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シズには両親がいない。身体の弱かった母親は六歳のときに肺炎で亡くなっていたし、それ以降片親で必死に育ててくれた父親は、三年前に殉職した。消防士だったのだ。
……ああそういえば、あのときばかりはアランが急遽帰国して、頭では理解していてもなかなか身体が動かなかったシズよりも、ずっと手早く葬儀やら何やらの手配をしてくれた。社会不適合者とばかり思っていたら、冠婚葬祭の一般常識程度はあったらしい。たしか二週間は日本に居たのだったか。
何にしろ親戚筋との付き合いも特になかったために、シズは天涯孤独の身の上に近い。そのうえ未婚の子持ちなど、誰がそんなネタのレパートリーを希望したんだという感じだ。
「だからね、そういう非常識をぶちかましてくれたあいつが、シャトル発射前に女優だろうが何だろうが、とにかくどこぞの女を相手に乱発してたって驚かないわよ。あたしには当たらずにあっちには当たった。そういうことなんじゃないの?」
すっかりやさぐれている様子のシズは、片手で店員を呼びとめて梅干しと焼酎のお湯割りを頼んでいる。
……こりゃぶっつぶれる気満々だな、とナツコは頭痛がした。そんな覚悟を持って酒など飲むもんじゃないんだが。
「でもなあ」
するとケンジが、斜に構えて目を細めるシズを前に、それでも口を開いた。
「非常識をかますにしても、あいつはシズ相手じゃなきゃ何もしないだろう」
「あんな十頭身の美女でも?」
「アランにしたら例えシズが三頭身だっていいに決まってる」
「ケンジ、さすがにそれは怖いって……」
あまりに真剣な顔をしているところ悪いが、ナツコは突っ込んでおいた。アニメのキャラクターじゃあるまいし、三頭身って。シズだって嫌そうだ。なのに意に介した様子もなくケンジは続ける。
「男は下半身の生き物だなんてよく言うけどな、あいつは間違いなく特例。下半身よりずっと上半身が優先されてる」
「なにそれー」
「さっきシズは動物本能がうんぬんって言ってたが、アランに限ってそれはないだろ。あいつがどれだけ突飛で馬鹿げたことをやったとしたって、それはどこも衝動的じゃない。絶対にあのご立派な脳味噌で考えに考えた結果だ。一年前お前に避妊しなかったって言うんなら、それは自分の立場を忘れたうえでの無責任な行為じゃなくて、何もかもわかった挙句の確信犯だろ」
「…………聞けば聞くほど手に負えないんだけど?」
「酷さ増してるわね」
「まあな。幼馴染としてももはや庇えんわ。でも、あいつのシズに対する愛情だけは保証する。ゾッコンだから。ベタ惚れだから。他はない。よってあの女優の噂も嘘だな!」
断言。きっぱりそう言い切ったケンジは輝いていた。もちろん錯覚だ。
胡乱げにそれを眺めたシズは、いったいなんの根拠があってと鼻を鳴らした。
「根拠はない。生まれてから二十八年に渡る付き合いの結果だ」
「却下。信用に値しない」
「わかった、じゃあコレだ! アランにとってはシズが正真正銘、何もかも初めての女!! 執着する理由わかるだろ!?」
「は…………?」
「だーかーらー、あいつはあの見た目だけど二十歳超えても童貞だったし、それまで彼女なんかいたこともないからキスすらしたことなかった超がつくピュアボーイだったんだぞ。知ってたろ?」
知らねぇよ……、とシズはおろかナツコまでもがそう思った。
だってあのアラン・C・サカモトが? キラキラしい金髪に爽やかな美貌、大学一の才能と名高かったあの男が?
付き合い始めのころはドラマか漫画かというような、同性からのやっかみの嫌がらせの数々がシズに降りかかり、彼女がいようかなんだろうが正面から直球で言い寄る猛者な女も後を絶たなかった。それが童貞だったって? しかもシズが初彼女?
