第841話 スランプ
「すんません・・・少し飲みませんか?」
「うん?」
「あ?」
始まりは、こんな一言だ。問いかけたのは、ソラ。問われたのは瞬と翔だ。特に瞬にソラが述べていた。そうして暫く時が空いて、冒険部の業務終了後の夜。男三人でギルドホームのバーではなく、西町の酒場へとやって来ていた。
「・・・ふぅ」
ソラがことん、ととりあえず一杯呷ったジョッキを置く。中身は安い酒だ。一応、日本でも2020年代中頃に成人年齢の引き下げがあって18歳から飲酒喫煙は可能なのだが、彼は年齡を考えれば本来は駄目だ。
が、エネフィアでは異種族の関係で未成年の飲酒は可能なので、そこはお目こぼしされていた。その代わり喫煙は皇国では一切合切が違法だ。なお、カイトは居ないので彼が出せる最低限の金で賄った酒だった。
「で、珍しいな。お前が飲もう、なんて言ってくるなんて・・・」
同じようにジョッキを置いた瞬が問いかける。大抵こういう場合飲みに誘うのは瞬が多い。こう見えて彼は面倒見が良いので、時折後輩たちを誘っては飲みに行く事も多かった。
勿論、皇国での法律に照らし合わせて合法だ、という事を教師に説明しているし、教師達もそういうことなら、と飲みに連れて行ってくれる者――彼らも何時か教え子と飲みたい、という気持ちはあったらしい――はそれ相応に存在していた。
その流れで、ソラも誘われるのだ。その次に誘うのはカイトだろう。彼の場合、ちょっと小洒落たバーを教えてくれる大人な形でが多い。
「うっす・・・すんません、わざわざ・・・翔も悪い」
「いや、良いって・・・たまには、カイト抜きってのもアリだろ」
翔が笑いながら、少し照れくさそうに頭を掻く。先にも言ったが、この場にはカイトは居ない。彼が参加しない事が、前提だったらしい。というわけで彼が忙しい時を見計らって、声を掛けたのであった。
「で、わざわざカイト抜きにしたからには、何か理由があるんだろう?」
「うっす・・・」
瞬の問いかけを受けて、ソラが少し、今彼に起きている問題についてを語り始めるのだった。
少しだけ、時は遡る。それは大陸間会議が終了して少しの事だ。ソラは相変わらず今日も今日とて冒険部の運営代行に精を出していたわけなのだが、そこで、一つの問題が起きていた。
とは言え、それは表向き、誰にも悟られる事は無かった。何故か。それはその問題が起きるのは何時も夜だからだ。由利さえ――多分――知らない事だったのだ。
「うわぁ!」
ソラが跳ね起きる。身体は寝汗でぐっしょりで、呼吸はかなり荒かった。
「あ・・・はっ・・・はっ・・・」
ソラはシーツを握りしめ、呼吸を整えていく。ずっと、消えない。一度まぶたの裏側に焼き付いた『それ』は彼の精神を病んでいた。
「はぁ・・・」
大体5分程。それで、ソラの呼吸が穏やかになる。そして、彼は後に倒れ込んだ。
「ふぅ・・・っ」
倒れ込んで目を閉じて、ソラはしかし網膜に焼き付いた『それ』から逃れる様に目を見開く。
「・・・なんなんだよ、あれ・・・」
ソラがぼやく。幾夜経ても、幾日経ても、『それ』が消えない。怖い。ただただ、怖いという感情しか残されていなかった。
「あ・・・」
ソラの手が震える。敵うわけがない。あんな『化物』を相手に戦いを挑もうと思う方が馬鹿。そんな感情が、彼の身体を支配する。そしてそれ故、今の彼は立ちふさがった壁の大きさに剣をいつも通り握れなくなっていた。これが、彼に起きている問題だった。
「っ・・・」
壁に掛けた皇帝レオンハルトから下賜された綺麗な剣に手を伸ばそうとして、しかし、その僅かな所で彼の手が止まる。剣に手を伸ばしたその瞬間、網膜に焼き付いた『それ』が姿を現すのだ。
「う・・・あ・・・」
響くのは、嘲笑する声。世を嘲笑う道化師の声だ。一撃で現代でも大国の威信の掛かった最新鋭の艦隊を数多破壊した過去のカイト達の敵。この世で最も強いとされる化物の中の化物。彼では到底抗いようのない最悪の壁。それはただ目の前に現れただけで、少年の心を挫くには十分だった。
「・・・はぁっ・・・はぁっ・・・はぁ・・・」
