第1758話 ルクセリオン教国 ――転――
これはカイトの主観的な時間にして、およそ二年前。彼がある程度の神陰流の基礎を学んだ頃の事だ。彼は師の信綱より、一つの講釈を受けていた。
「……良し。合格だ」
「……ふぅ。ありがとうございます」
基礎のおおよそを学べたと見た信綱が課した課題を突破したカイトが、額の汗を拭って一つ頭を下げる。一年ほどの修行の末、彼はひとまず神陰流の基礎<<転>>をある程度修めるに至っていた。
この一年という早さであるが、彼がもともと異世界で修行したという事を差っ引いても尋常ではない早さだったと言える。それこそ信綱が満足気に頷くぐらいには、早かった。
「一年か。まさか、ここまで早いとはな」
「ありがとうございます。信綱公のご指導があればこそです」
「いや……剣技や剣術に限ってであれば、おおよそ兄弟子達には敵わぬお前ではあったが……どういうわけか神陰流には抜群の適性を持ったらしいな」
深々と頭を下げたカイトに一つ頷いた信綱は改めての見立てを述べる。やはり剣技や剣術であれば長い鍛錬を積んだ彼の兄弟子達には到底及ばないし、才能の面でも到底及ぶべくもない。が、それでも地球換算であれば四十年以上の歳月を重ねただけはある。戦国時代なら下手をすると人の一生涯にも匹敵するだけの月日だ。十分、それは彼を高みへと導いてくれた様だ。
「そう……なのでしょうか」
「自覚できんか?」
「私は私と信綱公以外の神陰流の使い手を知りません……比較対象が無いので……」
「ふむ……そういう意味でいえば、お前は時に恵まれなかったのかもしれん」
カイトの言葉で、信綱もそう言えばカイト以外の弟子が今はもう生きていない事を思い出す。そんな彼の言葉で、カイトはふと興味を得た。
「そう言えば……信綱公。少し前に卜伝殿が来られ、酒を飲んだのですが……その際、卜傳殿が私が久方ぶりの弟子と仰られておいででした。前の方はどれぐらい前だったのですか?」
「ふむ……そういえば何時だったか……」
信綱は悠久の時の中の瞬きの間ぐらい前を思い出す。そうして思い出したのは、非常に昔の事だという事だった。
「確か江戸の終わりか明治の始めの頃に歳三の縁で新八とやらの弟子を二年教えた、という所か。その後はお前なのでざっと百年か。無論、あれは正式な弟子というには些か片手間ではあるが……そういう意味でいえば、正式な弟子としては百五十年は空くかもしれん」
「……」
なるほど。本当に久しぶりなのか。カイトは信綱の言葉で、自身が百年ぶりの弟子である事を自覚する。とはいえ、そうなってくると今度はあることに興味を持った。
「信綱公。それなら逆に最も多かったのは何時なのですか?」
「うん? そうだな……やはり新介らが居た頃か」
「新介……と申しますと?」
「ああ、お前にわかる様に言えば石舟斎か」
「ああ、なるほど……」
確かに、納得だ。カイトは石舟斎の同期に山程の剣豪が居る事を思い出し、たしかに彼の指南を受ければそうもなるだろう、と思う。そもそも信綱に弟子入りするにはある程度の剣の腕が必要だ。
その上で、ようやく彼の指南を受けられるのだ。揃いも揃って歴史に名を残さないはずがなかった。と、そんな雑談を続けた二人であるが、それもそこそこで立ち上がる。
「……さて、カイト。お前ほどまでたどり着ければ、<<転>>の次の段階まで行けるだろう。その前に一つ、<<転>>のおさらいをしておこう」
「は……」
ここからは教えを受ける立場だ。なのでカイトは一度背筋を伸ばし、その講釈を受ける事にする。そうして語られたのは、<<転>>の理念だ。
「<<転>>とは、世界の意識の境目を利用する武術。世界もまた呼吸をし、その隙間の事は認識できん。無論、この隙間は刹那よりはるかに短い……ここまでは良いな?」
「はい」
「ああ。ではこの<<転>>。今のお前なら、この世界に満ちる流れが見えているだろう。それを使い、移動してみろ」
「移動?」
意味がわからない。<<転>>とは世界の意識が途切れた瞬間を使って攻撃を放つ武術だ。故に狙うのは途切れた瞬間という時間なのであって、信綱の言う通り一瞬しか無い。これでの移動なぞ以ての外だ。が、そんな困惑を浮かべるカイトに対して、信綱はただ無言で笑ったままだった。
(つまりもうわかっているだろう、ということなんだろうな)
後は気付けるか否か。カイトは信綱の無言の笑みを、そう読み解いた。そうして、彼はこの日から<<転>>の極意を極めるべく、修行を開始するのだった。
さて、それからカイトの主観にして二年と少し。カイトはその<<転>>の真髄を兄弟子へと披露していた。
「……はぁ……はぁ……」
世界の意識の裏に消えたカイトの位置を探る宗矩の額には、あいも変わらず珠のような汗が浮かんでいた。結論から言ってしまえば、カイトは<<転>>の極意を宗矩達を遥かに上回る領域で極められていた。
「っ……」
ここまで集中したのは何時以来だろうか。宗矩は自らの掻いた汗が目に入った不快感さえ忘れ、極度に集中する。が、それも仕方がない。もし一瞬でも気を抜いてカイトの存在を感知し損ねれば、その瞬間死ぬのだ。
(<<転>>の極意……ついぞ俺達が極められず、信綱様が一度披露してくださったのを見たのみの領域……)
これを、今自分は敵として使われている。これが宗矩には嬉しくて、そして楽しくて仕方がなかった。故に極度に集中しながらも、彼の顔にはなんとも言いようもない笑みが浮かんでいた。が、そんな彼が思い出すのは、これを一度だけ見たはるか昔の事だ。
(思い出せ。信綱様はなんと言われていた?)
