◆王女と騎士◆
『いつか陛下に愛を2』第16話(サイドB:落し物)の王女と騎士の話です。
話の内容はわかりにくいかもしれません。
小柄な女性が湖のそばにたたずんでいた。
赤く染まりつつある空を、そびえる山々の遥か彼方を見つめながら。
傾く太陽は、彼女の風に揺れる薄汚れたドレスをも朱に染めようとしていた。
「マリーナ様」
彼女に声をかけたのは、がっしりとした体躯の青年だった。森で狩猟を主としているのだろう男性は、大振りのナイフや荒縄などを携えている。
「エカルノ。お妃様は、どうなさって?」
「領主の館で滞在されていますが、二年前のことを調べておられるようです」
「そう」
彼女は湖を見つめたまま。
彼はその背後で黙って立っていた。
高い山のそびえるこの町は、陽が暮れるのが早い。暗くなれば、夜行性の獣達が活動をはじめるため森は危険だ。
だが、彼は彼女を急かしはしなかった。
ただ静かに彼女の後姿を眺めていた。その瞼に焼き付けるように。まるでこれが最後になるかのように。
彼女はゆっくりと振り返った。振り向いた彼女は夕陽を背にしており、彼にその表情を隠してた。振り向く時、夕陽が照らした彼女の横顔には僅かに笑みが浮かんでいた。
その意味を彼は知りはしない。
「遅くなってしまったわね。帰りましょう」
彼女は彼の傍へと歩いてくる。その足取りもその口調も穏やかだ。古ぼけたドレスに身を包みながらも、優雅な所作に彼は見惚れる。
彼はその彼女から視線をそらし、湖へと目をやる。
彼女の望みが、叶いますように。
毎日そうしてきたように、今日も彼は湖に向って願いを投げた。
その瞳は寂しげでもあり、しかし、深い切望を込めて。
傍で彼を見上げる彼女は彼の腕にそっと手を触れた。
それに気付いた彼は湖から彼女へと視線を落とす。
そうして二人は歩きはじめた。二人の暮らす小さな家に向けて。
◇◇◇
翌夕刻。
「お妃様が何者かに襲撃され、王と騎士団が町へ入ったようです」
それぞれ湯気の上る皿一つずつを前に二人は向かい合っていた。
二人きりの質素な夕食時、彼はそう話を切り出した。
彼女は目を見開き彼を見返す。短い逡巡の後。
「誰に? まさか……」
「詳細はわかりませんが、カルダン・ガウ国人はいないようです」
ほーっ。
彼女は大きく息を吐いた。
仄暗い明りが食卓と互いの顔を照らしてはいても、その胸のうちまでは見ることはできない。
何かを探ろうとしたとしても、こう暗くては。
「さあ、食べましょう」
彼女が明るく声をかけ、ようやく食事が始まった。彼は昼間の仕事の成果を語り、彼女はそれを微笑みながら聞いている。
昨日、一昨日と同じような夕食時の風景。
そして明日も同じとは限らないと二人は知っていた。
食事を終え、彼女が食器を片づけ始める。彼は彼女の指先を見つめた。忙しなく動く手は、すっかり荒れてしまっていた。
そんな彼を知ってか知らずか、彼女は動きを止めた。
食卓のそばに立ち、彼を見つめる。何かを言いたげに。
「どうか、なさいましたか?」
じっと動かない彼女に彼は促した。
何か言いにくいけれど言いたいことがあるのだろうと察していた。
彼女は簡単に胸の内を語る人ではない。カルダン・ガウ国の王女として育った彼女は、そうすることを許されていなかった。
「貴方は、国へ、帰りたい?」
彼女はゆっくりと問いかけた。まっすぐに彼の瞳を見つめながら。
彼は。
すぐに答えることができなかった。
どこからか入り込んだ隙間風が、ふっと明りを揺らす。
それと同時に、二人の影も揺らぐ。
「ごめんなさい。馬鹿な事を聞いたわ」
彼女は再び動き出した。食器を手に、食卓から台所へと移動していく。
