『圏外の女は、王宮の帳簿を閉じました』
『圏外の女は、王宮の帳簿を閉じました』
~婚約破棄されたので、十年分の無償奉仕を終了いたします~
シャンデリアの光が、大理石の床に白銀の輪を描いていた。
秋の戴冠記念夜会。
わたしは十年間支えてきた婚約者から、たいへん興味深い言葉を頂戴した。
「思いあがるな、セレスティア! おまえは圏外なのだ!」
「……圏外、でございますか?」
「そうだ! 王家の血統、華やかな社交界、そして真実の愛! そのすべてにおいて、おまえは圏外なのだ!」
第一王子エドワード殿下は、隣に立つ子爵令嬢セリア様の腰を抱き寄せた。
「まあ。それは便利な言葉でございますね」
「何?」
「今後、使わせていただこうかと」
殿下の眉が吊り上がる。
けれど、わたしの頭では別の計算が進んでいた。
北方警備隊への補給承認は明日正午。
東方商業ギルドとの関税協定更新は明後日。
隣国使節団の歓迎晩餐会は三日後。
そして、殿下が先月お買い上げになった純金製の狩猟用鞍。その未払い代金の処理期限が、本日の夜半。
……困りましたわね。
婚約破棄をなさるなら、せめて決算期を避けていただきたかった。
「セレスティア様……」
セリア様が胸元に手を当て、悲しげに目を潤ませた。
「どうかお怒りにならないで。エドワード様は、ただ愛に正直でいらっしゃるだけなのです」
「怒ってなどおりませんわ。ただ、一つ確認させてくださいませ」
わたしは殿下を見た。
「正式に婚約を破棄なさるおつもりですか?」
「無論だ!」
殿下は金縁の羊皮紙を取り出し、わたしの足元へ投げ捨てた。
「本日をもって婚約を破棄する! セリアを新たな婚約者とし、未来の王妃に迎える!」
大広間がざわめいた。
わたしは羊皮紙を拾い上げた。
王家の紋章はある。殿下の署名もある。
けれど、国王陛下の裁可印がない。
しかも、日付が一日ずれている。
わたしの右手が、無意識に腰の筆記具へ伸びた。
そこで、ぴたりと止まる。
……いけません。
これは、もうわたしの仕事ではありませんわ。
「殿下。陛下のご裁可は?」
「父上には後で話す!」
「承知いたしました。では、正式な解消手続きは両家の当主にお任せいたします」
「何をごちゃごちゃと!」
セリア様が一歩進み出た。
「王宮のお仕事なら、わたくしが引き受けますわ! 愛と思いやりがあれば、皆様はきっと協力してくださいますもの!」
「まあ、頼もしいこと」
わたしは微笑んだ。
「では、明朝九時から引き継ぎを――」
「不要だ!」
殿下が叫んだ。
「おまえのしていたことなど、文官でもできる事務仕事だろう! 今すぐ出ていけ!」
「かしこまりました」
わたしは深く一礼した。
「それでは本日をもって、わたくしが私的に担っていた公務補佐を終了いたします。手順書と未処理案件の一覧は、中央執務室に保管してございます」
「好きにしろ!」
わたしは踵を返した。
ふと、左手の薬指に目が留まる。
小さな青い宝石の指輪。
十年前、婚約が決まった日に殿下から贈られたものだった。
『セレスティア。おまえは数字が得意なんだろう? 僕が立派な王様になれるように手伝ってくれ』
あの日の殿下は、少し照れくさそうに笑っていた。
わたしは嬉しかった。
誰かの役に立てることが。
殿下に必要とされることが。
だから、十年間、頑張ってきた。
誕生日も、休日も、熱を出した夜も。
いつか殿下が、わたし自身を見てくださると信じて。
わたしは指輪を外し、近くの侍従へ差し出した。
「こちらも殿下へお返しくださいませ」
「セ、セレスティア様……」
「王家の備品ではございませんから、返却台帳への記載は不要ですわ」
そう告げて、大広間をあとにした。
馬車に乗り込んだ瞬間、手袋の下で指先が震えていることに気づいた。
……寒いのかしら。
秋の夜風は、思ったより冷たかった。
*
「婚約を破棄されたですって!?」
グランヴェル侯爵邸に帰ると、母が扇をへし折った。
ぱきん。
「お母様、お気に入りの扇が」
「扇などどうでもよろしい!」
「昨年、南方の職人に特注なさった三百枚限定の――」
「セレスティア!」
そこへ父が入ってきた。
「セレスティア。殿下に何を言われた?」
「圏外だそうです」
「……何の?」
「王家の血統と、社交界と、愛の」
父は三秒ほど黙り、静かに眼鏡を外した。
「そうか。では、我が家の資金援助も圏外に置こう」
「お父様。婚姻を前提とした信用供与の終了条件は、契約書の第七条にございます」
「……覚えているのか?」
「利率も返済期限も」
