップを三つ載せたトレイ。どれも熱そうな湯気を上げている。
「遅くなっちゃったけど、ようやく夕ご飯が来たね」
響子の代わりに詫びるように、白羽は緋一へ苦笑した。
「……お前らなぁ……」
体の力が抜けていく。へたりと背を背もたれにつけると、白羽が目の前のテーブルにマグカップを置いた。ボッテリとした形のマグカップには〝愛愛入浴!〟と書いてある。
「入浴?」
「あぁ、それはハカセの逃走土産! ニューヨークに逃げた時に買ってきたヤツだよぉ」
どこがニューヨークなんだ。普通NYじゃないのか。そう思いながらカップを見つける。
「ハカセったら海外に逃げる度にマグカップ買ってくるんだ。よく行ってるニューヨークはマンネリしちゃったみたいで、それ持って帰って来た時はすっごく嬉しそうだったよ。確かにニューヨークでダジャレ漢字はレアだよねぇ」
響子が笑いながらカップをつつく。呆れて声も出ない緋一へ、
「普通のデザインのカップがよかったら、他にもいっぱいあるけど……」
白羽は壁際にしゃがみ込むと、そこにあった箱をガチャガチャと探り、
「アムステルダムにオタワ……あ、ケープタウンは欠けちゃってる。日本が良いなら熊本とかどうかな」
同じような形のカップが次々と出て来る。どれもアイラブ○○のデザインだ。
「お前らのハカセって奴はどこまで呑気なんだ」
緋一は心底やるせない気分でため息をついた。
「そもそも逃走先で土産なんか買っていいのか? 隠れ家がどこにあるかバラしてるようなものだろ」
「大丈夫大丈夫。ハカセの隠れ家は世界中にあるから、今どこにいるのかなんて誰にも予想できないよ」
頬にアイラブコペンハーゲンのマグカップをくっつける。
「ハカセの趣味みたいなもんだから。でも場所食うんだよねぇ。御当地ピンバッチを集めてるDDの方がまだマシかなぁ」
「ディーディー?」
「ハカセの孫だよぉ。ほら、緋一君のDNAを鑑定した女の子。ここで一度会ってるけど覚えてないかなぁ」
記憶をたぐるが、紹介された覚えは無い。おそらく、響子に連れられて来た日に両側からタックルしてきた白衣の片方だろう。
しかしDNA鑑定が出来る孫がいると言う事は、件のハカセはかなりの年寄りなのだろうか。
「宇佐見君、カップ変える?」
覗き込んで来た白羽。
「あっ、いや……別に俺は」
「そう? じゃあニューヨークが宇佐見君のだね」
白羽はにこりと微笑むと、持っていたアイラブタシケントのカップを箱に戻した。
「白羽ぁ、洗い物なんて後にして、冷めないうちに食べようよぉ」
早くも椅子に腰を下ろし、サンドイッチの包みを開ける響子。
「いただきまーす」
口を大きく開けてがぶりとかぶりつく。たっぷりと塗られたケチャップが唇からこぼれかけ、慣れた風に指先で拭った。
「んん、やっぱり目玉は美味しいねぇ」
幸せいっぱいの顔でサンドイッチを味わう彼女を、緋一は横目で眺めていた。
並びの良い歯列に、鋭く尖った先端は見つからなかった。唇を撫でた指先の爪も、ネイルアートを楽しむだけの長さしか無い。
あの時血液をしたたらせた牙や、大気と肉を切り裂いた鉤爪はどこに行ったんだ。緋一は唇を噛む代わりに、視線を響子から外した。
そして自分の前に置かれたサンドイッチを見下ろした。
「今までの妙な栄養食に比べれば、最高のディナーだな」
「もぉ、素直に美味しそうだって言いなよぉ」
もぐもぐしながら横槍を入れて来る。
「別に緋一君に嫌がらせしてたわけじゃないんだってば。誰も料理なんてできないから無難に栄養食にしたんだよ。それがイマイチだったからって文句言わないでよ」
「それなら傭兵より先に料理人を雇え」
まだ何か言いたげだった響子だが、サンドイッチの方が大事らしい。口をつぐんでもぐもぐに集中し始めた。
緋一も、手にした包みを開いた。パンとベーコン、ケチャップ、そして目玉焼きのいい香りが立ち上って来る。一週間の間に手放しかけていた食欲が戻って来た。
響子にならって巨大なサンドイッチにかぶりつく。確かに美味い。そして油断した隙に垂れ落ちて来そうになる半熟の黄身が強敵だ。
ふと目を上げると、テーブルの向かいの白羽は別のサンドイッチを食べていた。薄い生地がロール状になったラップサンドだ。
緋一の視線に気づいた白羽。急いで口の中の物を呑み込むと、コーヒーで流し込み、
「こっちが良かった? サーモンとチーズのラップサンド」
「白羽はケチャップが苦手なのさぁ」
確かに白羽には豪快な目玉サンドよりも、何となくおしとやかなこちらの方が似合う気がした。
緋一が首を振ると、白羽はふふっと微笑んだ。
「私も料理は苦手だけど、コーヒーだけは入れられるんだよ」
片手に持ったマグカップを軽く揺らす。緋一の前のカップにもブラックコーヒーがなみなみと入っていた。
一足先に食べ終わった響子が、椅子に座ったまま背伸びをする。
「あー、久々のブレイクタイムだねぇ。美味しいコーヒーに美味しい目玉ちゃん。今日のマスタード加減も最高だったなぁ」
ぐーっと伸ばした両腕をふっと緩める。そのまま自分のマグカップを取り、熱いはずのコーヒーをごくごくと飲んだ。
「ただ、デザートタイムのスイーツはちょっぴりクセモノかなぁ」
彼女の両目がマグカップの淵で瞬いた。