第1615話 ミニエーラ公国 ――露天風呂にて――
ラグナ連邦での大騒動を受けて、ミニエーラ公国と呼ばれる国はバイエという山間の街にまで湯治にやって来ていたソラ。彼はその日の夕食を食べ、更にその際の会話からブロンザイトより、組織の指導者としてのカイトについての解説を受けていた。そんな彼はその授業を終えると、再び休憩に入っていた。と、そうして休息に入って早々に、ブロンザイトがふと口を開いた。
「おぉ、そうじゃ。すっかり忘れておった」
「「はい?」」
「二人共、少し儂は知人に会いに行く必要があってのう。少々出て来る故、二人は休む様に」
「知人? ここらに誰か居たかな……」
ブロンザイトの言葉に、トリンが首を傾げる。やはり三十年も一緒に居たのだ。先にも彼自身が言っていたが、ここらにも何度か来ている。なのでブロンザイトの知人もそこそこ知っていて、ここらに居ない事を把握していたのである。
「あぁ、いや。ここらの知人ではない。ほれ、この間カイト殿から手紙が来たじゃろう。それに、偶然近くに居るという話があってのう。久方ぶりに会えそうなので予定をあわせてみるか、とここに来てくれる事になった。ほれ、カルサは覚えておるか?」
「カルサ……?」
誰だっけ。トリンはブロンザイトの問いかけに、首を傾げる。そうして暫く考えた所で、ブロンザイトがヒントを出した。
「ほれ、お主が儂と初めて会った時におったじゃろう」
「あー! あの人!」
「ま、仕方がないか……あやつめ、儂以上に放浪しておるからのう」
名前さえ覚えていなかったらしいトリンに、ブロンザイトは若干呆れながらも仕方がないと納得していた。なにせ三十年も前の事だ。それを覚えておけ、というのは中々に難しい話だろう。
なお、実際には三十年の内に何度か会ってはいるらしい。が、咄嗟に思い出せないほどに一緒に居た期間は短いというわけだった。
「あれ? でも確かカルサさん、お爺ちゃんの弟さんじゃなかったっけ」
「うむ。そういうわけで、儂が近くに来るというので顔でも見せるか、というわけじゃ」
トリンの問いかけに頷いたブロンザイトは、僅かに辟易した様子だった。
「ぼ、僕も行った方が」
「来んで良い来んで良い。というより、来ん方が良い」
「そ、そうする」
自らの言葉を遮って首を振ったブロンザイトに、トリンもほぼ迷うことなく頷いた。
「まぁ、そういうわけでのう。一応、送ってはくれるという事じゃし、あれもあれよ。不足もあるまい。儂が今宵戻らんでも、問題は無いから安心せよ」
「うん」
「は、はぁ……」
どうやらそのカルサなる人物を知っているトリンは兎も角、やはりソラはそのカルサなる人物の事を知らない。なので警戒するトリンにも、何故か弟と会うというのに辟易しているブロンザイトにも何がなんだか分からず首を傾げるばかりだ。と、そんなソラに対して、ブロンザイトは更に続けていた。
「おぉ、そうじゃ。トリン、お主この宿は覚えておるな?」
「うん」
「後でソラを露天風呂に案内してやれ。ついでに入ってくると良い」
「あ、うん。そっか、ここに来て露天風呂見ないのは損だもんね」
「うむ……儂は今日帰れれば、帰ってから入る……うむ。入る気力が残っておれば、であるが……最悪は朝風呂としよう。ここの朝風呂も良いからのう」
トリンの言葉に頷いたブロンザイトは、改めて深い溜息を吐いた。それに結局、ソラは二人にそのカルサなる人物について問いかける機会を失ったまま、暫くの時が流れる事になるのだった。
さて、それから暫く。ブロンザイトはカルサに会いに宿を後にしていた。その一方、ソラとトリンは残ってのんびりとした時間を過ごしていた。と、そうして二人で近くの露店で売っていたお饅頭――来る道中で買った――を食べていたのだが、そこでソラがそろそろ時間的にも良いか、と口を開いた。
「トリン。風呂ってどこ? 道中戦闘あったから、できれば早めに入っときたいんだよ。ちょっと服にドロ入ったっぽくてさ」
「ん……ああ、ちょっと待ってね」
ソラの問いかけを受けたトリンはお饅頭を一つ急いで頬張ると、立ち上がる。それに合わせてソラも立ち上がって、二人は風呂の用意をして露天風呂とやらに向かう事にした。
「ここの露天風呂はかなり大きくてね。更には眺めも良いんだ。もうそろそろ日も落ちてるから、良い頃合いだと思うよ」