「セレスティア」
「はい?」
「今日は帳簿の話をやめなさい」
父は深く息を吐いた。
「娘が傷つけられて帰ってきたんだ。父親に、怒る時間くらいくれ」
母がわたしの手袋を外した。
指先にはペンだこがあり、爪の脇にはインクの染みが残っている。
「また、夜通しお仕事をしていたのでしょう?」
「昨日は決算の確認が長引きまして」
「昨日だけ?」
「……」
「十年間よ」
母の声が震えた。
「あなたは十年間、あの王子を支えてきた。誕生日にも、熱を出した日にも、王宮から呼び出されれば出かけていった」
「必要とされていましたから」
「いいえ。便利に使われていたのよ」
わたしは答えられなかった。
父が窓辺へ歩いていく。
「おまえが十五歳で王宮の予算表の誤りを見つけたとき、私は誇らしかった。陛下もおまえの才能を高く評価された」
「はい」
「だが、誇らしく思うあまり、どれほどの負担を背負わせていたか、見ようとしなかった」
父は振り返った。
「私にも責任がある」
「お父様……」
「おまえの二十歳の誕生日を覚えているか?」
覚えている。
王宮の財務室で、夜明けまで通商協定の書類を確認していた。
机の上には、小さなケーキがあった。
けれど、食べる時間がなかった。
「私たちは、おまえの帰りを待っていた。母さんが林檎のタルトを焼いてな」
「……覚えております」
「翌朝、おまえは帰ってきて、仕事が長引いたことを謝った。自分の誕生日なのに」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
母がわたしを抱きしめた。
「もう、王宮へ行かなくていいの」
「ですが、明日の補給承認が……」
「セレスティア。あなたが休んだからといって、世界が終わるわけではないわ」
その瞬間、目の奥が熱くなった。
「……わたくし、何か間違えていたのでしょうか」
「いいえ。頑張りすぎてしまったのよ」
わたしは母の肩に額を押し当てた。
十年間、誰かの仕事を片づけるために急いでいた。
誰かの失敗を隠し、誰かの期待に応え、数字を並べ続けていた。
その腕の中で、初めて立ち止まった。
そして、ほんの少しだけ泣いた。
*
一方、王宮では。
「エドワードォォォ!」
国王陛下の怒号が謁見の間を揺るがしていた。
「おまえは何をした!」
「父上! 私は真実の愛を――」
「愛の話をしておるのではない!」
国王は机に書類を叩きつけた。
「婚約は王家とグランヴェル家の正式な取り決めだ! なぜ私の裁可もなく破棄を宣言した!」
「ですが、セレスティアは陰気で――」
「陰気!?」
今度は王妃が立ち上がった。
「あなたが外国使節の前で条約の名前を間違えたとき、三か国語で説明し直したのは誰!?」
「……セレスティアです」
「賭け事で作った借金を、国庫に迷惑をかけず整理したのは誰!?」
「セレスティア……」
「分かっているではありませんか!」
国王は頭を抱えた。
「しかも、セレスティア嬢は正式な業務終了通知を提出している」
「それならセリアが――」
「そのセリア嬢は?」
扉の陰から、セリアが顔を出した。
「わ、わたくし、皆様に笑顔でご挨拶しましたわ……」
「それで?」
「関税協定の更新について聞かれて……」
「答えられなかったのね」
「だって! 愛と思いやりでは、税率は決められませんもの!」
王妃は深く息を吐いた。
「そこに気づいたのは進歩です」
翌日、王宮の業務は混乱した。
補給承認が滞り、関税協定の更新は止まり、晩餐会の予算も決まらない。
手順書はあった。文官もいた。
けれど、王子が長年つくり続けた例外案件を、誰がどう判断するか定まっていなかった。
やがて財務官が、一冊の帳簿を国王へ差し出した。
「セレスティア様が十年間に処理された案件の一覧でございます」
外交文書の翻訳。
予算の修正。
各部署の支出監査。
王子の私的債務の整理。
災害時の緊急補給計画。
大小合わせて二千件以上。
「……報酬は?」
財務官は沈黙した。
「報酬は、と聞いておる」
「正式な官職ではございませんでしたので……十年間、無償でございます」
国王は椅子に沈み込んだ。
「我々は、一人の令嬢に何を背負わせていたのだ」
エドワードは帳簿を見つめた。
欄外には、同じ言葉が何度も記されている。
『殿下のご負担にならぬよう、当方にて調整済み』
夜遅くまで灯っていた執務室。
疲れた顔で、それでも微笑んでいた婚約者。
『殿下、お疲れでございましょう。残りはわたくしが』
自分は、何と答えていた?
