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蟻の道

冬物のコートをクリーニングに出すか悩む時期、ようやく歩くのを覚えた(あい)が、川沿いの遊歩道をヨチヨチと歩いていた。

コンクリートが割れた隙間からは、タンポポが鮮やかに黄色く咲いていた。

「暖かくて歩いてて気持ちいいね、藍」

藍の母親、柚子(ゆず)は、手を握って歩いている藍に声をかけた。

「うん!」

コミュニケーションが取れなかった新生児のときに比べ、問いかけに何かしらの返答をくれるようになった藍を見て、柚子は喜びを得ながら歩いている。

向かいからは、柴犬が藍に向かって吠えたので、藍は柴犬に指を差しながら、

「わんわん」

「すみません、覚えたてで」

柚子は、柴犬の飼い主に少し会釈をして、挨拶をした。

「全然構いませんよ、触るかい?」

飼い主の男性は、藍の背丈に近くなるよう、しゃがみこんで藍に聞いた。

「ん?」

触るの意味を理解していない藍は、首をかしげる。

「わんわん、おてて」

柚子が補足すると、藍は笑顔になり、柴犬の顔を覗く。

「わんわんの背中を優しくなでなでするんだよ」

「なでなで」

と言いながら、柴犬の背中を撫でる藍、それを微笑ましく見ている柚子と柴犬の飼い主。

実に平和な、春の昼間。暖かい空気が流れる。

30秒ほど触って満足したのか、藍は柚子の手を握る。

「藍、ありがとうは?」

「あっとー」

小さな体を曲げて、ぺこりとお辞儀をする藍。

「すごいいい子ですね、かわいい〜。こちらこそ触ってくれてありがとうね」

と、飼い主は手を振って挨拶をした。


「藍、そろそろ帰ろうか。お姉ちゃんも帰ってくるよ」

柚子は呼びかけたが、藍の引っ張る手の力が強くなった。

「どうしたの?」

「あー!」

藍が指差す方を見ると、コンクリートの上で、列を成している蟻がいた。

よく見ると、食パンのようなものをみんなで運んでいる。

「アリさんだね」

「アイしゃん?」

「そう、アリさん。みんなで仲良くして、食べ物を運ぶんだよ」

柴犬の次に興味を示した藍は、しゃがみ込んでしまい、蟻の列をじっと見つめる。

お姉ちゃんが帰る時間までに帰れるかな…と思いながら、柚子もしゃがみ込む。


1歳児の最強コンテンツは、木の影、石、水溜まり、蟻と言われるくらいだが、正しくそうなのだろう。

1時間弱も見ているため、しゃがむのに疲れた柚子は、体勢を変えながら藍と蟻を観察していた。

行ったり来たりしながら、巣穴に入っていく様子は見ていて楽しいのだろう。

もう既に小学校の下校が始まっているため、周りには下校中の小学生がたくさん通り、藍が顔を近づけて蟻を見ている様子を「かわいい〜」と言いながら、すれ違っていく。

「あれ?お母さん?」

と、聞き覚えのある声が聞こえ、柚子は顔を上げた。

瑠璃(るり)

