4.帰してくれるというけれど
「竜は――俺は、人を食わねえ。要求したことだって一度もねえぞ」
竜は深く息を吐き、長い首を左右に振った。
その仕草といい、ぶっきらぼうな口調といい、妙に人間味がある。
「じゃあ……じゃあ、私のこと、食べない?」
おそるおそる尋ねてみる。
「だから食わねえって。何度同じことを繰り返せば理解するんだ、人間どもは。しかも花嫁って何だよ、気持ち悪い」
同じこと。
そうだ、私の前にも「花嫁」、もとい生贄がいたはずなのだ。
「あの……私の前の花嫁さんたちは、どこに行っちゃったんですか?」
「決まってんだろ、送り返した。どいつもこいつもギャアギャア喚いてうるせえし、俺は人間が嫌いだからな」
そう言って、おもむろに片足を上げる。
巨大な鉤爪のついた足が、ドン、と石のステージを踏んだ。
「……!!」
ステージいっぱいに、銀色に輝く渦が出現する。
呆気にとられていると、手足を戒めていた縄がブツリと勝手に切れた。
「お前も帰れ」
静かな声で、邪竜が言った。
「え……」
「この渦は、お前の行きたい場所に通じる門だ。飛び込めば、もといた場所に帰れるぞ」
「うそ!?」
上体を起こし、渦をみつめる。
(あの渦へ飛び込めば、帰れるっていうの?)
元の世界。東京。
帰れる。いつも通りの日々に。
それはこの上なく喜ばしい、はず。だったけど。
思い浮かぶ、「いつも通りの景色」たち。
朝の満員電車。
タスク満載のパソコン画面。
クレーム対応で怒鳴られ罵倒され、事務作業で深夜まで残業して、疲れ果てた体で辿る帰り道。
冷たかった家族。誰も待っていないワンルーム――。
「……ん?」
邪竜が首を傾げた。
「おかしいな、渦に何も映らねえ。お前の頭の中に帰りたい場所が浮かんでいれば、そこに繋がるはずなのに……」
大きな足が、焦ったように再び石の舞台を踏む。
やっぱり、渦には何も映らない。
「どういうことだよ、これ。門が開かねえ……」
呆然と呟く声が聞こえたけど。
そうだ。私には、帰りたい場所がないんだ――
「大丈夫か、お前」
ちょっと引いた感じで、邪竜が尋ねる。
私の頬を涙が伝い落ちたからだ。
光の渦が消えていく。
なにひとつ景色を映さないまま、どこへも繋がらないままに。
黙って涙を流す私を前にして、邪竜は黙りこくっていた。
その顔からは、表情の変化なんて殆ど読み取れない。でも、何かを考えているのが伝わってくる。
そして。
信じられない事態が起こった。
「……え、え!?」
竜の体が、みるみる縮んでいくのだ。
体高が半分になり、四分の一になり、横幅も縮んで――ていうか、体ぜんぶが変化してる?
やがて竜は、完全に姿を変えた。
いま目の前に立っているのは、ひとりの青年だった。
漆黒に、ところどころ金色のラインが混じる頭髪は、邪竜の鬣の色そのままだ。
人間の男性、に、見える。
年齢も、わたしとそう変わらないだろう。
ただ、頭部には二本の角が生えているし、袖のない上着から覗く腕の上部は黒い鱗に覆われている。
そして――その顔立ちは、おそろしいほど整っていた。
切れ長の目、通った鼻筋。額には、ごく小さな星のような形の紋様が浮かんでいる。
異形。だけど、美しい。
彼の容姿を表現するなら、ほかに言いようがなかった。
「帰る場所、ないのか」
少し前まで竜だった青年が、困ったように問いかける。
すぐに答えが出なかった。あまりの出来事に頭がついていかない。
青年が、こちらへ向かっておもむろに手を伸ばす。
「……っ」
何をされるのかと思わず身を固くしたわたしの目の下に、青年の指が触れた。
もしかして、涙を拭ってくれてる……の、かもしれない。
でも、すぐに訝しげに目を細め、彼は私の顔を覗きこんだ。
「ん? おまえ、どこかで会っ……あ、おい!」
青年の慌てた声。
がくん、と膝から崩れた私を抱きとめる腕を感じたけど、現実かどうかはわからなかった。
体の力が抜ける。視界が白く曇る。
もう、なにも聞こえない。
――ああ、そうか。これは夢なんだ。
なんなら異世界召喚のあたりから全部、夢。
だって、竜なんているわけない。竜が喋るなんて、ありえない。
しかも、その竜が人間になるなんて、現実であるはずないもの――。