『ああ、頼む』
ただ、それだけだった。
*
三日後。
わたしは侯爵邸の庭で、金木犀の香りを楽しんでいた。
膝の上には、領地の産業報告書。
王宮の赤字を埋めるより、ずっと胸が弾む。
ただし、今日は午前中だけ。
午後は母とお茶を飲む約束がある。
「セレスティア!」
父が庭へ駆け込んできた。
「王家から使者が来た! 陛下と王妃殿下、それにエドワード殿下だ」
「まあ。正式にお迎えしなければなりませんね」
「……おまえは本当に落ち着いているな」
「実は、少し緊張しております」
「そうなのか?」
「王妃陛下のお好きな紅茶が、ちょうど切れておりまして」
「そこか!」
*
応接室には、重い沈黙が漂っていた。
国王陛下は疲れ切った顔をしていた。
「セレスティア嬢。まず、王家を代表して謝罪する」
「陛下……」
「息子の無礼だけではない。王家は長年、あなたの善意と能力に甘えてきた」
王妃も頷いた。
「私も同罪です。あなたが何でもできるからと、何でも頼んでしまった」
王妃は一度言葉を切った。
「それに、婚約を結んで十年。あなたが二十五歳になるまで、婚儀を先延ばしにしてしまったことも」
わたしは顔を上げた。
「……婚儀、でございますか?」
「ええ。本来なら、あなたが成人したころには正式に日取りを決めるべきでした」
王妃は苦しげに目を伏せた。
「けれど、王宮の仕事は増える一方で、あなたは毎日忙しくしていた。エドワードも『今は婚儀どころではない』と言い続けて……私たちも、それを都合よく受け入れてしまったのです」
胸の奥が、静かに冷えた。
わたしは十五歳で婚約した。
十八歳になったとき、婚儀は翌年に延期された。
十九歳では、隣国との通商交渉を理由に。
二十歳では、王宮の財政再建を理由に。
二十二歳では、北方の凶作を理由に。
二十四歳では、殿下の公務が多忙だという理由で。
そのたびに、わたしは頷いた。
『国のためですもの。仕方ありませんわ』
そう言って、帳簿を開いた。
王家の婚約者という立場だけは与えられたまま、正式な役職も報酬もない仕事を続けていた。
婚儀を迎えれば、王太子妃としての職務や待遇を整える必要がある。
けれど、婚約者のままなら、わたしは善意で手伝っている令嬢にすぎない。
……なんて便利な仕組みだったのでしょう。
「セレスティア」
エドワード殿下が立ち上がった。
「俺が悪かった」
「……殿下」
「おまえがいなくなって、初めて分かった。王宮がどれほどおまえに頼っていたか」
「そうでございますか」
「だから、戻ってきてくれ!」
殿下は深々と頭を下げた。
「婚約破棄は撤回する! セリアとは別れる! 今度こそ婚儀を挙げ、おまえを王妃に迎える!」
わたしは静かに首を振った。
「お断りいたします」
「なぜだ!?」
「殿下は、まだお分かりになっていません」
「何をだ!」
「わたくしが必要なのではありません。わたくしの仕事が必要なのです」
殿下は口を開いたまま固まった。
「それに、殿下」
わたしは微笑んだ。
「わたくし、もう二十五歳でございます」
「そ、それがどうした!」
「この国では、貴族の令嬢の多くが二十歳前後までに婚儀を挙げます。わたくしも、いつかは殿下と家庭を築くものだと信じておりました」
窓の外で、風が金木犀の枝を揺らした。
「ですが、殿下は十年間、わたくしに仕事を任せ続けました。婚儀を延ばす理由は、いつも国のため。わたくしも、そう信じておりました」
「それは……」
「そして、ようやく仕事が落ち着くかと思えば、今度は別の方との真実の愛を見つけられた」
初めて、声が震えた。
「わたくしの十年間は、いったい何だったのでしょう」
殿下は答えられなかった。
「わたくしは帳簿が好きです。数字を見れば、困っている人が分かります。予算を組み直せば、救える暮らしがあります」
わたしは続けた。
「仕事そのものが嫌だったわけではありません。けれど、わたくしは殿下の失敗を隠すために生まれてきたのではございません」
沈黙が落ちた。
「わたくしが悲しいのは、王妃の地位を失うことではありません」
殿下をまっすぐ見つめた。
「十年間、わたくしが何を望んでいるのか、一度も尋ねていただけなかったことです」
殿下は拳を握りしめた。