ソラが呼吸を整える。手には取れる。心が挫けたのと、心が折れたのは違う。まだ、ソラの心はなぜか、折れていなかった。だから、絶望には沈みきっていない。
「・・・ふぅ・・・」
ソラが剣を手に、脱力する。勝てない。勝てるわけがない。己が勝てる姿が想像出来ない。どれだけ頑張っても、あれは遠く及ばない。当然だ。『人間』が『嵐』に逆らう出来ない。それと同じだ、と心の奥底が理解していた。
立ちはだかったとて軽々と吹き飛ばされ、その行手にある建物なぞ簡単に破壊される。海の上ならば、逃げる事も許されずに海の藻屑と消えるだけだ。人にできるのはただただそれに畏怖して逃げ惑い、嵐が遠ざかるのを待つ事しか出来ないのだ。相手は厄災と一緒なのだ。抗う術が手に入れられないのだ。
「・・・はぁ・・・こえぇよ・・・なんであんなのに立ち向かえるんだよ・・・」
ソラは恐怖に涙を浮かべ、親友の事を思う。彼は幾度となく、敗北を経験してきた。それだけは純然たる事実として、記されている。彼らの事を書き記した子供らが読み聞かせてもらう華々しい英雄譚や詩人たちの歌う叙事詩、なるべく事実に忠実を記した文献にだってこう記されている。
勇者は何度膝を屈してもその度に立ち上がった、と。『死魔将』達にも何度も敗れ去ってきたのだ。カイトも認める事実だ。であれば始めは今の彼と同じく、絶望に膝をついたはずなのだ。そうでなければならない。同じ『人』である以上は、だ。
そうであるにもかかわらず、彼らはどうにかして立ち上がった。そして最後には『死魔将』達を上回り、世界に平穏を取り戻してみせた。
まさに、勇者の代名詞。折れぬ心を胸に、巨悪へと立ち向かっていく英雄。彼を勇者と賞賛せねば、この世の誰も勇者と賞賛されない勇者の代名詞たる存在だ。
「・・・飛び越えられない壁、ってどうやって飛び越えたんだろうな・・・」
ソラには、ここに来て何時もわからない親友の心が尚更わからなくなった。それもこれは呆れたりする方向での理解不能ではなく、ある種の尊敬が滲んだ畏怖を伴った理解不能だった。自分とは格が違う存在。そういう異質感を感じていたのである。
彼らは今まで、どれだけ高い壁だろうとあくまでも乗り越えられる程度だった。絶望的なまでに高い壁は見たことがなかった。それ故、それに挑み、ついには乗り越えられた英雄がカイトなのだ、とようやく実感したのであった。
「・・・はぁ・・・」
ソラは剣を再び壁に立て掛けると、再びベッドへと戻る。しかしどれだけ悩んでも、答えは出なかった。そうして、瞬達への相談へと行く事になるのだった。
話は再び酒場に戻る。そういう話を、瞬と翔はソラからされていた。
「で、先輩は壁に挑み続けてるってか・・・世界で戦ってた人なんで、そこんとこどうしてるのかな、って・・・」
「いわゆる、スランプってやつか・・・」
「まぁ、そんな所」
翔の言葉にソラが内情を明かす。だから、カイトでは駄目だったのだ。彼はあまりに光り輝いている。彼の言葉は正しい様に思えてしまうのだ。
が、これはそれでは駄目だった。正しいと思えるが故に、駄目なのだ。己の答えを見つけ出さなければ、決して挫けた心は立ち上がれない。スランプからは抜け出せない。他人に手を引かれて立った所で、また同じ事の繰り返しだ。
道化師が現れた瞬間、彼は再度恐怖に囚われる。今度は折れてしまって立ち直れないかもしれない。見ない様にするのも勿論手だ。もう己の前に現れるはずはない。そう思えば良い。だが、そうはならないだろうな、とも思っていた。それを、心の何処かで感じていた。
「壁、か・・・」
瞬は今までの自分の中でも、特に地球での事を思い出す。彼は先年日本人としては初となる世界ジュニアオリンピックのやり投げで金メダルも取ったが、そこまでが順風満帆、全戦全勝だったわけではない。
初めて出た公式大会では緊張や様々な失態から下位層だったぐらいだ。その時の上位入賞者や優勝者は今ではお互いに認め合うライバルだが、あの当時味わった挫折感や感じた層の厚さは一度彼が槍を置こうと思ったぐらいだった。
そして素直に明かせば、彼の中学時代のコーチの投槍の腕を見て未だに勝てないと思っている。まぁ、これは相手が伝説の英雄であるクー・フーリンというある意味有り得ない相手なので仕方がなくはある。
