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その光景を、喧騒のベルリン国際空港で画面越しに見ていた。
ゆらゆらと白い塊が次第に形をはっきりとさせていき、遠く高い空から降りてくる。
いったいどれほどの速度が、重力がかかっているのかわからないほど、傍目からはすごく滑らかな飛行。
でもあれは間違いなく死と隣り合わせの危険なフライトで、たった一つの要因で呆気なく空中分解してしまうことを知っていた。
巨大な液晶画面の前に集まる人々が、シャトルが滑走路に着陸した瞬間に割れんばかりの歓声を上げた。中には英語やらドイツ語やらで『おかえり』とか『最高だ!』とか叫んでいる中に、『アラン』や『サカモト』と呼びかける声もかなりの数がある。
……それでも、そんな数多の声が聞こえないかのように、彼女は息を詰めてただ見守っていた。
ようやくそのシャトルが完全に動きを止めた後にも、まるでテレビの向こう側――厚い装甲で覆われたシャトルの内部が透き通って見えるかのように。
ただ黙って、息をつめて見ていたのだ。
まだ遠い。ドイツ、ベルリンという異国の地で。
それでも。
ふと見上げたガラス越し。晴れ渡った空はどこまでも澄んで青い。この青を辿って行った下に、彼がいるのだ。
同じ空の下。そんな些細なことがどうしようもなく――。
*****
――その部屋に入ったとき、もう何を言えばいいのかわからなかった。
アメリカ、ヒューストンのリハビリ施設。
宇宙飛行士は、期間直後は寝たきり状態で、とてもじゃないが歩くこともままならない。
だいたい一ヶ月半のリハ・プログラムをこなして、だいたいの機能を取り戻しても完全には程遠い。
宇宙に長期滞在した宇宙飛行の身体は、筋力と骨量が大幅に低下している。筋肉は二割ほども落ちて、一気に二十年分も年取ったような状態。減った骨量は宇宙に滞在した日数の倍以上を費やさなければ元に戻らない。現時点では骨折や尿路結石の危険性や、放射線被爆の影響で白内障や癌のリスクが高まっている可能性もある。
事前に仕入れていた知識の文言を思い出すだけで、シズは恐ろしかった。
……いや、本当はもっと前。
一年前にニュース映像で、アランが宇宙飛行士になったと知ったときから怖かった。シャトルの打ち上げからその姿が見えなくなるまでの間も、167日間という約半年にも渡る宇宙での生活の様子をネットで知ることも、帰還するシャトルが滑走路に着陸する間も、そしていままでも。ずっとずっと怖かったのだ。
これまで何度も勝手をしてきたアランだったけれど、そこまで死のリスクの高いことはなかった。諸国放浪も趣味の域だったし、南極調査も危ないがそれでも地球上にはいた。
それが何だ。知らない間に選抜に通り、二年以上もの訓練を重ねて宇宙なんて予測もつかない場所に行った。あんな金属の船で、酸素も重力もない、高い高い極寒の空間に行ってしまった。
行くのも、ただ生きるのも、帰ってくるのも危険だらけ。
シズは一度だって世間の浮かれた騒ぎようには同調できなかった。繰り返されるニュースや日々のネットの内容に、お願いだからもうやめてほしいと叫びだしたかった。
――それがどれだけの偉業であろうと。どれだけ人類の希望を背負っていようと。数多の夢を感じさせるおこないだとしても。
……シズにはすべてがどうでも良かった。何もしないでいいから、ただ無事にアランを返してほしかった。
いつか職場で開催された、宇宙飛行士たちと中高生との対話イベント。あのとき、いますぐ帰って来てと、人目もはばからずにアランに向かって泣き喚きたかった。
――そのくらい寂しくて、つらくて、悲しくて。
――好きで、愛していて、同じくらいに愛されたいと、心の底から思った。
金魚鉢の底で、きらきら輝く婚約指輪が何より恨めしかった。まるで思い出と形見を一緒に置いて行かれたようで。アランが取った行動が、本当に全部、最期のことのような気がして。
『A・C・Sakamoto』とプレートが下がったその部屋のドアを、案内の黒人女性がノックして中から返事がしただけで心拍数が上がった。スライドドアを開けて促されるままに、シズはたった一人で室内に足を踏み入れて――そしてついに会ったのだ。
「しーず」
ベッドの上に上半身を起こした状態で彼は――アランは、本当に数日ぶり程度の軽さでそう呼んだ。本当は一年ぶり。彼が地球に戻ってからは一週間が経つ。
一年前よりも伸びた金色の髪に、変わらない子供みたいな光を宿した灰色の目。日英のハーフだと思わせるのは色彩くらいで、顔立ちは整った日本人のそれ。それでも投げ出された身体はどこか草臥れたようで、やはり宇宙の生活の過酷さを感じさせた。
けれど。そうなんだけど――。アランがいる。無事に息をして、頭にくるような笑顔でシズを呼んだ。
「うぅぅぅ……」
「え、ちょっ、シズ!? 泣くの? ってかそこで泣くのはよそうっ! こっちおいで、こっち! しーずー!!」
「うるさい馬鹿ぁ」
ドアから数歩も行かない場所で、堪え切れずにシズはくずおれた。後から後から止まらない涙がぼろぼろこぼれていって、ぬぐう手が追い付かない。霞んでいる視界の奥、ベッドの上であたふたと動くアランが滑稽だったけれど、とてもじゃないけれど笑えない。それこそアランじゃあるまいし。
大人の女の泣き方じゃないなんてこともわかっていながら、子供のようにしゃくりあげるそれが止まらない。みっともない顔になっている。唯一の救いは使っている化粧品が水に溶けづらいことくらいだろう。