「だってケンジ、アランはずーっとモテ続けの人生だったって言ってたじゃない」
ナツコが過去に聞いた一言を持ち出せば、その通りとケンジは頷く。
「ああ、五歳児の頃から女が群がってたな。でもいくら告白されようが実力行使で迫られようが、誰かがお節介焼いて女紹介しようが、一度だって首を縦に振ったことなかったんだ。どんなタイプの女が寄っても一言ノーサンキューでおしまい。同性愛者じゃねえかって噂も立ったな……。まあそれを小耳に挟んで夜這いかけたゲイの奴を、背負い投げた上に関節技で泣くまで締め上げた事実を前に立ち消えたんだが」
何にしろ女に興味ない、というのがアランに対する定説だったらしい。シズにだって初耳だ、そんなことは。
「天才なんて騒がれることもあって、あれはああでいいんだって誰もが納得してたところに現れたのがシズだ。というか、引き合わせたのは俺だけど、別にお前らを上手くまとめようなんて微塵も思ってなかった。なのにこっちが驚くくらいあいつがシズにド嵌りして、お前ナニ人だよっていう口説き文句の応酬の末にシズが折れたときには、思わず知り合い連中にメール送っちまった」
――『緊急速報! あのアラン・C・サカモトにまさかの恋人出現!? 初めて異性に興味を示し、猛攻撃の末に相手を見事撃破!! ファーストアタックとは思えない手際の良さはやはり天才ゆえか……!』
「馬鹿なメール打ってんじゃないわよっっっ!!」
「すまん、大興奮だったんだ」
「ケンジ……」
「だいたい童貞とか絶対に嘘! どこもあたふたしてなかったし。余裕綽々でむしろ意地が悪かった! ねちっこかったし!」
「いやー、それは脳内シュミレーションの賜物ってやつだろう。あいつ器用だし」
正しくは、付き合う前から『毎日三回はシズを脳内で犯してる』とアランはのたまっていたのだが、さすがに女性二人を前にそのまま言うほどケンジは馬鹿じゃない。
男のプライドとして、経験済みであろう彼女に童貞を自己申告するわけもないし、アランとしても必死に取り繕ったのだろう。まあ、憎らしいほどにいろいろ出来る奴なので、童貞に相応しくないテクニックを身に着けていたとしてもケンジは不思議には思わないのだが……。
「だからな? ただモテるだけの男にしてみればそりゃ最初の彼女かどうか、童貞捨てた相手かどうかなんてたいしたことないかもしれないが、二十年以上も女に興味持てなかったアランがようやく出会ったのがシズなんだぞ? 尋常じゃない執着を持ってるに決まってるんだ。たぶんあいつにしてみれば、お前が最初で最後の女だって決めてるだろう」
「おおげさな……」
「そうかー? どこもおおげさじゃねぇと思うけどな」
本当はわかってるだろう?とケンジはシズを見つめた。何より、誰より、恋人であるはずのシズが。六年も黙って待っているシズが、一番よくわかっているはずじゃないのかと。
もし本当に愛想を尽かしたのなら、酒を飲んで管を巻く暇もなく、きっとシズは記憶の中からアランという存在を削除してそこで終わらせるだろう。
ことアランに関係しない部分では、大学での通り名のごとく『氷姫』としてバッサバッサとあらゆるものを蹴倒して氷漬けにするほど容赦ない。仕事にも何にしても、シズは本来どこまでも自分にも相手にも厳しい人間なのだ。
それが、アランのことだけは許してしまう。こうやって腹が立ったときにナツコとケンジを呼び出して酒に付き合わせ、一通り吐き出したら次の日には引きずらない。
いつも、いつまでもアランを待っている。帰ってくれば子供のような言い訳や土産話を聞いてやって、べったりくっ付いて鬱陶しいほどに離れずに求めてくるアランを好きなようにさせておく。
それは他人から見れば馬鹿な女かもしれないが、ひたすら健気で可愛く目に映る。きっとアランは、それに甘えているだけなのだ。
「迎えに行ってやれよ。電話もないまま一年なんてあいつにしたって初めてのことだろ? 寂しがりの子供なんだから。あいつ人の見てないところで絶対にベソかいてたぜ?」
これまでなら電話やメールだけは頻繁に欠かさず送り付けていた。それもしなかったということは、やはり何かアランにしかわからない理由があるのだ。宇宙なんていう簡単に行き来できるはずもない空間に、ひょいと身軽に行って帰ってくるよと言えるほどには人間離れしていないのじゃないかと、ケンジはそう思った。
「今回ばかりは折れるのが嫌だって、やっぱり無理だっていうなら、それを伝えに行って来いよ。重力圏に戻ってヘロヘロのところを、二,三発ぶち込んで毒吐いてくればいい。骨も筋力もがっくり落ち込んでるからシズでも倒せるぞ」
「ああ、なるほど。それがいいわ。そうしなさいよ。5万ドルの指輪つっ返して引導渡すのもいいんじゃない?」
「……帰還予定日はあたし、出張先のドイツだもん…………」
「じゃあ何日か後でもいいじゃない。エアメール送ってきた人、ナニさんだっけ。あの人にそう伝えればいいわ。アランに首洗って待っとけって」
「うー……」
とんとんとまとめられたことに何も反論が浮かばないのか、シズは不機嫌な猫のような唸り声でテーブルに額を乗せた。




