第647話 滝行 ――開始――
暦の精神鍛錬の為、『ミストレア大滝』のある異空間の中にまでやって来ていたカイトと暦、そして妖精族戦士長のジョシュアだが、異空間の中を歩き始めてから10分ほどで、川が見えてきた。
「川?」
「あはは。何処から、というのは聞かないでね。何処からとも無く、流れてきてるんだから」
「そうなんですか」
ジョシュアの言葉に、暦はそういうものなのだ、と受け入れる。彼女は結構頭が柔軟だった。
「後はこの川に沿って行けば、目的地にたどり着けるよ。後20分ほどかな。あの森を越えた先が、目的地だよ」
ジョシュアは指で川の先を指し示す。そこには先程から見えていた森があったが、その先が、目的地なのであった。
「ということは、この先に崖があるんですか?」
「うん。そういうこと・・・じゃあ、行こっか」
暦の問いかけに答えたジョシュアが、再び移動を開始する。なお、ここには魔物は居ない。少し前にソラ達がミナド村近くの森に展開した結界よりも遥かに強力な効力を持つ力がここには展開されているらしく、魔物は生まれるどころか並の魔物では近づく事も出来ないらしい。まさに、天然の結界だった。
「あ・・・ここで、途切れてる・・・あれ・・・うわー!」
森を抜けて暫く歩いた所で崖に辿り着いて、暦が下を覗き込んで驚きの声を上げる。下は雲が掛かったかの様に、何も見えなかったのである。
ちなみに、何時もは霧が晴れてその下にある花園が見えたので、どうやら今日は天候としてはいまいちらしい。残念ではあるが、訓練には支障は無かった。
「どれ位あるんですか?」
「下? えっと・・・」
「エンジェル・フォールと同じぐらいだから、約1キロだ。ここはな。とは言え、途中で何段かになっているからな。霧にはならない」
ジョシュアに代わって、カイトが答えを送る。だが、それも何処か含みを含んで、だ。そうして、彼は下を覗き込んでいた暦の肩を叩いた。
「あっち、見てみ?」
「あっち? わあ!?」
カイトに指さされて、ようやく暦が気付く。かなり離れた所だが、霧が出来上がっていたのである。そして、暦が立ち上がってその全貌を確認して、思わず、息を呑んだ。かなり遠いはずなのに、見渡しても全貌が見えなかったのである。
「うわー・・・あの、どれぐらい広いんですか?」
「さあ? 測った事は無い。が、少なくともイグアスの滝ぐらいはあるし、更にはあっちはもっと高い所にある。あれが、『ミストレア大滝』の本流だ・・・が、今日は残念ながら水の勢いが良いらしいな。全貌は拝めそうにないな」
「え?」
カイトからの言葉に、暦が驚きの声を上げる。これだけでもすごいのに、まだまだこれで全部では無いらしい。
「ホントは、あっちの向こうの崖から見れれば最高なんだがな」
「向こうの崖・・・?」
カイトの言葉に、暦が自らが立つ崖の先を確認する。だが、そこには何も見えず、ただモヤが掛かっていた。
「だから言ったろ? 今日は少々具合が悪いって。実は向こう側にも滝があってな。落ちた水で隠れちまってる」
「え・・・? あれ、雲とか異空間の端っこじゃないんですか?」
「あれも、滝。分かるか? どれだけデカイか・・・あ、一応言っとけば上は雲であってる。多分今日は勢い良すぎて雲と霧が合併しちまってるんじゃないかな」
暦が上を見上げて、しかし、その先が見えない事に唖然となる。少なくとも富士山ぐらいの高さはありそうだった。
「まあ、とりあえず。今日は諦めて、修行に入るぞ」
「あ、はい!」
カイトの言葉に、暦は改めて気を引き締める。今回は景色を見に来た観光ではないのだ。修行の為に、来たのである。そうして、カイトは再び暦をお姫様抱っこの要領で抱きかかえる。
「まずは、少し落ちるぞ。水しぶきで滑らない様に、しっかりと捕まってろ」
「はい」
流石に暦も生命が懸かっている。恥ずかしいだのなんだのを抜きにして、カイトの首に手を回す。そうして、カイトはそれを確認すると、そのまま崖から飛び降りた。
「どれぐらい下りるんですか?」
「2段目だ。上からじゃあ少し見えなかっただろうが、そこが一番良いんだ。少し広めの段差になっていて、滝の後ろ側にはちょっとした空洞があってな。休むにもちょうどいいし、昼寝にも最適だった」
「あそこに色々と持ち込んでるの、君ぐらいだよ」
落下速度を制御しながら、カイト達三人は少しの間雑談を行う。そうして、3分ほどで、お目当ての2段目とやらに辿り着いた。
そこは上からは確認出来なかったが少し奥まっていて広さは50メートル程で、見れば少しの間誰かが何かをしていたらしい形跡が見えた。