『<<転>>を極めれば、どこの空間でどのタイミングで世界が観測を止めるかがわかる。そこに移動出来れば、そして常にその観測していない空間に移動し続ける事が出来れば、存在そのものをかき消す事が出来る。であればそこから放たれる攻撃もまた、消える』
そんな事が出来るのは後にも先にも信綱様だけだろう。父の兄弟弟子や自分の兄弟弟子達は、信綱が見せた絶技に対してそう笑っていた。が、ここに来て宗矩は考えを改めた。
居たのだ。自分達が死んだはるか先に。平和な時代となった日本に生まれて、数奇な運命を辿った先に。信綱しか出来ないと笑い話にしかならなかった絶技を使えた男が。
(読め。必死に。相手が格下? バカな。これを見て、これを使えて、何故あれを格下の剣士と思える……!)
宗矩は必死に、剣士としては格下だと見下しそうになる自身の内面に対してそう叱責する。確かに、単なる剣なら自分達よりはるかに下だ。あの藤堂という少年よりも下だ。
だが、こと世界の流れを読まねばならないという剣以外の才能を要求される神陰流に掛けては、彼は天才、否、超天才と言うしかなかった。
「っ!」
信綱は一瞬先の死を認識し、自らの内側の何か――敢えて言うのなら生存本能――に導かれる様に、何かを受け流すような姿勢へと持っていく。すると、その瞬間。今まで消えていたはずのカイトの姿が現れ、その手にあった槍が信綱の刀により受け流される。それに宗矩が即座に立て直して攻撃を放とうとするが、その直前。再度カイトが消えた。
「ちっ……」
完全に読まれていた。宗矩はカイトが消えたのを見て、楽しげに舌打ちする。これこそ、神陰流の極意。それを目の当たりにして思うのは、父の言葉だ。
『あの男になんとしても、少しでも近付きたい。それを思い、これを作った』
あれは何時の事だったか。宗矩はかつての父との最後の会話を思い出し、そう思う。
『儂らにはあの御方ほどの世界を見据える力はない……人の身故? 違う。人の身でもあれは出来る。が……如何せん儂らには剣の道というお題目が邪魔をする』
寝ても覚めても剣の道。ただそれに邁進してきた石舟斎にとって、剣の道を想う以外は雑念にも等しい。故に、彼らには神陰流を極める事が出来なかった。その雑念こそが、何より重要な事だったからだ。
『世界の中に蠢く思念……喜怒哀楽。欲望。憎しみ。恐れ……そういった人間らしさ。それが世界の中では総体として蠢いている。それを読み解く事は儂には出来なんだ』
剣の道に邁進してきた石舟斎にとって、世界の中に蠢く大半の思念は自ら雑念として不要と切り捨てていったものばかりだった。そしてそれは宗矩も、またそうだった。故に彼らにとって世界の流れの多くは理解しえぬ物であり、理解してはならないものだった。が、それ故にこそ神陰流には適性が無いのだ。
『はぁ……なんとも情けない。切り捨てた物がこうも大切とは……おそらく、信綱公のお言葉を真に理解し、そして体得出来るのは神として人を見守られる同じく神か……儂らとは違い剣の道を進まぬ人のみであろう。剣の道を進まぬ常人が信綱公の御前まで進む事が出来るかどうか、甚だ疑問であるがな』
全くです。宗矩は自身が父の言葉にそう応じたのを、今でもはっきりと覚えている。が、居たのだ。神陰流を使い矢を放ち槍を突き出し、自らを隠す戦士が。剣の道を極めたい。そう思う心は彼にもあるのだろう。だがそれよりも何より人であり続け、あそこにたどり着いた。それに、宗矩は僅かな嫉妬を抱く。
「くっ……」
嫉妬を得て、宗矩はふと思う。そもそも今の自分は剣の道を極めたいのか。それは素直な疑問だ。今の自身はかつてのような為政者でもなければ、剣の道を極めんとしているわけでもない。ただ、強い相手と戦ってみたい。それだけのはずだ。なのに抱いている嫉妬が、彼を思わず笑わせた。と、そうして自らの心を理解してみて、彼は飛躍を遂げた。
「……」
これが、父の。師の言っていた事か。宗矩は父の言葉の意味を理解して、僅かな感動を得た。そしてその感動が、より彼を高みへと登らせる。
(見える……俺にも世界の流れがはっきりと見える)
