侍女リリア視点(7)◆笑いのツボ◆
『眉なし』発言を不快に思われる方は、この先を読むのはやめたほうがいいです。
「やぁ、君は、ナファフィステア妃の侍女だったよね?」
王宮の通路で私を呼びとめたのは、ドーリンガー卿だった。
一瞬頭に浮かんだ言葉を打ち消し、視線を彼の首元よりあげないよう気を付けながら、私は声の方へ向いた。
「はい」
頭を下げ、礼儀正しく礼をして見せた。たとえ相手が名乗りもせずに声をかけてきたのだとしても、私の失態は妃様に響く。私は大人しく必要最低限の返事をした。
このような方が私に話しかけてくる理由は、ナファフィステア妃のこと以外ない。妃様付き侍女となったからには、こういった方々に接近されるだろうことは知らされていた。情報を漏らす危険性について重々説明されているのだ。
実際そうした場面に遭遇したのは今回がはじめてだけれど、予想以上に冷静でいられることに、私は少し自信を持った。
そんな私の頬に手を添え、ドーリンガー卿は顔を無理やりあげさせた。
高位貴族だからといって、いきなり女性に触れるなど、馴れ馴れしい。私は眉を顰めて見返した。
見返してしまった。うっかりと。
卿は穏やかな笑みで私を見ていたけれど。
それはきっと爽やかな好青年の立ち姿であるはずだけれど。
私の頭に浮かびあがった
『眉なしが?』
妃様の表情と言葉は爆発的な威力だった。
卿の手から逃れ、身体ごと背いた。少し粗雑な振る舞いになったかもしれない。
しかし、そんなことに構っている余裕はなかった。
一刻も早く視界から卿を遠ざける必要があった。
腹の底から湧き上がる、笑い。
奥歯を噛み締め、必死で堪える。
荒い鼻息を繰り返して何とかとどめる。けれど、まだ口を開くのは危険だ。なおも予断を許さない状況だった。
その私の態度をどう受け止めたのか。
卿は、半ば背を向けた姿勢の私に話しかけてきた。
「すまない。美しいその顔を見つめたくて、貴女に触れてしまった。許してくれないかい?」
ドーリンガー卿は私のすぐそばに歩み寄って。触れはしないものの、その熱をほんのりと感じられそうなほど近くにいた。
お願いです、近くに来ないでいただけますか。
そんな言葉が言えるはずもなく。
「何の、ご用でしょうか?」
私は淡々とそう返した。下手な茶番に付き合っている暇はない。
やっとやり過ごしたものを刺激したくないというのが、本当のところだった。
「許してはもらえないのかな。貴女を怒らせたかったわけではないんだ」
「ご用がないのなら、失礼させていただきます」
私は少しだけ頭と腰を下げ、軽く挨拶をする。
お坊っちゃまの遊びとはこういう邪魔のことかと、以前の同僚の言葉を思い出していた。
「待ってくれないか? せめて許すと言ってくれないだろうか」
卿は私の腕を取り、動きを止めた。
だから、女性に軽々しく触るんじゃありません。
全く反省もせずに、何が許すと言ってくれ、なのか。
苛立ったけれど、私も学習はしている。
顔を顰めはしても、決して卿の顔は見ない。
「離していただけますか?」
静かな私の声には、怒りが滲んでいたかもしれない。かの単語を頭にチラつかせないために、必要以上に力が入ってしまっていたから。
卿は掴んでいた私の腕から手を離した。
私はさっとドレスの裾を翻し、卿を残し立ち去った。
「侍女嬢……」
私を呼び止めようとして、卿はおかしな呼び方をしていた。
侍女嬢って、何?
使用人用の部屋に入ると、待っていたかのように同僚達が私を取り囲んだ。
「あのドーリンガー卿に声をかけられたんですって?」
「いつの間に知り合っていたの?」
「ものすごく親密な雰囲気だったそうじゃない。何を話していたの?」
ニコニコと笑ってはいるが、皆、真相を知らなければ解放してはくれなさそうだった。
周囲からの笑顔に気圧される。
「話しかけられたけど、何だか訳がわからなかったわ」
そう答えた。
ドーリンガー卿は、結局のところ、何が言いたかったのか何がしたかったのかさっぱりわからない。
勝手に頬に触れ、睨めば許してくれ云々で。
「また、接触してくるんじゃないの?」
「そうね。今回の目的は、リリアと知り合うことだったのかも。ナファフィステア妃の侍女だから」
「リリア、気を付けるのよ」
「誘惑されてしまいそうで心配だわ。もしもドーリンガー卿を好きになったら、情報はもったいぶるのよ。必要なものが手に入ればサヨナラされてしまうから」
気を付けるつもりだけど。
心配してくれるのは有難いけど。
情報を漏らしたりはいたしません。
同僚達が思うほど、ドーリンガー卿は小細工がうまくないと思う。
どちらかというと、抜けている方ではないだろうか。
眉なしを差し引いても。
はっ。
油断した。
眉なし眉なし眉なし眉なし……。
駆け巡る、単語。
それは私の脳裏を瞬く間に埋め尽くし。
ふっ。
一息笑いが漏れる。と。
あーっははははっ。
あはっ、あははっ、あははははははっ。
一旦噴き出してしまえば、もう止めることはできなかった。
私はお腹をかかえて笑い転げた。
涙を流して笑いまくった。
堪えていた反動もあって、腹筋が痛くなるほど笑い続けた。
後で同僚が、私の気が狂ったのかと青ざめながら見守っていたと話してくれた。
声をかけただけで女性を狂わせるとはドーリンガー卿、恐るべしと。
その逸話がより一層笑いネタとして私の記憶にとどまった。
ドーリンガー卿は、私にとって、ただの顔だけ男ではなく、恐るべき笑いの神となり。
今後の卿との遭遇は、私にとって試練の場になることが予想された。
笑いの神との闘いに、なる。あの爆発的な破壊力との。
そう思うだけで口元が歪んでしまう。
しっかりしなければ。
私は平常心を取り戻そうと、頭を別の単語で埋め尽くした。
仕事仕事仕事仕事仕事……。
その夜。
「今日は体調が悪いから陛下立ち入り禁止ねっ」
妃様はそう明るくのたまい、ベッドに入られた。
本当に体調がお悪いわけではない。
その明るく爽快な態度を見れば一目瞭然なのだが。
私を含む女官達は肩を竦めて頷きあった。
今夜、陛下がいらっしゃらなければいいのだけれど。
そんな願いも虚しく、陛下がいらっしゃった。
今夜の妃様は揺すられようと怒鳴られようと目を覚まされなかった。
陛下はかなりな時間粘られたが。
凄いです、妃様。
あれでお目覚めになられないなんて。
陛下は足取り荒く部屋を後にされた。
その後ろ姿には哀愁が漂って、いたかもしれない。
また、明日があります、陛下。
そう思ったのは、私だけではないはず。