「うっわ。当時のまんまだ」
「そうなんですか?」
「あの金属製の箱。オレの使ってた休憩セット。色々な小物入れとか間の更衣室みたいなのとか、色々と入ってるんだよ・・・また来るつもりだったから、そのままにしてたんだよなー・・・大方、あいつらも回収し忘れてた、とかか」
カイトは自らの残していった痕跡を懐かしげに観察する。幸いにして小箱には特殊な加工が施されていたおかげで風化もしておらず、中身も無事そうだった。
「うっわ。300年前の骨董品。なっつかしー。これでよくルクスとマシュマロ炙ってたなー」
カイトはどうしても抑え切れなかったらしく、休憩セットを収納した小箱の蓋を開けて、中身を確認する。そこには様々な品が収められていたようで、300年前のコンロの様な魔道具から仮眠用の簡易ベッド、食事を取れる簡単な机、果ては携帯用のトイレまでも存在していた。
「うっわうっわ。こんなのも入れてたっけ・・・いや、これはルクスだな。オレの趣味じゃねーや。こっちは・・・ああ、ウィルのか。名前入ってるな」
「おーい、カイトー。そろそろ修行始めるよー」
「あ、ワリィワリィ。懐かしかったからつい、な」
ジョシュアの言葉を受けて、カイトが少し照れ笑いを浮かべながら過去の遺物の確認を切り上げる。そうして、カイトが帰って来た事で、更に下を覗き込んでいた暦がジョシュアに問いかける。
「どんな訓練するんですか?」
「だから、滝行だよ。ただし、これ着てね」
「え?」
今までとは別の意味で、暦が目を瞬かせる。それは嘘だろう、という言外の意見を含んでいた。と、言うわけで、暦はすぐに真っ赤になって却下した。
「そ、そんなの着て水の中に入ったら見えちゃいます! 見えなくても身体のラインが!」
「だから、それに慣れる訓練だよ。だから、わざわざカイトに来てもらったんだしね。僕も居るから、襲われる心配も無いでしょ。カイトの場合、襲うとか無いけど」
ジョシュアが掲げていたのは、滝行をする者が着ている着物タイプの白い行衣と呼ばれる服だった。しかも結構な薄手である。暦の言うとおり、これを着て滝行なぞ行えばかなり扇情的な格好になることは確実だった。が、ジョシュアの狙いはそれだった。
「カイト。どうせだから君も本来の姿で滝行してってよ。それなら、暦ちゃんがどんな格好でも見えないでしょ?」
「あー・・・そういうことね」
カイトとて滝行をしている間に不埒な感情を抱く事はない。そう言った邪念を振り払う為の滝行だ。それでは意味がない。と、そうして納得していた二人に対して、暦がおずおずと進言する。
「なんでこんな事する必要が・・・それに、どうせやるんでしたら、先輩がまた女の姿を取ってくれれば・・・」
「何故って・・・君に今最も必要な物を得るために、だよ。今、滝行を始めても、暦は絶対横のカイトが気になって集中なんて出来ない。だからどんな状況でも集中出来る様に、心を凪のごとく穏やかに保つ訓練、というわけ。同性だとどうせ同じ女だから少しぐらいは良いかな、って思っちゃう。それじゃあダメでしょ? 別に僕も何かいたずらとかで言ってるんじゃないんだよ」
「うっ・・・じゃあでも別に先輩じゃなくても・・・」
いたずらか何かなのでは、と事ここに至っても思っていた暦だが、ジョシュアから帰って来た真面目な答えに、思わず何も言えなくなる。そうして、僅かながらも反論をしてきた暦に対して、ジョシュアが首を振った。
「だからこそ、カイトなんだ。カイトの本来の姿は僕らも認める程の美丈夫。それに裸体を見られるかも、っていう恥ずかしさはひとしおだよ。でも、敵にだってイケメンは居る。そんな相手にパンチラだなんだ、って恥ずかしがって戦えませんではダメなんだ。暦はそれを抑えこむ術を学ぶべきだよ。君が学ぶべきは、明鏡止水の心。女を捨てる必要はない。君が女の子である事は僕らもよく理解している。だから、敢えて裸で、なんて言わない。ただ、戦いの時は戦いだけに集中する精神を身につけないといけないよ」
「・・・はい」
ジョシュアから叱責にも似た言い方をされて、暦がうなだれつつもその提案を受け入れる。少し前の藤堂との模擬戦でも、これは如実に現れていた。彼女は藤堂が自らの策に乗った事を見て、意図せずに思わず笑みを零してしまったのだ。それは旭姫からも治す様に注意されていた。彼女としても理解はしていたのである。
「うぅ・・・」
「まあ、見ないから安心しろ、というのも暦に対して悪い発言っちゃあ悪い発言なんだろうが・・・んー、かと言って見ても劣情を催しません、というのもダメか・・・えっと・・・」