「・・・確かに、物凄い高い壁だった、と感じた事はある。だった、だから今は過去だが、その当時は凄い高い壁に見えた」
瞬は過去を思い出す様に、語り始める。決して、平坦な道のりだったというつもりはない。何度も、挫折を味わった。師匠に恵まれた、とも思っている。
自分の大会に向けた天桜学園のスタッフ達の支援へ感謝を忘れた事はない。記録そのものは己の腕で出したが、決して己一人の力で成し遂げられた偉業ではない、と思っていた。
「そうだな・・・俺が一番初めに感じた壁は、60メートル超えだった。知っているか? ジュニア女子のやり投げの記録。その日本記録は60メートル超なんだ・・・笑えるだろう? 今では90メートルまで後少し、という俺が、オリンピック入賞を確実視されている俺が、女の記録にさえ及ばなかったんだ」
瞬が笑う。卑下しているつもりも、自慢しているつもりもない。ただ懐かしい過去として、受け入れられていた。そうして、彼はまだ自分が槍投げを始めた頃の事を、思い出した。
「中学の1年の時だったかな。京都のある陸上競技場でやり投げを教わっていた俺は、まぁ、こう言っちゃあなんだが少し驕っていた。元々運動神経は高い方だ、と思っていた。赤枝コーチ・・・この間来てくれたクー・フーリンさんのやり投げ・・・と言っても当時はジャベリックスローという子供向けだったんだが・・・まぁ、彼に憧れて始めて、たった数ヶ月の新人戦で入賞したしな・・・で、新人戦も終わって少しして、クー・フーリンさんから本格的なやり投げを教わって、これは、と思った一槍が出たんだ。会心の笑みを浮かべた。これはもしかしたら世界とまでは行かなくても、非公式でジュニア記録に残るクラスなんじゃないか、とさえ思った」
瞬が笑う。勿論、そんなはずは無かった。だからこそ、彼が挫折を感じたのだ。
「記録はな、58メートル42センチ。忘れられないよ・・・確かに良い記録だった・・・でもな、その後にコーチに言われたんだよ。おぉ、あと少しでジュニア女子の記録に届くじゃねーの、ってな。正直、茫然となった。全力を出し切った。全てが完璧に行けた。そう思ったのに、調べてみれば女子の日本記録のトップテンにも届いていなかった。ギリギリ、女子の学生記録に乗った程度だった。勿論、男子学生の記録には程遠かった。20メートル近くあった」
瞬は楽しげだ。少し酒も入っているからなのだろうがそれでも苦い記憶だ、と受け入れていた。そして、瞬は続けた。
「十分に凄い記録ではあったそうだ。それだからコーチも俺に自分の全部を教えてくださったらしいんだけどな」
正式なやり投げの記録が無いのでなんとも言えないが、瞬の当時の記録はおそらく中学二年生の男子が出す記録としては十分すごいと言って良いのだろう。そもそも高校生の時点で大人の大会での入賞を確実視されているのだ。この時既に頭角を現していた、と言う方が相応しい。
ちなみに、彼の地球での最後の記録である90メートル弱という記録もそもそもで大人と変わりがない。世界でのトップテンが90メートル以降である事を考えれば、高校三年生の時点でそれに迫るというのは十分に凄い記録だった。つまり、まだ彼には伸びしろがあるからだ。
なお詳しくはソラは知らなかったが、世界のジュニア記録を塗り替えた、だそうだ。日本記録も勿論、塗り替えている。世界中が驚き、だからこそ、マスコミが何度も訪れる程だったのである。
「それから、必死でやった。だが後1メートル50センチが、どうしても越えられなかった。俺の身長にも満たない小さな壁のはずなんだ。追い風一つで覆る様な壁のはずなんだ。そう、思った。それどころか落ちる時の方が多くなって、焦った」
何処か懐かしげに、瞬が己の陥ったスランプを語る。自分の身長にも及ばない小さくて、大きな壁。それが、彼の一番始めに経験したスランプだった。そうして一呼吸空いた事で、ソラが先を促した。
「で、どうやってそれを越えたんですか?」
「ああ、それがな。肩の力を抜いただけだ」
「・・・へ?」
