第649話 滝行 ――その成果――
暦が精神鍛錬を開始して2度目の滝行の開始前の休憩時間。暦は当然だが、カイトの顔を見る度に、真っ赤になっていた。
「あうあうあう・・・」
「はぁ・・・」
「あっははは! まあ、いいじゃん! 丁度言っていた通りに修行になってさ!」
どう言い訳したものか、と悩むカイトに対して、ジョシュアが真っ赤になる暦に大笑いする。ちなみに、カイトの言い訳の対象は当然、この後帰った時の剣道部の一同に対してだ。このままではあらぬ疑いを掛けられかねない。
と言うか、確実に妖精達がそういう方向に持って行く。妖精達をよく知るカイトはそれを懸念していた。と、そんな事を考えているカイトの横で、暦がジョシュアから茶化されて顔を更に真っ赤に染める。
「うぅ・・・」
「とりあえず、カイト。何か感想でも言ってあげたら?」
「ひゃ!」
「いや、この期に及んで辱めさせんなや・・・」
「あいたっ!」
ぎょっとなった暦に対して、カイトがジョシュアの頭をデコピンで弾き飛ばす。不運なことに今の彼は小型だ。なので大きくのけぞるどころかそれなりの距離を吹き飛んでいった。
「あ、ちょっと! 今先輩と二人にしないでください!」
「うぐっ! け、結構強引だね・・・」
吹き飛んでいきそうになった――と言うか事実吹き飛んでいった――ジョシュアを強引に暦が引っ掴んで停止させる。彼が吹き飛んでいけばそれは即ち、今の現状で暦はカイトと二人っきりになるのだ。それには耐えられなかったらしい。
ちなみに、一応念のために言えばジョシュアにもあの姿を見られていたわけなのだが、彼は子供と思われているのか完全にスルーだった。
「はぁ・・・暦、今度はしっかりとシャワー室に入ってから、声を掛けること」
「ごめんなさい・・・」
真っ赤なままの暦が下を向いたまま頷く。顔は合わせられないらしい。さらに言えば今回は暦の失態だ。なのでカイトに抗議するわけにもいかず、というやり場のない羞恥心を抱えるしかなくなったのであった。そして当然だが、こんなミスがあった所で、精神鍛錬は終わらない。
というわけで、二人は少しの気まずい雰囲気を抱えながらも、30分程暖を取りつつ休憩を行う。ちなみに行衣はシャワー室が繋がっているので、カイトに手渡して乾かしてもらった。
「じゃあ、もう一回。今度はより難しくなるのは、わかるよね?」
「うぅ・・・もう思い出させないでください・・・」
真っ赤な暦はまっかなまま項垂れる。ようやく忘れ始めていた頃なのだが、ジョシュアはだからこそ、思い出させたのである。なるべく平静を欠いた状態だからこそ、この精神鍛錬に意味があるのであった。
「じゃあ、もう一回。あ、一応言っておいてあげるけど、僕にもカイトにも、身体がカチコチに固まってるぐらいわかってるからね? もし今日一日の出来が悪かったら・・・」
「悪かったら?」
「明日にはカイトに目の前についてもらおっかな」
ジョシュアの言葉に、暦がぼんっ、という擬音が良く似合うぐらいに一気に顔を赤らめる。湯気でも出てそうだった。当たり前だがあの姿をずっと凝視されることになるのだ。羞恥心は考えるだけで一気に沸騰しそうだった。
「あはは。じゃあ、頑張って肩の力を抜いてね」
「はぁ・・・」
難しい事を言うな、とカイトはため息を吐いた。まあ、わかってやっているのだから、仕方がないだろう。そうして、カイトは真っ赤になった暦を横目に、自らは滝の中に入っていったのだった。
二回目の滝行だが、流石に一度目の様に何か失敗が起きるということもなく、修行は進んでいた。
「・・・」
「・・・」
流石にジョシュアもカイトを茶化すのに飽きたらしく、終始無言だった。が、無言で居られたのは、二人だけだ。横の暦はカチコチどころの騒ぎでは無かった。