「と言うか、見て襲わない方が自信無いじゃん」
「あのな・・・幾らオレでも同意も無いのにするかよ・・・えっと・・・だから、あー・・・」
「ぷっ・・・いえ、良いです。わかりました。やります」
なんとかフォローを掛けようとしてくれたカイトに対して、暦が苦笑気味に意を決する。それを見て、カイトは一つ頷いて、彼女の為に更衣室の用意をすることにする。
「・・・わかった。じゃあ、少し待ってろ。更衣室を用意してやる・・・えっと、どこにあったかな・・・三人分はあるはずだから・・・まさかあの馬鹿共これだけ持ち帰ったりしてねぇよな・・・ああ、あったあった」
カイトは小箱をガサゴソと漁って、中から小さめの箱を取り出す。そうして、彼はその中から幾つものパイプを取り出すと、手際良く何かを組み上げていく。
「これで最後に布を被せれば・・・はい、簡易更衣室の出来上がり。仕切りはそれなりに分厚いとは言え単なる布だから、コケたりすんなよ? 布外れて流石にその場合はモロ見えになっちまうからな」
「あ、ありがとうございます。気をつけます」
暦はカイトから着替えた服を入れる籠を受け取ると、出来上がった簡易更衣室の中に入って、着替え始める。その間に、カイトはもう一つ簡易更衣室を組み上げて自分はその中に入って着替え始めると、分身を創り出して冷えた身体を温める為のシャワー室を組み立てていく。
こちらは中に収められていたテント型の魔道具だった。流石に色々と魔道具を使わないといけなかったりするので、組み立て式には出来なかったのである。更衣室については滝行に来るのが男だけだったので、別にこれで良かったのであった。
「うぅ・・・やっぱり恥ずかしいなー・・・あれ? もしかして・・・」
カイトがシャワー室を作る音を背後に聞きながら着替えていた暦だが、ふと、一つのことに気づいた。それは服を着替えるのはまあ濡れるからなので致し方がない、と理解していたのだが、下着についてだった。
「あのー・・・」
「何? もしかして、やりたくない?」
「あ、いえ・・・その、下着は・・・?」
「え? 下着って着けない物じゃないの?」
きょとん、と目を丸くしたジョシュアが首を傾げる。当たり前だが、滝行をすれば下着も濡れる。なので必要が無いか、と思って用意していなかったのである。
「え・・・?」
「あれ・・・? カイトー。君、下着どうしてるー?」
「あー? オレ普通に履いてるぞ? 防水性あるからなー」
「あー・・・」
カイトは何時も白い行衣だけを用意させていたので履いていないのだと思っていたが、よくよく思い返せばカイトの下着もレミィのお手製――普通は男性用は作らないのだが特例により――だ。濡れても水が染みこむなんてことはない。水中戦を考えての対処だった。
「まあ、無しでもいいんじゃない? 幸いそこまでスケスケになるわけじゃないからね・・・多分」
「そんな・・・」
自信なさげのジョシュアに対して愕然となる暦だが、無い物は無い。無い物ねだりは厳禁だ。さらに言えば濡れた下着でここからスカートを履いて帰るわけにもいかないし、よしんばこちらで乾かすとしても、乾かす間はノーパンノーブラになってしまう。
しかも悪いことに乾かすのはカイトだ。つまり、彼には自分の履いているパンツを預けた挙句にそれをじっくりと観察してもらう羽目になるのである。どっちもどっちだった。
ちなみに、カイトは旅の癖というか経験から女性用下着を持ち合わせているが、そこを知らない二人ではどうにも指摘出来るわけがない。ということで、無いと思ったままだった。
まあ、それはさておき。ここまで来てはもう後に引けない。なので暦は意を決して、白い行衣だけを着て更衣室から外に出る。すると、そこにはすでに道着型の白い行衣――カイトの物は厚手で下が見えるなんてことはない――を着たカイトが待っていた。
「うん。じゃあ、カイト。流石に先に入ってあげてね」
「わかってるよ」
後から入れば暦の濡れた姿が丸見えだ。それでは意味が無い。なのでカイトは先に入って後に出る事になっていた。つまりは、協力してくれるカイトの方が辛い内容になっていたのである。
これを理解していたからこそ、暦も強くは断れなかったのであった。そうして、カイトが先んじて、滝に打たれ始める。
「じゃあ、暦ちゃん。頑張ってね」
「はい」
女は度胸。それを胸に、暦は意を決して一歩を踏み出す。そうして、彼女もまた、カイトに並んで滝行を開始することにするのだった。
お読み頂きありがとうございました。
次回予告:第648話『滝行』