「……昔、おまえに指輪を贈ったことを覚えているか」
「はい」
「おまえは、あのとき嬉しそうに笑っていた」
「そうでございますね」
「俺は……いつから、おまえが笑わなくなったのか、覚えていない」
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
けれど、それはもう戻りたいという痛みではなかった。
「殿下。わたくしは、今、笑っておりますわ」
殿下が顔を上げた。
「王宮を離れてから、毎日が少しずつ楽しくなりました」
長い沈黙のあと、殿下は頭を下げた。
「……すまなかった」
今度は、言い訳がなかった。
国王陛下が静かに頷いた。
「婚約解消は正式に認めよう。そして、十年間の業務についても、王家として補償する」
差し出された書類には、報酬相当額と加算金、今後の王宮業務の制度整備が記されていた。
わたしは目を通した。
……まあ。
第三項の算定基準に、少々気になるところが。
「陛下。こちらの第三項ですが――」
そこまで言って、口を閉じた。
いけません。
また、いつもの癖が。
わたしは書類を父に渡した。
「お父様。侯爵家の顧問弁護士とご確認くださいませ」
父は目を丸くした。
そして、ふっと笑った。
「ああ。任せなさい」
*
後日、王家との婚約は正式に解消された。
エドワード殿下は王位継承に関する判断を保留され、宰相のもとで実務を学び直すことになったという。
セリア様は王妃候補から外れ、実家へ戻った。
王宮では文官の増員と業務分担の見直しが始まった。
わたしには顧問として戻ってほしいとの申し出もあったが、丁重に辞退した。
今のわたしには、やりたいことがある。
*
秋が深まり、庭の銀杏が黄金色に染まったころ。
わたしは領地の染織工房を訪ねていた。
「お嬢様! こちらをご覧ください!」
若い職人が、新しく織り上がった布を広げる。
淡い青色の生地に、銀糸で小さな花が織り込まれていた。
「まあ……美しい」
「でも、まだ売り先が見つからなくて」
「では、まず販路を――」
わたしは言いかけて、口を閉じた。
「あなたは、どうしたいの?」
「え?」
「この布を、どんな人に着てほしい?」
職人はしばらく考え、それから顔を輝かせた。
「王都の人だけじゃなくて、遠い町の人にも着てほしいです!」
「素敵ね。一緒に考えましょう」
わたしは微笑んだ。
「ただし、あなたの仕事まで、わたくしが全部取り上げたりはしませんわ」
職人は目を丸くし、やがて笑った。
夕方、侯爵邸に戻ると、父が執務室で待っていた。
「セレスティア。領地の予算案を見たぞ」
「いかがでした?」
「よくできている。だが、一つ聞きたい」
「はい」
「休日は、いつ取るつもりだ?」
わたしは固まった。
「……休日?」
「そうだ」
「来月の収支報告が終わりましたら――」
「却下」
背後から母の声がした。
「明日はお休みなさい。お父様と三人で、林檎狩りに行きます」
「林檎狩り……」
記憶の奥に、赤い林檎が浮かんだ。
父の肩車。
母の笑い声。
秋の冷たい風。
そして、焼きたての林檎のタルト。
いつから、行かなくなったのだろう。
「……分かりました」
わたしは帳簿を閉じた。
ぱたん。
その音が、驚くほど心地よかった。
「明日は、お休みいたします」
父が笑った。
母が嬉しそうに手を叩いた。
窓の外では、夕焼けが山々を茜色に染めている。
王宮の圏外には、こんなにも広い世界があった。
「セレスティア」
父が声をかけた。
「明日の林檎狩りだが、馬車の手配は――」
「お父様」
「ん?」
「それは、お父様のお仕事ですわ」
父は目を丸くした。
母が吹き出した。
「まあ、あなた! 娘に叱られましたわね!」
「……そうだな。私が手配しよう」
わたしも笑った。
明日は、帳簿を開かない。
誰の借金も、誰の失敗も、誰の言い訳も、計算しない。
ただ、赤く実った林檎を選び、父と母と笑い合う。
その時間に、値段はつけられない。
愛の圏外に追い出されたと思っていた。
けれど、本当は、わたしを大切にしてくれる人たちのところへ帰ってきたのだ。
わたしは机の上の万年筆を引き出しにしまった。
そして、今日最後の帳簿を閉じた。
今度こそ、自分の意思で。