「・・・あれ、石になってないかな」
「・・・うーん・・・性格の問題と羞恥心が結構、だからなー」
二人はガッチガチに固まっている暦の気配に、ため息を吐いた。やはり先程のあれを意識してしまっているらしい。とは言え、こればかりは、彼女が折り合いを付けなければならない事だ。なのでアドバイスも出来ず、二人はただただ滝に打たれる事にする。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
「・・・暇。滝に打たれるだけってつまんない」
「おいおい・・・」
沈黙が暫く続いた後に出た言葉に、カイトがたたらを踏む。流石にこの言葉は可怪しいだろう。そもそも滝行とはこうやって滝に打たれるだけだ。何かをするわけではない。
「よくこんなの出来るねー、二人共」
「やれやれ・・・こうやって世界の気配を感ずるのは妖精には不向きか」
「まぁねー。と言うか僕らの場合普通にやってても感じられるもん。意味ないよ」
「人間様はそういうわけにゃ、いかないんだよ」
こういった何もせずにただ精神集中を、という訓練はそれ故に精神が鍛えられるわけであるが、だからこそ、向き不向きが分かれてしまう。そして妖精はこういった精神集中は苦手だった。どうしても集中している人を見ると、いたずらをしてしまいたくなってしまうのである。
「さっきの一件さえなければなー」
「おいやめろ」
「何も言ってないじゃん」
「言わんでも分かる」
「じゃあ何さ」
「暦の行衣をなんかしたい。それであわよくばその状態の暦をオレの前に出してオレを慌てさせたい」
「ぐぅ・・・」
ジョシュアはどうやら正解である事を言う為に、敢えてぐうの音を出したようだ。ちなみにそのなんか、までは考えてなかったらしい。出てから考える、との事だった。そうして、そんな慣れた様子のカイトに、ジョシュアが不満気に口を開いた。
「はー・・・やだやだ。これだから慣れた奴は・・・」
「慣れる程やった奴らの一人の台詞か」
「ぐぅ・・・」
カイトのあまりの正論に、今度は本当にぐうの音が出たらしい。まあ、言うまでもなく慣れるまでいたずらをしたその悪戯の大半を仕掛けたのは、この里の住人達だ。つまり、その一人には当然ジョシュアも含まれていたのである。
そうして、再び暫くの間。数回に分けて二人は滝行を行っていたのだが、ふと、異変に気づいた。異変と言っても悪い意味の異変ではなく良い変化、だった。
「・・・あ」
「気づいたか?」
「うん。大分と固さが取れたみたいだね」
二人は感じる暦の気配の中に、少し前まであった固さがほぐれているのを気付く。ただ単に集中出来た事による一時的な物なのだろうが、それでも固さは無かった。
「さて・・・まあ、これでとりあえずは固さが取れたわけだが・・・その次に到れるかは、また別問題だな」
「力を抜く、って意外と重要なんだよね。力が入り過ぎると、固さとなる。適度に柔らかく。暦のおしりみたいに?」
その瞬間、二人は暦がぴくり、と動いた事に気付いた。どうやら滝の音に紛れて掻き消えそうな二人の声が僅かにだが聞き取れているらしい。
「さあ? あながち胸みたいに結構張りがあるのかもよ?」
「あー、それもあり得るねー。どっちだろ?」
「見ないでくださいよ!」
二人の会話に反応して、暦が真っ赤になりつつ声を上げる。案の定、聞こえていたらしい。
「ああ、やっぱり聞こえてたのか。重畳重畳」
「へ・・・?」