「へー……」
どんな所なのだろうか。ソラは期待しながら、トリンと共に奥へと歩いていく。そうしてたどり着いた更衣室にて水着に着替える事になったのだが、そこでソラは思わず服を脱ぐ手を止めるになった。
「おまっ……それ……」
「ん? ああ、これ?」
ソラが絶句したのは、トリンのみぞおちの辺りにあった巨大な傷跡だ。すでに癒着していてかなり古い様子だが、相当な何かが無いとあり得ないほどの傷跡だった。なにせこのエネフィアには傷跡さえ残らない治療方法が山程あるのだ。それなのに、この傷跡だ。大凡尋常ではない様子だった。
「あー……まぁ、後でね。取り敢えず、今は着替えないと風邪引くよ」
「お、おう……」
僅かに苦笑した様子で自らの胸に刻まれた傷跡を見たトリンだが、気を取り直して再度水着に着替える。それに、ソラも少し慌て気味に着替えを終わらせ、二人は小型の金庫に衣服と貴重品を仕舞うと鍵と手ぬぐいのみを手に、風呂場に向かった。
「おー! すっげ!」
風呂場にたどり着いたソラが見たのは、満天の星空と月明かりに照らされて浮かび上がる一つの湖だ。周囲はこの風景を邪魔しない程度の光源となっており、明らかにきちんとした意図に基づいて設計されている様子だった。
「朝には、運が良ければ向こうの山が湖に映る事もあるよ」
「へー……って、あれ? そういや、寒くない?」
湖に浮かぶ月を見ながら頷いたソラであったが、そこで彼はここら一帯が寒くない事に気がついた。それに、トリンも一つ頷いた。
「ああ、露天風呂は基本的に冷気が入らない様に別途で結界が展開されてるからね。取り敢えず、ここに立ってると邪魔になるから身体を洗って入ろう」
「おう」
確かにいつまでも入り口に突っ立っているのは邪魔だろう。それに納得したソラは、トリンの言葉に従って取り敢えず身体を洗う事にする。そうして頭を洗い身体に付着した細かな返り血や泥、砂を洗い落としたソラは、トリンと共に湖が眺められる露天風呂に浸かる事にした。
「ふふぃー……」
「はぁ……」
やはりここまで長旅だったのだ。二人共、どこかしらに疲れは溜まっていたらしい。湯船に浸かってのんびりすると、どちらも空気が弛緩していた。と、そうしてソラが思わず、という具合に口を開いた。
「というか、お前」
「どしたの?」
「男だったのな」
「君、それどういう意味?」
どこか茶化す様なソラの言葉に、トリンがジト目で問いかける。それに、ソラは笑った。
「いや、お前結構なよなよ、ってしてるだろ?」
「……」
「悪いって。でも色々とウチにも、ってかカイトの知り合いに居てさ」
ジト目の圧を増したトリンに、ソラが笑って謝罪する。思い出したのはもちろん、皐月と睦月の二人である。特に前者は今はもはや女体化さえ覚えている為、ソラでさえもう何がなんだかさっぱりだった。
「というわけ」
「す、すごいね……にしても、そうか。そんな珍しい体質の人が君達の所に居るんだね」
「珍しい体質?」
皐月の事を語られたトリンが出した言葉に、ソラが思わず首を傾げる。皐月について何かそんな珍しい体質云々の話を聞いた事はなかった。無論、それ以前の問題として並の女の子より可愛い男という存在自体が珍しい、というのを除けば、であるが。
「うん。まぁ、ソラが知らないのも無理はないよ。そういう性質は本当に希少性が高くて、自覚してる人はまぁ、明かさないからね」
「明かさない?」
「うん。スパイや密偵、工作員に多いんだ。だから、明かさない」
「???」
トリンに言われ、ソラはどうやら更に理解ができなくなったらしい。更に深く首を傾げていた。
「あはは……うん。ソラ。一つ聞きたいんだけど、君、女の人になりたい?」
「……いや、思わね。興味本位とかで一回は、とか思わないでも無いぐらいで」
「だよね。僕もその程度で、頻繁になろうとか思わないよ」
「まぁ、どっちにしろならないけどな」
「まぁね」
ソラとトリンは二人して、笑いながら女性になる事は無いと明言する。確かに興味本位で女性とはどういう存在なのだろうか、と思わないではない。が、それは内面の話であって、肉体の話ではない。
特にソラの場合は恋人が居る事もあり、そちらが顕著だ。やはり恋人と言えど人と人。機嫌を損ねる事もあり、そういう時にはどうすれば女性の心が分かるのだろうか、と悩む事もあるのである。