それを彼は黙って見つめていた。そして、彼女の問いに答えることはなかった。
◇◇◇
翌朝、二人は王と妃が滞在しているという領主の館を訪れるための仕度をした。
彼女は二年ぶりに見る彼の騎士姿に、涙をこぼした。
「どうなさったのですか? 今日のことがご心配なのですか? 大丈夫です。貴女が本物のカルダン・ガウ国王女であることは、お持ちの指輪で証明できます。必ず国に帰れます」
彼は彼女を慰めるように語りかけた。
しかし彼女は涙をこぼしながら首を振り続ける。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
そう何度も呟きながら。
きっと自分を巻き込んだことに良心の呵責を感じていらっしゃるのだろうと彼は思った。そんな風に感じる必要はないのだと。自分は王女の騎士としての役割を果たすことができ光栄なのだと彼女に告げた。
そうした彼の説得に心を落ち着けたのか彼女は涙を納めた。
「ドレスは……サイズが合わなくなられていたのですね。申し訳ありません。新しいドレスを準備することができず……」
「いいえ。いいのよ、ドレスくらい。泣いてしまってごめんなさい。今日の日をずっと待っていたから、つい」
彼女は目元の涙のあとをぬぐい、彼に微笑みかけた。
申し訳ありませんと繰り返す彼に、彼女は。
「貴方は、相変わらず素敵ね」
明るく少しばかり軽い口調で話はじめた。珍しく彼女の思いを。
いつになく素直に振舞う彼女は、笑顔ではあったが無理に明るくしているようで痛々しくもあった。
「私は、我儘なの」
「そのようなことは」
「いいえ。とても我儘なのよ。貴方はあきれるかもしれないけれど、私は、これが私だから」
彼女は最初は軽い口調だったけれど、だんだんと重くなり。まだ先があるだろう話を打ち切った。
そして彼等は領主館へ向かった。
妃に会うために。
◇◇◇
数時間後、二人は領主館を出た。妃との面会は叶わなかったけれど、王と交渉を終えて。
ずっと沈黙のまま歩き続けた。
「エカルノ」
「はい」
「王は私の住居を用意してくれるでしょう」
「……はい」
「貴方は、自由になったのよ」
「……」
「もう私は王女ではない。貴方が私を守る必要は、ないの」
「……」
「貴方にはこの国に留まることも、国へ帰ることもできる。国へ帰るなら、私が手紙を書きます。貴方が罪を問われることのないように」
「……王女は、国へ帰りたいと思っておられなかったのですか?」
「帰っても別の国へ嫁がされるだけ。この国へ来たのは母を実家へ帰すため。今頃は王宮を出て母も自由を謳歌していることでしょう。心残りはないわ」
「そうで、ございましたか」
「貴方を騙すつもりはなかったの。侍女のラーニャが暗殺を仕掛けてくれて、好都合だった。彼女のことも、黒髪の少女も、貴方も、私は全てを利用した。自分の自由のために」
彼女は前を向いたまま自嘲気味に微笑んだ。
草原に風が吹き抜け、波打たせる。彼女が自分で結った髪は幾筋もこぼれており、風になびく。
十七になったばかりの彼女は、小柄ながらも二年前と違い背丈も身体の曲線も大きく変化しており。すでに大人の女性の顔をしていた。
貴方はどうする?
そう問いかけるように、彼女は彼を見上げた。
明るい日差しの元では彼女の表情をつぶさに見ることができる。
諦めたような、でも、縋るような瞳で、自信なさげな口元が震えそうになる呼吸を隠そうとしていた。
「いつまでもお守りいたします。私の王女」
彼の声は彼女の耳に届いた。陽に反射した瞳はつややかに光り、唇から吐息が漏れ。彼の腕に添えた手に力がこもる。
二人はゆっくりと歩いた。
風が吹きわたる長閑な草原の小道を、寄り添うように。
~The End~