真っ赤になって滝から出てカイトに詰め寄った暦だが、そこで驚きを得る。なんとカイトはいつの間にやら細長い布を使って目隠しをしていたのである。カイトに動いた様子は無かった。つまり、はじめから暦の方は全く見えていなかったのである。なお、彼に目隠しは無意味だ、とは言ってはならない。
「聞こえただろ? この程度の声の大きさでもな」
「あれ・・・?」
近寄って耳元で言われたカイトの言葉に、暦がはっとなる。声の大きさは、先ほどと変わりはない。だが、普通に話し合うぐらいの大きさの声でも彼女にもはっきりとカイトの言葉の意味が理解出来た。無意識的に、滝の音を頭が除外していたのである。
とは言え、これは滝行の成果というよりも、彼女の今までの訓練の成果が花開いた、という方が正しいだろう。カイトはただ単に扉を開いてやっただけだ。
「もともと、基礎は出来ていた。ならば後は扉の前まで案内してやればよかっただけだ」
「そう・・・なんですか?」
「ああ。当たり前だろ? 言っちゃあ悪いが滝行如きでそんな成果が現れてたまるかよ・・・っと、一度出るぞ。どうせ殆ど聞こえてないだろうからな」
「あ、はい」
カイトに促された暦は、とりあえず聞こえている内に滝から出る事にする。どちらにせよ今は耳元で声を出してくれているから聞こえているのであって、滝に戻ればすぐに聞こえなくなる事は請け負いだ。そうして、二人は一度身体を冷やさない為にシャワーを浴びて、暖を取る事にした。
「まあ、そういうわけで・・・さっきのが、所謂明鏡止水の心、という所か」
「はぁ・・・」
「わからんか・・・まあ、致し方がないか。水の一雫。その音を聞き分けるのが、所謂明鏡止水の状態だ。今は違うがな」
わかった様な分からない様な顔をしていた暦に対して、カイトが例を上げて説明する。
「そうだな・・・実は先輩・・・一条会頭が、これの状態に入る事が出来る・・・と言っても、彼も物凄い修行の果て、だがな」
カイトは少しだけ過去を思い出しながら、瞬についての言及を行う。彼はあのリィルからの指導の後。必死で明鏡止水の状態を身に着けていた。まだ完璧ではないし、彼の場合は闘争心を抑えるのが精一杯だ。
だがそれでも極稀には、この領域に立てる様にはなっていた。そして立った状態の瞬は、強い。リィルが遜色なくそう明言していたほどだった。
「所謂、ゾーンの事ですか?」
「スポーツ選手達が言うそれに似ている。と言っても、そこまでの集中状態じゃあない。僅かに下、全てが見えた状態だ・・・そうだな。いわば、世界と一体化する感覚だ。自分が歯車ではなく、機械全てになった感覚。水の一雫。鳥のさえずり。風の音。そう言った物にさえ、どんな状況でも意識をやれる状態だ」
カイトはそう言うと、何ら気負い無く、偶然に舞い込んだ花びらを右手の二本の指で挟んでみせる。
「風の流れ・・・明鏡止水に達すれば、戦場でさえそれさえも感じられる。感情に呑まれるではなく、止まった水の如くに穏やかに。喜怒哀楽。それら全てを内に秘める。爆発させるのは、行動の一瞬のみ・・・ここに至る事が肝要だ」
カイトは穏やかな様子で、花びらを放す。離された花びらは次の瞬間に吹いた風に煽られて、何処かへ飛んでいった。カイトには風が吹くのが、見えていたのである。
「更に極めれば、未来予知にも近い事も出来る。自然が、次に起きる現象を教えてくれる・・・と言っても風が吹く、とかそう言う程度だがな・・・そして、最後には・・・」
カイトが刀を取り出して、立ち上がる。そうして、深呼吸を一つで、居合い斬りを放った。
「世界さえも、自らに力を貸してくれる」
「・・・え?」
「うわぁ・・・」
見えた光景を、暦が遅れて理解する。起きたのは、空間断裂。まさに、空間が裂けていたのであった。あまりの現象にジョシュアでさえ頬を引き攣らせていた。
「上泉 信綱って知ってるか?」