昔とは違い、余裕を得るとはこういうことなのか。宗矩はそう思う。少し周囲に気を配るだけで、風の流れから遠くの騎士達の息遣い。それこそ光の流れまで理解できた。それ故にこそ、彼は遂にカイトの姿を捉える事に成功する。
(……そこか)
世界の認識出来ない空間を超高速で移動するカイトを見極め、宗矩は刀を仕舞いゆっくりと自然体へと移行する。
(諦めた……? 違うな。何をしてくるつもりだ)
世界の裏に潜み、呼吸をも殺したカイトは神陰流には至極普通で、しかし柳生新陰流では異質となる自然体を見て何かをしてくる事を察する。が、何も流れは見えない。虚無に等しい隙に、カイトは一瞬だけ思考する。
(行く……しかないか)
ここで一度でも足を止めれば、すぐに自らの姿は露呈してしまうだろう。世界の観測が途切れている空間に留まっていられる時間は限られるし、何よりこれはカイトにもそう安々と出来る事ではない。
故に、彼は行くしかないと判断。即座に攻撃を仕掛ける事にする。が、もし万が一外れた時に備えて、ここで彼は最も使い慣れた武器。刀を選択した。しかし。これこそが、彼の敗因となった。
「……え?」
何をされたか、された本人さえ一瞬理解できなかった。攻撃を仕掛けたのは自分。そして攻撃を当てたのも自分。にも関わらず、カイトの身体が大きく袈裟懸けに切り裂かれていた。
「ごふっ……」
どさり、とカイトが背中から倒れ伏す。何が起きたかわからない。が、それでも。結果からわかる事があった。
「……これが」
「ああ……これこそが、柳生新陰流奥義……無刀取りだ」
なぜかはわからない――後のカイト曰く、まるで吸い取られる様に――が、宗矩の手にはカイトの刀があった。以前に石舟斎が使った無刀取りとは格が違う。そして、もうひとつ。受けたカイトだからこそ、わかっている事があった。
「チ、チートじゃないですか……これ……」
「お前なら、何時か出来る様になるだろう……おい」
「っ」
倒れ伏し血をどくどくと流すカイトに一つ微笑みかけた宗矩であったが、一転敵としての目で騎士の一人へと視線を向ける。それに騎士達が身構えるが、彼にはもう戦うつもりはなかった。
「……こいつを手当してやれ。何、殺しはしなかった。こいつの生命力だ。問題なく助かる」
「っ」
「安心しろ……今の俺は非常に満足している。殺さなかったのも、それ故だ……感謝する、遠き時代の弟弟子よ。これが、俺の求めて止まなかった戦いか。奥義まで使わざるを得なかったとは……」
宗矩は僅かな感動を胸に、カイトへと掛け値なしの感謝を口にする。これこそ、戦い。互角の相手に対して、必死で知恵を巡らせ技を凝らす。彼がついぞしたことのなかった『戦い』だった。
だから、彼はその初戦の相手であるカイトを殺さなかったし殺すつもりはなかった。自分が一生を掛けて求めて止まなかったそれをくれたのだ。その礼に生かしておく、というのは十分な礼と言えた。と、そんな感謝を口にした宗矩に、駆け寄ってきた騎士の一人に抱き起こされながらカイトが声を絞り出した。
「……宗矩殿!」
「……なんだ」
「二つ、述べさせて頂きたい……一つ。ご指南、感謝致します」
「……良い。弟弟子の指南は兄弟子の務め。ゆめ、この指南を忘れるな」
これはあくまでもカイトにとって今まで得られる事のなかった同門との戦い。指南だ。故に彼が述べるべきは指南役を務めてくれた宗矩への感謝であり、それに対する宗矩も兄弟子として気にするな、と口にする。そうして一応の兄弟弟子としての話を終えたカイトが、更に続けた。
「はい……それで、もう一つ……いえ、やめます」
「ん?」
おかしな奴だ。何かを言おうとして、しかし一転してやめたカイトに宗矩が思わず呆気にとられる。
「失礼しました……あはは……血が抜けて頭が朦朧としております」
「そうか……ではな。また、何時かどこかの戦場相見えよう」
カイトの返答に一つ笑った宗矩はそのまま、どこかへと消えていく。そうしてカイトは兄弟子よりの指南を受け、途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら通信機を起動させるのだった。
お読み頂きありがとうございました。カイト、本編で初敗北。
次回予告:第1759話『ルクセリオン教国』