「でも、ほら。その……皐月? って人は多用してるんでしょ?」
「ああ。カイトと一緒にバカやってるっぽいな」
「それは、そういう体質なんだよ。女性となるのに抵抗感が無い。男性となるのに抵抗感が無い。そんな人が極稀に居るらしいんだ。僕もお爺ちゃんから聞いた事はあるけど……一応、多分そうなんだろうな、という人に会った事があるぐらいではっきりと会った事はないよ」
「へー……」
おそらく諜報員達からしてみれば、切り札の様な物にも等しいのだろうな。ソラはトリンの話を聞いて、そう思った。と、そんな彼はそれに納得しながら、トリンに質問する。
「で、それがどうして諜報員に繋がるんだ?」
「簡単だよ。彼らは女性となるのに抵抗がない……つまりは、女性である事にも抵抗が無いんだ。逆もまた然り。女性なら男性となる事に抵抗が無い。だから、女の武器と男の武器を使い分けられる」
「男の武器ってと……力か。で、女の武器ってと……色仕掛け?」
「そう。その二つ。男としての腕力と、女性としての魅力。この二つを器用に使い分けられるのは、諜報員として非常に便利でしょ?」
「そうだよな……」
トリンの問いかけに、ソラは深く頷いた。一人で二つの武器を手にしているのだ。しかも、男性と女性を使い分けられるのであれば、姿の変更も自由自在だ。こちらからすれば非常に厄介でありながら、仕掛ける相手からするとこれ以上に無い便利な力だろう。
「そういうこと……で、そういう人達にとってそれは切り札だからね。まず明かされない。それで、僕も知らないっていうわけ」
「なるほどな……俺もどっかで会った事があったりするのかな?」
「さぁねぇ……こればかりは、僕もはっきりとした事は言えないよ」
ソラの問いかけに対して、トリンは只々首を振るだけだ。と、そんな彼に対して、ソラが更に突っ込んだ所を問いかけた。
「そういや、お前。さっきそうだ、と思う人物って話てたよな? 何か見分け方とかあんのか?」
「一応、あるよ。確かにそう言う人は居るんだけど、それでも本当に完璧に女性になったり男性になれる事はないんだ。どうしても、潜在的にはどちらかの性別に意識が寄ってしまうんだって……えっと、なんだっけ……男性の脳にある女性的思考……だかなんだか。そんな感じなのを引き出してるわけだから、变化中もどうしても大本に引っ張られてしまうんだって」
「……」
あの皐月の男性的な思考とは一体。トリンの説明を聞きながら、ソラはそう思う。大本からして女性的な思考の方が大きそうなのだ。ほとほと疑問だった。とはいえ、これについてはトリンがそのまま教えてくれた。
「といっても、これがどちらに傾くか、というのは実際にやってみるまでわからないらしいね。一応、比率としては生まれた時の性別に偏る事が多いらしいんだけど……更には本当に極稀に、正真正銘变化した性別に完全になる者も居るんだって」
「へー……あ、ちょっと待った」
「どうしたの?」
「いや、カイトがなんか言ってたな……」
首を傾げたトリンに、ソラがカイトとの会話を思い出す。そうして、一つ思い出した。
「確かロキって神様が女性に成って子供を生んで育てた経験があるとかなんとか……それみたいな感じなのか?」
「ま、またそれは凄い経歴の神様が……た、多分そうだと思うよ?」
ソラの問いかけにトリンは頬を引き攣らせながら頷いた。こんな特異な経験をしている神はエネフィアでは聞いた事がなかったらしい。と、そんなトリンは一転気を取り直して、話を続ける事にした。
「ま、まぁそれはさておき。とりあえず本当に完璧に性転換出来る場合、そういう風に同性の子供を生んだり、生ませたり出来るらしいね」
「なるほどな……」
ソラはトリンの言葉に一つ頷くと、一つ伸びて首を鳴らす。そうして、彼は改めて前を見た。
「にしても、なんでこんな話題になったんだっけ?」
「……確か君のギルドの仲間の話だったかな」
「あー……ま、取り敢えず教えてくれてサンキュ」
「良いよ、別に」
ソラの感謝に対して、トリンが笑って首を振る。そうして、二人はその後も少しの間のんびりとした時間を過ごす事になるのだった。
お読み頂きありがとうございました。
次回予告:第1616話『ミニエーラ公国』