「え、あ、はい、もちろん・・・」
いきなりのカイトの問いかけに、暦が頷く。彼女とて曲がりなりにも剣道を嗜んでいるのだ。その開祖とさえ言える上泉信綱の名を知らないはずが無かった。
「これは彼の流派の基礎の基礎。神陰流・・・あ、新しい方じゃなくて、神様の神の方な。あの人、自分で字が違うだけの流派を興してるからめんどくさいんだが・・まあ、その基礎の<<転>>という技巧を使った斬撃だ。これはいわば、明鏡止水の最終到達点と言える」
「・・・え? もしかして・・・今の、単なる斬撃・・・なんですか?」
「ああ。ただ単に斬っただけだ」
ただ単に斬っただけ。それで起きた現状に、暦が絶句する。これが、明鏡止水の最終到達点。世界と一体化する感覚を得てついに世界の流れさえも感じられる様になると、その流れさえも体得する事が出来る様になるのである。
「あはは。その顔は良く分かる。オレも初めて見た時にゃ、思わずぽかん、と開いた口が塞がらなかったからな」
「は、はぁ・・・」
「ま、まあでも、今の暦なら、あそこまでは行かなくても、余分な力を抜いて斬撃を放てる様になっているはずだよ? 試しに一度居合い斬りを放ってみて?」
同じくぽかん、と口を開けていたジョシュアに促されて、暦はカイトから刀を借り受けると、更に彼が創り出した藁人形の前に立つ。
そうして、先ほど得た感覚を手がかりに、心を落ち着かせていく。やはり刀という得物を得られたが故か、滝行の時よりもはるかに落ち着いていた。
「ふっ」
暦は自らがここだ、と思った瞬間に居合いを放つ。すると、藁人形は綺麗に両断された。と、そうして両断してから、はたと気づく。何も変わっていないのだ。今の修練を積んだ彼女であれば、刀を使えば簡単に藁人形なぞ綺麗に両断出来てしまったのである。
「・・・あれ? よくよく考えたら、これ、普通にも出来るんですけど・・・」
「ほう。面白い事を言うな。ほんとにそうか?」
「はい?」
カイトの言葉に、暦が小首を傾げる。何時も出来ている事を今回もやったに過ぎないのだ。何か変わった感覚は無かった。と、そんな暦に対して、ジョシュアが告げる。
「刀。よく見てみて?」
「え・・・あ・・・」
ジョシュアに言われて再び刀を抜いた暦だが、そこで気付いた。刀身はボロボロで、刃は錆びていた。こんな状態では普通は切れないだろう。よしんば切れたとしても、藁人形がここまで綺麗な断面になることは無いだろう。
「肩から余分な力が抜けて、速度が段違いに上がっていた。更には魔力も洗練されていた。であればこその結果だ」
「はー・・・」
まさかこんななまくらで斬ったとは、と信じられず、暦が生返事を返す。そうして、とりあえずの実感が湧いた事で、暦は二人に対して頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「気にすんな。これが、オレの役割だ」
「僕はカイトに頼まれただけだしねー」
暦に感謝を示された二人は、それを気負い無く受け入れる。と、そんな二人に対して、暦がおずおずと切り出した。
「いや・・・あの・・・お恥ずかしい話なんですが、お二人が全くおふざけでやってたのかなー・・・と、疑っちゃってました・・・」
「おいおい・・・」
暦からの暴露に、カイトが少しだけ苦笑を浮かべる。まあ、今までの訓練の中身を見ていればそう思っても不思議は無いだろう。とは言え、こんな極僅かな時間でさえ結果が出ては、今までの自分の非を認めるしかない。そうして、暦は更に一段上の感覚に足をかける事が出来る様になったのであった。
お読み頂きありがとうございました。
次回予告:第650話『一段落』