「変に力みすぎていた。スランプも2ヶ月ぐらいした頃か・・・これで記録を抜けなかったら引退しよう、と思って最後の一投に臨んだんだ・・・これが最後、と思うと妙に気が軽くなってな。そうしたら簡単にこの間の記録を抜いた。60メートルまで後一歩。で、続けてその気持でやっていると、あっという間に60メートルを越えたんだ」
周囲は暗くなり、ほぼ泣き顔にも近い顔で最後の一投を手に取ったそうだ。そうして今までを振り返り、これが最後の一投だと理解した時、気が軽くなったらしい。
「人間、追い詰められるとニパターンに分かれるだろう? 焦る奴と、冷静になる奴。どうにも俺は追い詰められると逆に冷静になる性分らしくてな・・・いや、諦めか。もう無理だろう。そう思って、肩の力を抜いたんだ。とは言え、完全に諦めると付き合ってくれたコーチに悪い。だから教わった事だけを完璧にやってみるか、と思ってそれだけに集中してみたんだ。すると、変に入っていた力が抜けたらしい。あっという間に自己ベストを1メートルも越えた」
肩の力が入りすぎた。スランプに陥った者に特有の切迫感や焦り、強迫観念だろう。それを、彼は感じていたらしい。そして後が無くなって失うものが何も無くなって、肩の力が抜けたようだ。
「で、コーチに言われたんだ。どうして越えられたと思う、ってな。わからなかったよ」
「で、答えは?」
「成長しただけ、だそうだ。当時は成長期だったからな。2ヶ月で5センチ程身長は伸びて、筋肉もついて体格も当時よりずっと良くなっていた。よくよく考えても見ろ。中学二年生のガキが大学女子の記録に届こうとする方が馬鹿だ。届かないのが当然。それに届かせようとした方が馬鹿。そう、言われたよ」
ソラの問いかけに瞬は楽しげだった。当たり前といえば当たり前の答えに、瞬はぽかん、となったらしい。が、それはそうだろう。相手はその当時の彼よりも遥かに長い間修練をしてきているのだ。勝てても困るし、今の瞬だって同じ年頃の奴に記録を抜かれても困る。
そして現に、瞬はまだ成長途中故に大会での入賞を確実視されていても、優勝は確実視されていない。成長途中の瞬が完成により近いプロの選手達に勝てる道理は無いのだ。思えば、当然の話なのである。
「なぁ、ソラ。『死魔将』達ってのは、俺達が勝てる相手なのか?」
そもそもの疑問を、瞬が提示する。相手は少なくとも400年以上は修練を行ってきた相手なのだ。それに届かせようとして届くのか。疑問があった。
「俺達は強くなる事が目的でやっているわけじゃない。俺達の目的はあくまでも地球に帰る事、だろう?」
「・・・うっす」
「強くなるのは副次的な目的だ・・・奴らが何が目的なのか、というのは俺にも・・・」
「・・・どうしたんですか、先輩」
「あぁ、いや・・・気のせいか。すまん。大きな音が聞こえた様な気がしたが・・・何かが落ちただけなのかもな」
唐突に押し黙った瞬に翔が訝しんで問いかけたが、瞬が少し照れた様に首を振る。言われたソラも翔も訝しげだったので、聞こえなかったのだろう。そうして、気を取り直した彼は再び続けた。
「奴らの目的が何か、というのは俺にはわからないし、カイト達の考える事だろう。だが、少なくともカイト達を敵に回す程の覚悟はある・・・はずだろう。その覚悟を胸に、300年修行してきた。俺達が敵う相手であるはずがない」
勝てる敵。勝てない敵。勝てるはずの無い敵。勝てるはずの敵。瞬はそういった相手を見極めていた。
「奴らは、勝てるはずのない敵だ。やれて、俺たち全員で挑んで届かせるぐらいだろうさ。一人で戦おうと思うお前が馬鹿なだけ、って所だ」
「・・・酷いっすね」
「だが、道理だろう?」
「・・・まぁ」
ソラも瞬の言わんとする所は、理解した。今までは勝たなければならない、と思っていたが故に重く考えていたが、そうではないとするのなら、気は楽になった。そうして、少しだけソラの気が軽くなって、男子会は更に続いていく事になるのだった。
お読み頂きありがとうございました。なお、瞬の新人戦というのはジャベリックスローの事だとお考えを。彼は高校入学後に備えてクー・フーリンから独自に大人向けのやり投げも教わっている、というわけですね。
次回予告:第842話『男子会』




