1章 8
緋一は構わずブランダーを見上げていた。響子が叫んだ言葉は、緋一には聞こえていなかった。
ばっ、と地面を蹴る。高く跳躍した先には廃墟のくずれかけた柱があった。緋一はその先端を蹴り上げ、更に高くへ身を放った。
銃を構える。銃口を向けるはブランダーの頭部。
唐突に視界に何かが割り込んだ。はっと息を呑む。
擡げられたブランダーの右手から光と爆音が発射した。
「っ!」
右足に衝撃が走る。
砲台と化したブランダーの右腕から、続けざまに濃縮エネルギーの弾が発射された。今度は左の脇腹に軋みがのしかかる。ほんの一瞬だけ突き上げた激痛に、緋一は呻きを吐いた。
自分の血液が視界の隅に散っていた。
しかし緋一は構わず銃を構えていた。
まだ、届かないか――。そう思った直後だった。
「危ない!」
白羽が絶叫した。瞬間、緋一の側頭部をブランダーの腕が殴りつけた。
「ぐっ」
すさまじい勢いで地面に叩きつけられる。砕けた肋骨が背の筋肉を突き破るのが分かった。
慣れ親しんだ脱力感が瞬く間に意識を覆い尽くした。
「あっ、あ……きゃああああっ!」
白羽が悲鳴を上げる。薄く残る砂煙の向こうで、緋一はピクリとも動かなくなっていた。
「あーあ」
白羽に反して、響子は呆れた顔で肩をすくめた。
「やられちゃった。みっともないぞぉ、緋一君」
「きょっ、響子ちゃん!」
焦燥する白羽。しかし響子は動じる気配も無く笑ったままだ。
と、二人の前に影が落ちる。
「!」
見上げた白羽が目を見開いた。
ブランダーはいつの間にか、二人の前に立っていた。
ガシャリと音を立てて右腕が擡げられる。エネルギー砲を発射した砲口が、チリチリと煙の上がる深淵を露わにした。
白羽は背の翼を広げた。
「ダメだよ」
「っ」
響子を掴もうとした腕が、逆に彼女に押さえ込まれる。
「言いつけはちゃんと守らないと」
「で、でもっ」
キュイン、と鋭い音が立つ。白羽は再び前を向いた。
光をこぼし始めた砲口は、響子へと照準を定めていた。
突きつけられた砲口の前で、しかし彼女は変わらない顔で立っていた。
「撃つよぉ?」
彼女が誰かに呼びかけた、瞬間だった。
爆音が空気を激しく振動させた。弾ける閃光と爆風に、白羽は思わず地面に身を投げていた。
「……うっ」
ピリピリとした衝撃の余波の中に、誰かの呻き声が聞こえた。
「やっぱり緋一君はこうじゃなきゃ」
白羽ははっと顔を上げた。
そこには、半身を衝撃弾に削られた緋一が立っていた。
断面をさらした肩が鮮血のしぶきを上げる。
「血まみれのこの姿、一年ぶりだねぇ」
「……てめ……」
苦痛に歪んだ緋一の目が背後を睨む。彼の背にかばわれた響子は傷一つ負っていなかった。
「再会できて嬉しいよ、緋一君」
響子が微笑んだその時には、緋一の体は全てが元通りになっていた。
白羽は目を見張った。深く削られていた肩は見事に修復され、服の破れ目から見える肌には傷跡一つ残っていない。
残ったのは、凄まじい量の血液が弾けた痕跡だけだった。
「っ」
緋一は何も言わないまま前に向き直った。ほんの一メートルほど先に、煙を上げるブランダーの砲口があった。
緋一は間髪入れずに地面を蹴った。だんっ、と着地したのはブランダーの腕の上だ。
驚いたのか、ブランダーが身を揺らした。もう片方の腕で緋一を殴りにかかる。しかし既に次の跳躍に入っていた緋一を捕える事は出来なかった。
緋一は空中で、握りしめていた銃をくるりと回した。
「ビィィィィ!」
ブランダーが叫ぶ。メキリと音が立つと同時、砲台の無い左腕の装甲が鋭く隆起した。
刃のような棘皮が緋一の腕を貫いた。
「っ!」
照準を定めかけていた銃がガクンと下がる。皮一枚で繋がった状態の腕を見て、ブランダーは歓喜のような唸りを上げた。
緋一はそのまま落下し、地面に叩きつけられた。遠くに白羽の悲鳴が聞こえた気がした。
「……」
ズグっ、と何かの圧力が背から腹に突き抜けた。その直後、何の意識もしないのに体がふわりと浮き上がった。
砂に埋もれていた視界が明るくなり、地面がどんどん遠くなる。棘で串刺しにされたのか、と気付く頃には、棘の主の顔がすぐ目の前に迫っていた。
「ギィィ」
「……」
窓のようにポッカリと開いた眼窩の中で、剥き出しの眼球は笑っていた。
血液にまみれた獲物を見て、確かに笑っていた。
「……楽しいのか?」
「ィィィ」
「俺も、可笑しくてたまらないぜ」
「――?」
緋一の唇から血液がこぼれた。
「こんなバカなブランダー、お前くらいだ」
浮かべたのは嘲笑だった。
緋一は瞬時に銃を構えた。切られた右腕はとうの昔に完治していた。
ブランダーが身を引く暇などなかった。
銃口がブランダーの眉間を叩く。その瞬間、緋一は引き金を引いた。
「ッ!」
ぶっ放された銃弾がブランダーの頭を突き抜けた。
ゼロ距離射撃の衝撃が緋一の右腕をビリビリとしびれさせた。
ぐらりとブランダーの体が傾く。眉間に開いた貫通口から、血液の代わりに内圧ガスが噴出する。生温かい気体が緋一の視界に霞みをかけた。
背を貫いていた棘皮が力を失くすように収縮する。体から刃が抜ける気持ちの悪い痛みが全身の鈍痛に重なった。
地響きを立てて、死骸と化したブランダーが地面に伏した。撒き上がる砂煙には、先に死んでいたブランダーの灰も混じっているのだろう。鈍色の煙幕がゴーストタウンの一角を覆い隠した。
もうもうと上り立つ砂のカムフラージュを前に、少女たちはいまだ立ちつくしたままだった。
煙幕が晴れる時を待たなくとも、その中に立ち上がった人影を見つけるのは容易かった。
「……宇佐見君……」
白羽は丸くした目で少年を見つめた。
宇佐見緋一は無傷の状態でそこに立っていた。
ざくり、と彼の足が地面を踏む。右手に銃を携えたまま、彼は何も言わずにこちらへ歩き始めた。
白羽は戸惑い混じりに隣を窺った。そして――息を呑んだ。
響子の顔は明らかに歪んでいた。
何も知らない者が見ればただの笑みに違いない。ただ、知っている白羽には、笑顔の奥底に湧く歪な歓喜が確かに見えていた。
それが存在していたのもつかの間だった。
緋一の足が、響子の前でピタリと止まる。
響子は無言の緋一に向かってにこりと微笑んだ。
「ご苦労様ぁ。お見事だねぇ」
しかし、緋一は笑い返さなかった。
代わりに突き出した銃口が、響子の眉間の皮膚を叩いた。