プロローグ1
ソファに腰を下ろした少女は、じっ、とそれを見つめた。
上質なクロスの掛かったローテーブルの上には、銀のフォーク、スプーン、そしてつい先ほど差し出された大きな皿がのっている。
少女は皿の上の〝それ〟を見つめていた。
「これは……なに」
抑揚を沈めた問いが部屋に響き、窓を覆う重たいカーテンに吸い込まれる。
「眼球にございます。明理お嬢様」
平らな声がそう返した。
「っ!」
少女は椅子を蹴って立ち上がった。
振り向きざまに彼女は、傍らに立っていた青年の頬を思いっきりはたいた。
「もう嫌だって言ってるじゃないの!」
ボルドー色の絨毯に伏した彼へ怒鳴り付けた。
「それなのにどういうつもりよ、佐倉!」
青年は床から目を上げた。震える拳を眺めた後、自らの主人である少女の両目を仰ぎ見た。
憤りと嘆きの混じった瞳には涙がにじんでいた。
「わざとらしく転がっていないで、答えたらどうなの!?」
青年がわざと倒れた事など、彼女はとうに見破っていた。
彼はそれを気にした風も無く、絨毯から身を起こした。
そして彼女の両目に言う。
「お食べください、お嬢様」
ドクン、と鼓動が部屋に響いた。
鼓動の主である少女は、感情に濡れた顔を更に歪ませた。
「これを食べていただかないと、あなたは変わってしまわれます」
青年は淡々と述べた。
「進む先が悲劇か否かは、誰にも分かりません。しかしあなたは確実にその時の訪れを望んでいない。だからどうかお食べください、明理お嬢様」
「……っ」
逃げるように背いた視線は、当ての無い的を睨みつけていた。
この理不尽を差し向けるべき相手はどこにもいない。彼も彼女も知っていたし、心の底から分かっていた。
なぜ、ヒトは次のステップへと足を進め始めたのか。こんなにも不完全な道筋のまま、細胞の新たなる可能性を求め始めたのか。――二人は共に、誰も答えを知らない問いの被害者だった。
ただ彼の方は、そんな理不尽に揉まれようが、自らの役割を忘れはしなかった。バトラー服の襟を整えると、上質なシャツに包んだ腕を伸ばし、テーブルの上の皿を取った。コトリと立った音に、少女がピクリと身を揺らした。
皿の上には四個の球体が並んでいる。少し歪な球は彼が丁寧に洗ったおかげで一切の体液も付着していない。四つのうち一つは採取の段階で破裂を起こしていたようで、内側を満たすゲル状物質が滲出している。その点を除けば四つとも実に綺麗な状態だ。
「亢進失敗者の眼球にございます」
彼は皿を少女へと差し出した。
「継続的にお食べにならなければ世代亢進は回避できません。前回お食べになったのは二週間前です。今夜頃が時宜かと判断し、僭越ながらお持ちいたしました」
皿の上で、採取したての眼球は観念したようにじっとしている。
少女はしかし、今なお何も無い場所を睨んでいた。
「明理お嬢様」
青年は少し口調を強めて呼んだ。
すると、
「……何でなの?」
唐突な問いに、彼は出かけた窘めを呑み込んだ。
「何の事にございますか?」
「佐倉、あなた……ねぇ、何で赤の他人のあなたがここまでするのよ」
少女はあちらを向いたまま呟く。
「何でなの? 何でここまでして私を守ろうとするの? 自分の危険を冒してブランダーの眼を採りに行ったり、嫌だって言う私に食べさせたり……何でなのよ。そうする価値がどこかにあるって言うの?」
「……」
少女はふっと天井を仰いだ。据え付けられたクラシカルなファンが、彼女の視線の先で緩く回っていた。
〝解放してほしい。グロテスクな拷問はもう止めてほしい〟
――無表情な横顔に、果たしてその願いは存在するのか。
無言が落ちた数秒の内に、青年はその答えを否だと確信した。
〝助けてほしい。誰か、私をあんな運命から守ってほしい〟
間近に控えた世代亢進の幕開けを、本条明理は心の底から拒んでいる。
だから青年はこうするのだ。
「お答えしかねます、お嬢様。それよりも早くお食べください」
革靴が絨毯を進む。靴音を吸収する絨毯の先で、少女がカッと頬を紅潮させた。
しかし、
「……ぁっ……!」
罵声がこぼれるより先に、華奢な体がビクリと硬直した。
「ゃっ……あ……いや……!」
少女の顔が蒼白に塗り代わる。そしてまるで何かの予兆のように全身がぶるぶると震え始めた。両腕が自らの体を抱きしめる。爆発しかける爆弾をなだめるような動作だった。
青年は足を止めた。
「……明理お嬢様」
見開いた目が青年を向いた。
「どうぞ、お食べください」
皿を差し出す仕草は此度も、凛とした、静謐なふるまいだった。
しかし少女は違った。
長い髪とワンピースが躍る。佇む青年に突進せんばかりの勢いで迫ると、ためらい無く皿の上へと手を伸ばした。滑らかな肌に覆われた手が眼球を掴み取る。勢いで一つが皿からこぼれた。
彼女はそれには見向きもせず、夢中で手の中の眼球に齧りついた。ぷちゅり、と中のゲル状物質が吹き出して頬に付着した。
「ん……ぅん……っ」
咀嚼の狭間に、歓喜にも苦悶にも聞こえる呻きが漏れる。
獣のように眼球をむさぼる少女。青年は無表情にその様を眺めた後、床に落ちた眼球を拾い上げた。艶やかな球の表面には、香りのよいハーブの葉があしらわれている。彼なりの配慮のつもりだったが、少女がそれに気づいているかは疑問だった。
ただ、答えを求めるつもりも無かった。
ハーブを飾った眼球としばし目を合わせる。恐らくこれは左の眼だ。どちらの個体のものかおぼろげに見当をつけた所で皿の上に戻した。
姿勢を正し、緩やかな速度で絨毯を歩む。ほんの少しだけあった距離を詰めて足を止めると、青年の影に気付いた少女が顔を上げた。
「こちらもどうぞ」
淡く微笑みながら皿を差し出した。
不意に彼は、初めて彼女にそうした時の事を思い出した。その時はやむなく手の平の上だったが、もし近くに皿があったとしたら使っていただろうか。執事としての最低限の礼儀なのだから――いや。
結局、無理矢理食べさせたのだから礼儀も何も無い。
自分自身に軽く失笑すると、彼は、皿の眼球を掴んだ少女へ微笑みかけた。
緩やかに笑う彼の左目には、眼帯が掛かっていた。