藍の姉、瑠璃が声をかけた。

「やっぱりお母さんだ。藍のお散歩?」

笑顔でハツラツに会話しているのを見ると、恐らく今日も楽しい学校生活だったのだろう。

「そう、お散歩。瑠璃が帰る前に家に帰りたかったのだけど…」

呆れて、少しため息をつきながら、柚子は言う。

「あはは!」

そんな柚子を見て、瑠璃は無邪気に笑い返す。

「ねーね、アイしゃん!」

藍は、瑠璃の存在に気付いて、覚えたての蟻を瑠璃に教える。

「わ!すごーい!アリさん覚えたの?いっぱいいるね」

瑠璃はそう言いながら、藍の隣にしゃがみ込み、姉弟一緒に蟻を観察した。

「あ…動かない子いるね」

瑠璃は、動かない蟻を見つけ、そう呟いた。ツンツンと、人差し指でつついてみたが、その蟻は動かなかった。

その様子を見た藍も真似して、蟻をつつく。

「あれ?」

動かない蟻を見て、藍は柚子と瑠璃の方を向く。

「もうその子は生きてないのかもしれないね」

柚子がそう言うと、瑠璃は悲しい顔をして、もう一度その蟻を見た。

藍はその意味が分からないので、もう一度蟻をつついた。

「藍、私が始めたことだけど、それもうやめて」

瑠璃が藍に止めるよう求めたが、藍はやめなかった。

「もう、やめてってば…!」

瑠璃は力強く、藍の手を引っ張って抑止した。

急に強く引っ張られた藍は驚き、その場で「あーーーーーん」と声を上げて泣き始めてしまった。

「瑠璃!」

柚子は、泣き始めた藍を抱き上げながら、瑠璃に向かって強く名前を呼んだ。

「ご、ごめんなさい…でも…」

口ごもりながら、合わせて握った手は少し震えている。

「藍に強く引っ張ってしまったことは謝って欲しいな」

「藍、ごめんね…」

泣きながらも、瑠璃の謝罪に対して、藍はコクリと頷いた。


「帰ろうか」

藍を途中まで連れてきたベビーカーに藍を乗せた。

その間、瑠璃はベビーカーを押さえていてくれていて、瑠璃の優しさに嬉しくなる柚子。

我ながらいい子育てをしているとなぜか自慢げになってしまうのを日々抑えている。

昼間だった空は、西の方は既に夕暮れのオレンジ色を纏い、雲はゆっくりと流れていた。

柚子と瑠璃は手を繋いで歩く。

「今日はどんな宿題が出たの?」

「うん、音読と漢字練習」

「音読か〜、帰ったらお夕飯作る前にやっちゃおうか」

「うん」

瑠璃は少し俯きながら、柚子の握る手を強める。

「…おじいちゃんのこと思い出しちゃった?」

今年の冬、父方の祖父が亡くなり、動かなくなった人を見たのは初めての経験だった。

柚子の親戚はまだ存命しているため、柚子自身も身内が動かなくなるのを見たのは初めてだった。

2人して泣いたのが昨日のことのように思い出される。

「こんな子がお嫁に来てくれるなら、陽介(ようすけ)の人生も安泰だな!」

と、太陽のような笑顔で受け入れてくれ、瑠璃や藍が産まれると、こんなに?と若干引くくらいのオムツや、お洋服を会う度に贈るような人だった。

義父のことを思い出し、歩きながら見ているアスファルトが少し歪む。

少しの沈黙の後、瑠璃は「うん」とか細い声で答えた。

「最後に触ったおじいちゃん冷たかったよね」

危篤からの心拍停止が早く、危篤の連絡をもらってからすぐ病院に向かったが、死に目に間に合わなかった。

できれば、温かい祖父に触ってから、最後の挨拶をさせてあげたい親心が柚子にはあった。

「蟻も冷たくなる?」

生物学を全て理解しているわけではない柚子は返答に困りながらも、

「うーん…。人間みたいに恒温動物ではないし、変温動物だから、死んでも冷たくはならないかも」

「へんおんどうぶつ?」

「難しいよね。私も昔理科で習っただけだけど、恒温動物って言って、ずっと体温が一定なのが人間とか、哺乳類なの。変温動物は、昆虫とか、爬虫類、両生類に多いかなぁ」

「呪文?」

絞り出した知識を愛娘に教えたが、「呪文?」と返され、少し悲しんだ柚子は、「いずれ分かるよ」と瑠璃に返した。

「いつ習うんだろう〜」

と言いながら少し笑った瑠璃を見て、柚子は安堵した。

「中学生かな」

「まだまだ先だ!」

「思ったよりすぐ中学生になるよ」

「嘘だ〜」

「小学校生活も、中学校生活もすぐ終わっちゃうよ」

「絶対嘘!」

「嘘じゃないって」

そんな会話をしていたら、ベビーカーに揺られていた藍は静かに寝息を立てていた。

西のオレンジ色の夕暮れはさらに濃くなり、東の空は深い青色に変わり始めていた。

「今日何食べたい?」

「シチュー!」

「あったまりそうだね」

まだ夜は肌寒く感じるこの季節。家族みんなのために温かいシチューを作って、旦那の帰りを待とうと柚子は顔を上げ、背筋を伸ばし、アスファルトの上を歩いた。

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