科学の進歩ってすごい。でも宇宙なんて大嫌いだ。
「サイテーだよもう、馬鹿馬鹿ばーか!」
「シズ、こっち来て」
「やだよ。アラン馬鹿だもん」
「知ってるけど……俺いま歩くの下手だからさぁ。シズが来てくれなきゃ近くに寄れないんだ」
「知らない」
「頼むよ、しーず。……触りたい。もうほんとに我慢の限界です」
最後だけ本当に切実な声を出すものだから、何かに引きずられるようにシズはふらりと立ち上がって、半ば倒れ込むように、広げられたアランの腕の中に納まった。ベッドに乗り上げたシズの身体を、アランはヘロヘロのくせにぐいっと引き寄せて抱え込んでくる。
「あー、シズだぁ。声も、体温も、匂いも、触り心地も、全部ちゃんとシズだー……」
そう、とシズは言った。
自分に話しかける声も、囲ってくる体温も匂いも触り心地も、少し衰えていたとしても、それはやはりアランだった。全部ちゃんと、アランが居た。
「ごめーん、シズ」
シズの髪に自分の顔を摺り寄せて、肩口にうずめているアランの声が、かすれて聞き取りづらいものに変わった。
「ごめんなぁシズ。ほんとに、ごめん…………ごめん……ごめんなさい」
「…………泣いてるの?」
「……うん」
「っ馬鹿だよねえ」
「ん」
ぐすぐすと鼻を鳴らすシズの肩で、静かにアランが涙を流している。らしい。見えないけれど、全然顔を上げずに抱きしめる力だけを強めるアランの姿はどこまでも必死で、まるで命綱に縋るようで。
……可哀そうで、愛おしかった。シズはどうしようもなくそう感じた。
「何も言わないで消えてさ、」
「うん」
「婚約なんて口ばっかりなのに、」
「……違うけど、うん」
「無責任にも避妊しなかったし、」
「狙ってましたごめんなさいもうしません。でも……うん」
「人づてに迎えに来いとか偉そうにさあ」
「うん。自分で言う勇気なかった」
「…………なんなの?」
その、すべての行動はなんだったのかとシズは問うた。
一年間、自分は何のために耐えたのか、知りたかった。
「宇宙、行ってみたかったんだ」
まるで子供の頃の夢のように、アランは呟いた。
「それで?」
「でも死ぬのは嫌だった」
「……」
「行きたいけど、宇宙飛行士にも選ばれたけど、自分の全部を賭けて、何もかもを注ぎ込んで、それで何が起こっても後悔しないとは……言えなかった。シズがいるから、絶対に言えなかった」
「あたしのせいみたいに言うね」
「そう、シズのせいだ」
はっきりとそう断言したアランが、ようやくシズの肩から顔を離す。薄手のカーディガンを通してブラウスまでが染みている感触で、本当に泣いていたのかとシズはただ思う。
まだ真正面から顔を合わせないで、アランは伏せ気味の顔から瞳だけを鋭くシズに寄越して、その心を明かす。
「俺にとって一番大事で、好きで好きで堪らなくて、本当はいつだってどんなときにだって一緒にいたいのがシズなんだから。そのシズと、もう二度と会えないかもしれないなんて考えるだけで嫌になる。本気で辞めようかと思った。行く日が近づけば近づくほど、楽しみよりずっと、苦しくて切なくてつらくて仕方がなくなった」
どんなに飽きるほど訓練を積んでも。世界の技術の粋が込められ、一流の人材が整備したシャトルだったとしても。
日常よりもずっと死に近いという認識が追い付いたとき、どうしようもなく怖くなった。シズに会えなくなることもそう。
――でも一番は、本当に怖いことというのは、もし死んでしまったら、そのあとには? 何が残る? 自分の何がシズに残るんだろう。
「もし俺が死んだら、シズに忘れられたら、どうしようか。――どうも出来ないんだ。忘れられるのも止められなければ、俺以外の男をシズが選ぶことも邪魔出来ない。そうじゃなくたって、またシズが泣いたとき、つらくて悲しくて折れそうなとき、もう手を伸ばせない。誰かが代わりにその位置に立たれても、何もできない。俺は何もできない」
だから。
人生で初めて、自分に荷を括り付けた。地球から宇宙に伸びる見えない鎖を作った。重力から解き放たれても、絶対に帰らなければならない場所。
「婚約も、避妊しなかったのも、俺が死んじゃいけない理由を作りたかったんだ。もうずっとシズのことを放って置いてて、それにシズはなにも言わないでくれた。……でも本当は、諦めてるだけなんじゃないかって。別れるのも面倒で、流されるままそうしてくれてるだけなのかもしれないって思った。俺が帰っても帰らなくても、シズは変わらないんじゃないかって」
「そんなこと……!」
「うん、馬鹿だった……。でもあのときの俺は確かめたかった。俺が帰っていい場所なのか、まだ俺を待っててくれるか、許してくれるか。確かめたくて、指輪を買って戻った。しばらく過ごして、やっぱりシズ以外には考えられなくて、イエスだけを聞きたくてプロポーズした」
そして目を白黒させながらも頷いてくれたことで、やっと覚悟が出来た。死んでも後悔しないという覚悟じゃなくて、絶対に後悔するから絶対に死なないという覚悟。
そのために取った手段はけして褒められるものじゃないことは、わかっていた。
「ごめん。俺の自己満足のために、シズを傷つけて、泣かせた。寂しい想いさせた」
悲痛な声と顔で言うアランを責められない自分は、やはり甘くて馬鹿でどうしようもないとシズは思った。惚れた弱みなのか何なのか、結局この天才様の思う通りに、彼を離さない鎖の役目に収まった。それを喜んでいる自分が信じられない。
――信じられないけれど、シズだけがこれで幸せだって言える。




